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二話 八百屋の柱時計

「最近、どうも売り上げが悪いんだよなァ」


 カウンター前の小さな丸椅子に腰掛けて、日焼けした腕を組んだまま男がうなるようにひとりごちった。鶴子もよく行く八百屋の五郎だ。見慣れた木綿の作業着に青い前掛けをしている。仕事の合間に抜けてきた様子だった。

 

「そうですか? いつも通りに見えますけどね」


 作業机に五郎から預かった懐中時計を置く。鶴子は着物の袖を紐で縛ると、道具棚から古びたドライバーをいくつか取り出した。時計屋の道具は、どれも先代が使っていたものだ。机は傷だらけで、そこかしこに散った油の跡がまだらに黒いシミを作っている。手元灯をつけるとより一層長年の汚れが際立った。


「こっからじゃ少し遠いが新しい青果屋ができたろ。みんなあっちのが安いっつってさァ」

「え、そうなんですか」


 それはどこですか、と口を開きかけた鶴子だったが、五郎に睨まれて大人しく黙った。

 

「ったくよォ。うちの方が鮮度いいもん仕入れてんだってのに」

 

 はあ、と大きなため息を漏らす。身体も態度も大きいが、繊細な男である。


 今日はいつも自慢している懐中時計を持って、鶴子の店を訪ねてきたところだった。壊れにくさが売りの、軍の払い下げのものらしいが、どうにも調子が悪いと言う。二重蓋を開けてみると鉄の酸化した独特の匂いが広がる。

 中を見ていくと歯車の合間に薄く錆びが浮いていた。薄い布切れを広げて、そっと小さな部品を取り出していく。

 ふと思い立って、ちらと五郎を見た。


「……なら、試してみます? 結び細工」


「あ? カミさんも言ってたが、ありゃあ子供だましみてェなもんじゃねえのか?」


「まあそんなものですけど、評判はいいんですよ」

 

 油差しの口を布に当て、ちょんとひと滴だけ染み込ませるとツンとした匂いが目と鼻を刺激する。ぱちぱちと瞬きをして、部品を優しく撫でるように拭いていく。鶴子はこの瞬間が一番好きだった。


「これにやってもいいですけど、店のことなら……お店に柱時計置いてましたよね。あっちにやった方が効果は出ると思いますけど」


「ううん、まあ物は試しかね」


 唸るように腕を組んで五郎は考え込む。もう一声かければいけるだろう。


「お試し価格にしときますよ。この後そっち行きましょうか」


 他に誰もいない、静まった店内を見る。売り物の置き時計や懐中時計が並んでいるだけだ。もっとも、客がいないのはいつものことである。


 綺麗になった部品を手早く戻して蓋を閉めた。リューズを巻いてから銀ケースを開けると黒い文字盤の上に、太くて白い針がチチチとすべらかに時間を刻んでいる。時間を合わせてから、ご自慢の時計を持ち主に返すと、納得したように頷いていた。


「ツルちゃんも先代みたいに慣れたもんだなァ。じゃあ、その結び細工ってヤツも頼むよ」


「毎度あり!」


 鶴子はにやりと笑って立ち上がる。


 ふたりして店を出ると、左手に背の高い男が立っていた。箒を手にして、石畳に溜まった落ち葉を集めている。


「げ!」


 飛び出してきた虫を見つけたときのように、反射的に低い声を漏らして背中を仰け反らすと後ろをついてきた五郎に思い切りぶつかった。


「なんだ。ひとの顔見て失礼だな」


 箒を掃きながら目を細めて鶴子を見てきた。まるで周りに蚊が飛んできたような目をしている。フミのいる喫茶店とは逆隣りの《骨董古賀堂》の息子だ。今はひとり店主らしい。


 その古賀伊織という男は、鶴子がこの世で嫌いな人物を聞かれたら率先して挙げる人物だ。今日は墨茶の着物に細い角帯をそれとなく締めている。よく言えば着流し、悪く言えばだらしがない。伸びた髪もあちこちに跳ねたままだった。鏡など、見たことがないのかもしれない。


「なに揉めてんだ。昔はあんなに仲良かったのによォ」後ろから五郎が呆れた声を出した。


「そんな……いつの話しですか!」


 拳を握り締めて抗議する。十を越える頃にはすでに鶴子の嫌いな人物一覧に載っていたというのに。この町の者はすぐにこうやって幼少期の頃の話を引っ張り出してくる。


 ザリザリと箒を掃く音が続く。鶴子のことなど無視して、伊織はすっかり落ち葉を掃く作業に戻っていた。

 澄ました表情でどうでもいいです……みたいな態度が一々癪に障る。見ているだけで、どうにも腹の底からふつふつと苛立ちが沸いてきた。

 

「なあに怒らしてんだよ、古賀の倅は。女の子にはすぐ謝んねェと一生根に持たれるぞ」

 五郎は降参と言わんばかりに両手を上げた。


 ──お兄さんはあんなに素敵なのに……コイツときたら……!


