十話 下駄
「はあ……」
鶴子は作業机に突っ伏して大きくため息をついていた。
あれから噂を聞きつけた町中の奥方衆から、町娘にいたるまで数多くの女が時計屋に駆け付けて大変な騒ぎとなった。今は立て看板に《新規依頼停止中》と大きく張り出して戸の前に置いている。
おかげさまで青い本も一向に見つかっていない。
女たちにどこかで見なかったかと聞いても、皆一様に首を傾げるだけだった。鶴子は修理待ちの棚を見て、またひとつ大きくため息をつく。
どれも痩せるおまじないの依頼を受けた懐中時計だ。これらすべてにアヤカシ詰め込めるほど、この辺りにアヤカシが溢れているのか疑問である。アヤカシも品切れしてしまうのではないだろうか。不安になって周りをみたが、しんと静まったいつもと変わりない寂れた店内だ。そんなことよりも、と本来の目的を思い出す。ばっと立ち上がって拳を握った。
「捜索に行かないと!」
一カ所だけ思い当たる場所があった。木を隠すなら森の中。本を隠すなら本の集まる場所、夕凪橋通りには貸本屋がある。
仕事をほっぽりだすことにして、入口の戸に不在票をかけると外に飛び出した。昼下がりの人通りの少ない道を下駄を鳴らして進む。少し行った先で小さな橋を渡ると件の貸本屋が見えた。本好きの鶴子が通い詰めている店でもある。
格子戸を開け放したままの店内を覗き込むと、土間に並んだ椅子に見知った娘が座っていた。雑誌を広げて顔を隠しつつも、奥の方を熱心に見つめている様子だった。
「夏子、アンタこんなとこで何さぼってんのよ……」
自分のことは棚に上げて、呆れた顔を向ける。雑誌が並ぶカウンターには団子が置かれていた。おそらく夏子が持ってきたものだろう。
「しっ! 静かに……!」
人差し指を口元に当てて、素早く立ち上がった夏子が一気に目の前に迫る。そのまま外へと押し出された。
「なによ」
「起こしちゃうでしょ!」勢いはそのままで囁くように言う。その目は今まで見たことがないほど迫真なものであった。
「はあ?」
店の奥に目を向けると、小上がりの座敷で腕を組んだまま舟を漕いで寝ている店主がいた。一郎である。
「私、恋……しちゃったの」
突然、ほんのり赤く染めた頬に右手を添えながら語り始めた。
「本って苦手だったけど、一郎さんがいるならもっと早く来るべきだったわ……こないだね、雑誌の特集でアヤカシ対策ってあったでしょう? あれを読みに来て、そう、それが運命の出会いだったのよ……!」
びっくりするほど、どうでもいい。うっとりと瞳を閉じて熱く語る夏子をよそに、カウンターの上に並ぶ雑誌を見る。ここらへんに紛れ込んでいないかと思っていたが、残念ながら青い本は見当たらなかった。
鶴子は遠い目をしてため息をついていると、雑誌の脇に置かれた団子が目についた。みたらし団子だった。それにそっと手を伸ばすと串から塊を一気に三つ、歯で引き抜いてもちもちと噛み締める。馴染み深い、いつもの三好屋の味だ。柔らかい団子を包むタレが口の中でとろとろと溶けた。
「あのハゲ親父のどこがいいのよ」
団子を飲み込んで鶴子は言った。寝ている一郎を見ると、前髪や頭の回りにはまだ白髪混じりの髪が残っているが、てっぺんは艶やかに光りを反射している。
「バカね! あれが大人の色気ってもんよ」
フフンと鼻を鳴らしている。この幼馴染は少し頭のネジが飛んでいる。バカはアンタだ、と呆れた顔を向けるも一郎に熱い視線を戻している。この隙にもう一本も頂いてしまおうと団子に手を伸ばした。
「なんだい、二人して。店はどうした?」
後ろからしゃがれた声が聞こえた。振り向いてみると煙草屋の達郎だった。腰を曲げて、杖をついている。
「昼休憩よぉ」夏子が答えた。
「ああ、そういやツルちゃん。駅に忘れもんしてねえか?」
「……え?」
「待合所に、なんだったか……汚い字の練習帖が置きっぱでな。賑やかな絵も挟まっとったわい」
ワハハ、と豪勢に笑っている。青い本の表紙には《習字練習帖》と書かれていた。
「それよ!!」
目を見開く。気付けば走り出していた。突然の大声に、後ろで夏子が慌てていた。
「ちょ! ちょっと、起きちゃうじゃない!」
一体、誰がそんなところに置いたのか。
石畳の道に下駄を叩きつけながら、夕凪橋通りを走り抜ける。よく知った顔が何人も店から不審気に目を向けてくるが、気にせず息を上げながらも全力疾走した。
――あんなもの……絶対っ、すぐに消し炭にしてやる!!
