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六話 七輪

 店の裏側の台所を抜けて勝手口を出ると、軒の深い土間がある。鶴子は盆に徳利としけたアジの干物を並べると、意を決してそちらへ出た。先に提灯を置いて七輪の準備は万全に済ませておいた。七輪の中では、パチパチ赤くなった炭が鳴っている。



 ――この忌々しい存在、酒のアテにして成仏させてやるわよ!



 外に置きっぱなしの小さな木製の椅子を七輪の近くに並べる。雨風に晒されて出来てしまったささくれが指に刺さった。だが、鶴子にとってはそんなこと、些末なことである。もうすでに昼に転んだとき、思い切り擦りむいているのだ。盆を置いて自分もどっかり腰掛けた。


 徳利を七輪の縁にちょんと置いて、網の真ん中に干物をのせる。

 温まるのを待ちながら、干物を置いていた皿の下から一枚の紙を取り出した。例の色紙だ。手に持って見ると、気味の悪い悪魔が鶴子を見て笑っている。


 無言でそれを縦に裂いた。一回、二回……思う存分細かくすると、網をどけて火箸で細かい色紙をつまんだ。それを炭の隙間に差し込んでいくと、すっと色紙が丸まりながら黒く変色していく。

 気が付くと、自分の笑い声が漏れていた。



「不気味な奴だな」


 つい先ほども聞いた声がかかる。伊織が暗がりの中、隣りの勝手口から覗いていた。



「なにしてんだ」


「夢を燃やしてんのよ」



 鶴子は網をのっけ直す。

 温まった徳利を布巾で持って、ぐい呑みにとくとくと注ぐ。ほんのり湯気が立った。クイと一気に呑む。体温よりも温かくほんのりと甘い、喉に優しく焼き付いた。もう一杯、と注いでまたクイッと空ける。



「かーうまいねえ」干物を返しながら、ひとり笑顔を浮かべた。


 すると、隣りでカタカタと音がしたかと思うと伊織が近くまでやってきた。何やら新聞紙の包みを持っている。



「なにそれ」


「余りもんだ。ついでに焼いてくれ」


 渡されたものを広げて見ると、竹輪が四つ入っていた。そのまま伊織は椅子に腰掛ける。



「アンタにしては気が利くじゃない」



 ツマミが増えるなら、少しくらい嫌いな奴がいてもいいだろう。自然と笑みが零れていた。



「寒いのによくやるよな」


「バカね。寒いから旨いのよ」



 一旦立ち上がり、竹輪を椅子に置いた。台所に向かい、ぐい呑みと箸を一つずつ取り出す。今日は少しだけ伊織に引け目がある。酒で貸し借りなしと願いたいところだ。


 すぐに戻ると、伊織は干物のまわりに竹輪を並べていた。



「はい、これ」ぐい呑みと箸を渡すと、なぜか箸だけ受け取った。


「そっちはいい」


「は? 私の酒が呑めないの?」


「いや、そういうわけじゃない」



 鶴子の視線を避けて、伊織がちくわを返すとぷくりと焼けていた。干物の焼ける匂いが熱気と共に広がっている。



「へえ、イオリったら……呑めないの? あらあら、おこちゃまなのねえ」



 にやにやと笑みを浮かべて、持ってきたぐい呑みにあふれんばかりに酒を注ぐ。伊織に渡すと心底嫌そうな顔を浮かべていた。



「じゃあ一杯だけな」


 頬を引きつらせながら受け取ると、少しだけ躊躇って軽く口をつけた。



「一気に呑むのよ、こういうのは!」


「……好きに呑ませろ」


「まったく、張り合いがないわぁ」



 茶々を入れながら干物に箸を通す。しなびていた干物だが、箸で軽く押すと簡単に身がほぐれた。



「あつっ」ホクホクとした身とアジの脂が口の中でほどける。酒を呑んでまた干物をつまんでと、しばらく至高の時間を味わった。


 隣りで伊織も同じように干物をつまんでいる。



「うめえな」


「ほら、空いてるわよ」


 置かれていたぐい呑みに、またトクトクと酒を注ぐ。



「自分で呑めよ……」


「竹輪も美味しいわねえ」



 少しだけ焦げた竹輪を噛むと、じゅわと魚の旨味が口に広がった。焦げた表面が香ばしい。鶴子は目を閉じたまま、ぷりぷりと噛みしめて味わった。



「お前だってこないだ二十歳になったばっかじゃねえのか? よくそんなに呑めるよな」



 竹輪をつまんで呆れた顔を向けられる。その顔は、顔から首まで赤くなっていた。憎まれ口を叩いているのに、真っ赤な顔じゃ説得力がない。その姿がどうにもおかしくて吹き出しそうになったが、なんとかこらえた。



