エピローグ
小さな手をぎゅっと握りしめながら、口いっぱいに乳房を含んでいる。目を瞑り、幸せそうにもぐもぐと唇を動かしている様子は、見ているほうも幸せになる。
「陛下の用事は終わったの?」
生まれた頃よりも倍ほども重くなった息子に乳を与えながら、ウリヤナは夫に声をかけた。
「ああ。大したことではないのだが」
飲みが悪くなったためか、彼女は息子を乳房から引き離した。それでも彼はもぐもぐとまだ口元を動かしている。
ウリヤナより赤ん坊を預かったレナートは、慣れた手つきでぽんぽんと背中を叩く。
「ゲボッ」
「重くなったな」
「よく飲むもの」
ウリヤナは、生まれた子を乳母の手を借りながらも自分の手元で育てていた。
レナートは小さな命の重みを腕に抱える。
「飲んだら寝たぞ?」
それでも、もぐもぐと口元を動かしている赤ん坊は、夢の中でも母乳を飲んでいるのだろう。
「レナートに御礼を伝えてほしいと、お父さまから手紙が届いたのよ」
「礼?」
「イーモンのことよ」
イーモンはウリヤナの二つ年下の弟である。
彼は、学生のときに質の悪い友人に騙された。むしろ、洗脳されていたといってもいいだろう。
実際、彼はそういった魔法に魅入られていたのだ。それに気づいていたが、ウリヤナや両親の力ではどうにもできなかった。そもそもイングラム国には魔術師が少ない。
「お前の弟だからな」
息子を抱いたまま、彼はウリヤナの隣に座る。
「お前の話を聞いておかしいと思った。いくらなんでも学生が家の金に手をつけるのは、変だろう?」
イーモンが屋敷の金庫から勝手に金を持ち出していた。それがきっかけとなり、カール子爵家は一気に傾いた。だが、ウリヤナが聖女となり褒賞金で立て直したのだ。
その話を聞いたレナートは、人を使ってこの件を調べていた。
その結果――。
やはりクロヴィスが黒幕だった。彼の幼馴染みであり人望のあるアルフィーの名を使って、イーモンと接触した。
屋敷の金を盗ませ、カール子爵家を窮地に立たせる。
そこへ王家が援助の手を差し伸べ、その代わりウリヤナを手に入れる。それがクロヴィスの描いていたシナリオである。
クロヴィスはウリヤナが聖女となる前から、彼女に想いを寄せていたようだ。
だが、彼のその気持ちは「愛」とは呼ばない。
独占欲、もしくは支配欲だろう。すべてはクロヴィスの歪んだ欲が原因だ。
もしかしたら、そうやって歪むくらいに彼は愛情に飢えていたのかもしれない。ウリヤナの愛情に魅せられたのだろう。
愛に飢えた獣は、愛する者を求めるにちがいない。
だからレナートは、イーモンの件を調べると同時にすべてに根回しをした。
愛する者たちを彼に奪われないように――。
「ああ、ウリヤナ……。そういえば、クロヴィス殿からも返事が届いていたよ」
レナートの結婚披露パーティーと生まれた息子のお披露目パーティーは同時に開かれることになった。
「どうやら、彼は怪我をしてこちらまで来ることができないそうだ」
「怪我……?」
「ああ。今、イングラムの情勢はよくないだろう? 暴漢に襲われたらしい」
「だけど、コリーンがいるわ。あの子も聖なる力、癒しの力があるはず」
「残念ながら、二人で出掛けようとしていたところを襲われたようだ。怪我が酷くて、まともな生活を送れるかどうかも、わからないらしい」
「そう……」
ウリヤナは手を伸ばして、赤ん坊の頭を撫でる。
「心配、か?」
「そうね……イングラムの人たちは、心配でしょうね。ただでさえ、不安定な生活を強いられているのに。王太子と聖女がそのようなことになるだなんて……」
「だから、ローレムバが手を貸すことにした。国王に呼ばれたのはそれもある」
ぱぁっとウリヤナの顔が輝いた。
「そう、なの?」
「ああ。イングラムをこのままの状態にしておくのはまずいだろう? 人々の生活もあるしな」
だから、ウリヤナ。と、彼は言葉を続ける。
「俺と共に、イングラムに行ってくれないか?」
ウリヤナはぱちぱちと目を瞬いた。
「あなたが、行くの?」
「俺が行く。俺が、イングラムを救う」
「どうして?」
彼は糸のように目を細くする。
「お前が生まれ育った国だからだ。それにこの子はイングラムの王族の血を引いている。お前の力も戻ってきているのだろう?」
「気づいていたの?」
「ああ。お前の力はこの子を守っていたのだろうな。だから力を失ったかのように見えた」
子を授かり、子を何かから守るために一時的に力を失った。
彼はそう言いたいのだろう。
むしろ、あの男から子を守るために――。
彼女は困った様にきょろきょろと視線を泳がせてから、レナートの腕の中にいる赤ん坊を抱き上げた。
それは彼女の照れ隠しの行為であることを、レナートは知っている。
「あら、大変」
「どうした?」
「おむつがパンパン……あなたのお洋服まで、濡れているわ」
「先ほどから冷たいと思っていたのだが……」
「もう。そういうことは早く言いなさいよ」
ウリヤナに促されレナートは立ち上がった。
「ウリヤナ」
彼は愛する妻の名を呼ぶ。彼女は、くりくりと目を見開いて見上げてきた。
その隙に、唇を重ねる。
彼女は恥ずかしそうに、頬を染め上げた。
「クロヴィス殿には、礼を言いたいくらいだな……」
不思議そうに、彼女は首を傾げた。
「俺に、ウリヤナと子を授けてくれた」
「だけど、この子は……」
――あなたの子ですよ?
ウリヤナがニッコリと微笑んでそう言った。
【完】