 すらっとした高い背丈は町中でも目を引くようで、子供の頃に比べて随分大人びた顔も相まって奴の容姿を町の奥方衆がこぞって褒めているのも、鶴子の反感を買っている一因である。


「もう行きましょう!」


 ふん、と息を漏らして当初の目的であった八百屋へと向かう。五郎は「まったくよう」と頭を掻いた。

 夕凪橋通りはまだ昼を過ぎたばかりで、通りを歩く人は少ない。平日は夕方までこんな調子だ。


「そういや、こないだ隣町の魚屋が店閉めちまったらしい。あそこの大将、ずっと売上が落ちててなァ」


「最近はどこも大変なんですねえ」


「変な客も増えたとかって言ってたなァ」


「へえ?」


 鶴子が続きを問い掛けようとする前に、八百屋に着いてしまった。五郎の妻が奥で帳簿をつけているのが見えた。


「こんにちはぁ」


「あらぁ、ツルちゃん。アンタなんで連れてきたのよ」


 不思議そうな顔をして、ふたりの顔を交互に見た。その目は鶴子が抱えた道具箱で止まる。


「いやちっとなァ」


 五郎は気まずそうな表情を浮かべて、首の後ろに手を回した。


 押し売りに負けたなんて言ったら怒られてしまうかもしれない。少しだけ五郎のことを心配しつつも、店の真ん中に置かれた柱時計の前に立つ。古いが立派なものだ。大きな振り子が小気味よく揺れている。木製の側板には所々にぶつけたような跡が残っており、艶のある塗装が剥げていた。


「どうせまた妙なこと持ち込んだのよ。うちの柱時計は私が毎朝拭いてるんだから、壊れるわけないでしょう!」


「磨いたって変わんねェだろ」


「何言ってんの、アンタがいつも乱暴に物ぶつけるから! 今朝もぶつけてたじゃない!」


 堰を切ったかのように五郎に詰め寄る。大きな身体を縮めて小さく万歳をしていた。その目は、そっと八百屋の奥に向く。


「いや、そりゃアイツがよォ……」


 視線の先を追うと、棚の奥に隠れていた小さな子供が胡瓜をかじっていた。鶴子は思わず吹き出した。

 

「まあまあ、今日は修理で来たんじゃないんですよ。ちょっとお試しで細工することになったんです」

 

 喧嘩するほど仲が良いとは言うが。鶴子は五郎の嫁に努めて笑顔を向けると、道具箱を床に置いた。着物の袖が垂れているのに気づいて、取れかけていた紐を結び直す。

 ドライバーを取り出して、柱時計の扉を開ける。ぐっと押し込みながら文字盤のねじを外していった。外れた盤を布切れの上に置いて、中を覗き込むと裏に組み込まれた細かな歯車の精密な動きに息をのんだ。

 古いけれど、磨きが細かい。職人の手仕事につい引き込まれた。


 ふうと息を吐き、上を見上げる。格子が組まれた天井。シミの数を数えているうちに、頬を撫でるような肌触りの悪いざわめきを感じた。

 それに目を向ける。何もない、いつもの青果が並ぶ八百屋の風景だった。


 ――五郎さんのとこ、商売繁盛頼んだわよ。


 そっと宙を掴んで歯車に手を向けると歯車の前でそのざわめきは、すっと消えた。


「なんだ?」五郎は不思議そうに鶴子の様子を窺う。


「終わりましたよ! 戻しちゃいますね」


 文字盤を元の位置につけ直していく。てきぱきと作業を終え、道具箱を持ち上げた。


「それじゃあ、繁盛させてくださいね!」


 店から出ようとすると、小さな子供が店先を走っていた。

 

「キヨシ! だめよ!」


 母親らしい女性が下駄を鳴らして追いかけている。

 子供は大きな笑い声を上げて、走りながら母親の方へ振り向いた。ちょうど、向かいの角からやって来た老婆に派手にぶつかる。

 大きな音を立てて転んでしまった老婆の元へ行き、起き上がるのを手伝った。


「あらあら、ばらまいちまったねぇ」


 腰を抑えながらも、子供を見て眦を下げている。


 すぐに「すみません……」と申し訳無さそうに母親も駆け寄ってきた。道のあちこちに、小さな包みと小銭が盛大に散らばってしまっていた。


 「ありゃりゃ」と、五郎たちも寄ってきて全員総がかりで落とし物を拾い始める。横で笑っていた子供が母親に叱られて、むずがりながらも手伝い始めた。子供に対して首元まで文句が出掛かったが、少しだけ大人になって口を閉ざすことにする。


「すぐ小銭ばっかになっちまって、やだねぇ」

 老婆は腰をトントンと叩きながら、拾い集めた小銭を受け取った。両手いっぱいに銅貨と少しだけ銀貨が混じっている。


「そうだ。大将、これで買えるだけ野菜をおくれよ」

 閃いたといった顔で五郎をみる。


「ええ、ばあさんそんなに食えないだろ」


「いや、今夜孫たちが帰ってくるんだよ。鍋にでもすりゃいいってさ! 余ったら土産に持たせりゃいいわ」

 五郎の肩を叩いてけらけらと笑った。


「鍋ねェ……」


 五郎は眉をハの字にしながら、青果を籠に入れ始める。ふと、鶴子が見ているのに気づいたのか目が合った。

 

「効果ありましたね」

 鶴子はにっこり笑って店を後にした。



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