「うちはみんな呑んべえなのよお。それにしてもイオリが下戸なんて……ふふふっ」

 こらえてはいたものの、身体が揺れてしまう。


「……うるせえな」



 赤くなった顔を隠すように伊織は背を向けた。

 鶴子はそれを見て、けたけたと笑う。すっかり呪いの絵など忘れてアテを楽しんでいた。




 ❖ ❖ ❖




 昼過ぎ、鶴子は片手に下駄を持って夕凪橋通りを歩いていた。例の鼻緒が切れた下駄だ。



 長いこと履いていた下駄だった。鼻緒くらい定期的に変えないと、持たないものだなと今回大きな教訓を得られた。しばらくすると「履物屋猪口」の看板が目に入った。開いた戸の先に、下駄や雪駄が並んでいるのが見える。鶴子は店に入って声をかけた。



「こんにちはぁ」


「あらあら、ツルちゃん」



 奥から女が出てきた。履物屋の女将タエである。前髪を軽く流して、二つ折りにまとめた髪を簪で留めていた。



「鼻緒が切れちゃいまして」


 手に持った下駄をタエに渡そうとすると、奥の戸から軋んだ音を立てて男が出てきた。



「おう、ツル」ギョロ目を動かして鶴子の手元を見る。


 背が高く、いつ見ても赤い着物を身に着けていて一目で誰だかわかる。この店の店主で彦兵衛という。今日は唐草模様の鮮やかな赤い着物を着こなしていた。



「なんだ。切れちまったか……こりゃ《断ち》だな。女の厄ってぇのは、まず鼻緒から落ちていく。知らんか?」


「はあ、落ちたんなら良かったです」



 適当に相槌を打って、彦兵衛に下駄を渡した。彦兵衛は、鼻緒が並んだ棚へと向かうとまた口を開いた。



「この白木の下駄なら赤が似合うな。赤はなぁ、活力の色だ……赤でいいか?」



 また大きなギョロ目を鶴子に向ける。貴婦人の房子とは違った、有無を言わせぬ迫力がある。房子との違いは、まったく怖くはないといった所だろうか。



「はあ、お任せします」


「彦さん、ちょっとまた勝手に赤にして! ツルちゃん、好きな色言いなさいな」


「なんでもいいですよ……」


 赤だろうが青だろうが好きにしてくれと思いつつ答えた。棚を見ると半分以上は赤い鼻緒だった。無地や柄入りで様々に趣向をこらしたものが並んでいる。



「もう、みんなそう言って結局赤にされちゃうのよ」タエが呆れた声を出す。


 普段は少しだけぽっちゃりしているタエだが、いつもよりアゴまわりがすっきりしているように見えた。



「あれ、タエさん少し瘦せました?」


「あらあら、わかる? そうなのよお」顔を綻ばしてタエが言った。


「顔まわりがすっきりしてますよね。こないだの細工が効いたのかしら……」



 つい先日、和菓子屋の前で奥方衆に追い詰められたことを思い出した。タエはあの内の一人だった。鶴子の顔を不思議そうに見て、左手を頬に添えながら首を傾げた。



「細工?」


「うちの店で痩せるおまじないしていったじゃないですか?」


 もう一度聞くが、変わらず不思議そうな顔を向けられた。



「私、ツルちゃんのお店、しばらく行ってないわよね? 誰かと間違えてない?」


「え?」



 二人で見つめあい、なんとも気まずい時間が流れる。

 フミたち四人の奥方衆に囲まれたことを、はっきり覚えていた。あの後、四人に急かされながら結び細工を施したのだ。覚えてないなど言わないでもらいたい。


 ただ、タエの表情は隠しているようにも、すっとぼけているようにも見えなかった。まるで本当に覚えていないようだ。なんだか悪寒を感じて肌が粟立つ。妙な汗を流していると、横から彦兵衛がぬっと下駄を差し出してきた。



「すげ替えおわったぞ。履いてみるか」


「ありがとうございます」



 履いて来た下駄を脱いで、赤い鼻緒の下駄に履き替える。少し歩いてみても特に問題なさそうだった。



「色、気に入らなかったらまた来てちょうだい」


「ええ……また来ますね!」


 鶴子は気を取り直したようにふたりに笑い返す。



 ――記憶がなくなった分、痩せた……とか? そんなバカな……。



 両手に履いて来た下駄をぶら下げて、鶴子はなんとも言えない顔で店へと帰った。


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