怒りを動力にしばらく走ると駅が見えてきた。ちょうど駅から鉄道が出るところで、蒸気を大きく吹き出す音がした。駅から出てくる人をかき分け、鶴子はそのままの勢いで小さな階段を上って、待合所に滑り込んだ。
ベンチの後ろの棚に雑誌や本が置かれている。人がいたが鶴子はお構いなしに片っ端からそれを漁る。本の間に青い布張りの物を見つけて引っ張り出した。固唾を呑んで表紙を見ると、見覚えのある習字練習帖の文字が記されていた。
感動の再会である。鶴子はひしっと本を抱き締めた。
「何やってんだ?」その時、後ろから聞き覚えのある声がかかった。
「げ」
伊織だった。いつものもったりとした頭で、着物の上から黒い羽織を着ている。本を抱きしめたまま、眉を寄せていると伊織の視線が本に向かった。
「なんだそれ」
「アンタに関係ないでしょ」
すました顔をして、カンカンと下駄を鳴らしながら待合所を出て階段を下りる。
「ぎゃっ」最後の一段で思い切りつまずいて、盛大に転んだ。
いてて、と起き上がる。半纏を着ていたおかげで大きな怪我はなかったが、手のひらを擦りむいていた。赤い血が滲んでいて、動かすとぴりっとした痛みで顔が歪んだ。
「大丈夫か? というか、なんでそんなもんが駅にあったんだ?」
上から伊織の声がした。見上げると、鶴子よりも前の方を見ていた。視線を追うと、例の本が広がって落ちている。よりにもよって例の色紙が貼られたところが全開となっていた。
唇が震える。よりによって伊織に見られるとは。あまりの恥ずかしさに全身から汗を噴き出していると、伊織が手を差し出してきた。
「立てるか?」
「立てるわよ!!」
その手を無視して、這いつくばって本を閉じた。
厄日だ。いや、すべてこの絵のせいである。
穴があったら今すぐ入って蓋をしめたい。泣きたくなる気持ちを抑えて鶴子はまたその本を胸に抱えた。
「おい、ツル。鼻緒切れてんぞ」
下駄をつまんで、ぷらぷらと揺らしている。起き上がって足元を見ると片方だけ脱げていた。転んだ拍子に脱げたのだろう。
「いっつも走ってばっかいるから切れたんじゃねえの」
「そんなに走ってないわよ!」
言われてから気付いた。先ほど駅から降りてきた人並みの中に頭がぼさぼさなやつがいたような……鶴子は眉を寄せて記憶の糸を手繰り寄せる。
いつから見ていたのだろうか。下手をすれば、こないだ宗一郎との待ち合わせで走っていたことも、書生を追いかけていたことも聞いている可能性すらある。
あり得なくもない。そう思った瞬間、首まで熱くなる。いずれにせよ、伊織の前でとんだ恥を晒した自分が居たたまれないのに変わりはない。
百面相を続ける鶴子の近くに寄ってきて、伊織は背を向けてしゃがみ込んだ。
「ほら」
「……なによ?」
「いや、おぶってく」
「は? 歩けるわよ!」
「足袋も汚れちまうだろ? どうせ俺も帰るとこだし」
ちらと鶴子の足元を見ると、背中に手を回して「早くしろ」と急かした。
「けど私重いし……」
「すぐそこだろ。良いからのってけ」
鶴子は迷って片割れの下駄を脱ぐ。ひんやりと冷たい石畳の温度が足袋越しに伝わる。風が吹くと、噴き出した汗が今更になって鶴子の身体を冷やしていた。
石畳に打った身体が段々と鈍い痛みを主張し始めてくる。コイツの世話になるのは癪であるが。
「じゃあお言葉に甘えて……」
伊織の肩におずおずと手をのせて体重をかけた。そのまま首元に近付くと、石鹸の香りがふわと鼻をくすぐった。
どこかで嗅いだ匂いだ。眉間を寄せて思い出す。一瞬、伊織だということも忘れて寄りかかりながら匂いを吸い込んだ。はたと思いだす。宗一郎の石鹸と同じ匂いだ。
兄弟だから同じ物を使っているのだろうか。どこの石鹸か教えてくれないだろうか……。考えている内に伊織が立ち上がった。落ちないように肩にしがみつくと、軽々といった様子で鶴子を持ち上げた。
「落ちるなよ」
「あの、一つだけお願いがあるんですけど……」
いつになく丁寧な言葉を使った。行き交う人たちから視線を向けられる。
「なんだ?」
「裏道から帰って頂けませんかね……」
とてもこの状況で大通りを行くのは耐えられそうにない。これ以上の恥の上塗りは御免被りたい。
「はぁ、注文が多いな。つるこおひめさまは」
「それは忘れて!!」
鶴子は下駄でポカと伊織の頭を叩いた。