番外編『ブレードの手前で、コーヒーを』
――昔の俺には、“心”なんてもの、要らないと思ってた。
イタリア・ナポリ郊外、石造りの裏路地にある小さな喫茶店。
表の看板には「Cielo Rosso」。それは俺のファミリーのコードネームでもあり、隠れ家でもある。
ここで俺は、殺しの前に必ず一杯のエスプレッソを飲む。
それが癖だった。
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「おい、アルド。今日も朝からか?」
ふと、カウンターの奥から声をかけてきたのはレナート。
ファミリーの下っ端だが、珈琲の淹れ方だけはプロだった。
「……夜までに三人、消す。それまでに、眠気を抜いておきたい」
「お前ってやつは。砂糖、いらねぇんだよな?」
俺は答えずに微笑む。レナートは苦笑しながら小さなカップを滑らせて寄越した。
湯気の向こうで、扉の外の世界は騒がしく、汚く、そして悲しかった。
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「なあ、アルド。……お前、本当に、この仕事、向いてんのか?」
「……どうしてそう思う」
「だってさ。子供を撃った日の晩、お前、ひとりでずっと泣いてたろ?」
カップが震えた。
俺は、昔から「心」が壊れかけてる。
そのくせ、完全に壊れきれない。だから毎晩、夢の中で死んだ顔が出てくる。
「そんなこと、あったか?」
「覚えてるくせに。……なあ、もしもさ」
レナートは言った。
「もし来世ってのがあってさ。人を殺さない生き方ができたら、そっちを選ぶか?」
俺は少しだけ考えて、答えた。
「……いや、選ばない。俺は、今まで殺してきた命に、もう選ばせてもらえる立場じゃねぇ」
「でももし、“罰として”人を救う運命に生まれ変わったら?」
そのとき、初めて――
俺は自分の“来世”を想像したかもしれない。
“全てを失った誰か”を、救おうとする“もう一人の自分”を。
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――それでも、今日も銃を手に取る。
明日を信じていない俺の、ささやかな償いとして。