婚約者と友を失った日(1)
イングラム国はマゴキ大陸の中心にあり、東西南北と四方がそれぞれ他国と接している国である。それぞれの国境には関所が設けられ、国と国を行き来する物資や人を厳しく管理している。
王都ネーウはイングラム国の中心部にある。さらにその真ん中にある白亜の王城は、朝焼けを浴びる姿は神々しく、一日の始まりに目にすれば心が弾むとさえ言われている。
王城の一室で、ウリヤナは目の前に座っている男をじっと見つめていた。
珍しい金色の瞳はイングラム国の王族の証である。瞳と同じような金色の髪は、彼が顔を傾けるたびにさらりと揺れる。
「クロヴィス殿下。今、なんておっしゃったのでしょうか?」
ぱっちりとした二重の碧眼を見開き、真っすぐに視線をぶつける。
「私と君の婚約は、なかったものとしたい」
勝ち誇ったかのような笑みを浮かべているクロヴィスに対して、ぷつっと殺意のようなものが芽生えた。
この男は、何を言っているのだろうか。
「理由を、お聞きしてもよろしいでしょうか? 私と殿下の婚約は、殿下側が望んでされたことですよね?」
「ああ、そうだ。君は聖女であって、聖なる力を持っていたからな。聖なる力を持つ女性は貴重な存在だ。そのような女性を野放しにしておくことなどできないだろう?」
ウリヤナはひくっとこめかみを動かした。
彼女に『聖なる力』があるとわかったのは、デビュタントのために両親と王城を訪れたときである。
国王への挨拶が終わった彼女たちは、必ず神官による魔力鑑定を受ける。
誰でも持ち合わせている魔力であるが、魔力にも強さや種類があり相性がある。その強さと種類が落ち着くのが成人を迎える頃と言われており、このタイミングで魔力鑑定をされるのだ。
男性も同様で、成人を迎えた頃、同じように魔力鑑定を受ける。
それが一般的な流れである。
その一般的な流れに沿った結果、ウリヤナには魔力とは似て異なる聖なる力があるとわかった。
聖なる力は癒しの力。人々を痛みと苦しみから解放する力ともされている。
そういった力を持つ女性は、『聖女』と呼ばれている。
ウリヤナは両親と別れ、神殿で生活することを望んだ。聖女と呼ばれる人物であっても特例が認められれば、好きなところで過ごすのも可能だ。だが、ウリヤナはあえて神殿を選んだ。それは、金のためでもある。
その一年後の十七歳になった年に、目の前にいるクロヴィスと婚約者した。
クロヴィスはウリヤナよりも一歳年上で十六歳のときに立太子したため、イングラム国の王太子でもある。身分の高い彼は、それに相応しくしなやかな体躯と美貌を持ち合わせており、姿を現すだけで周囲からは感嘆の声が漏れる。彼の姿を一目見た女性は、すぐさま彼の虜になるとも言われていた。
カール子爵令嬢として振舞や教養を身に着けていたウリヤナが、クロヴィスの婚約者になるにはなんら問題はなかった。ただ、最近のカール子爵家は資金繰りに困っていたため、聖女という肩書がそれを後押ししてくれたのだ。
出会ったばかりの彼は、いつもにこやかな笑みを浮かべており、ウリヤナの名を甘く囁いたものだった。
だが、それから一年も経つと、ウリヤナに興味をなくしたのか、違う女性を隣に侍らせるようになる。その様子をみていたウリヤナが『婚約を解消しましょう』と提案したが、クロヴィスは頑なに首を縦には振らなかった。クロヴィスは聖女であるウリヤナを手元に置いておきたかっただけなのだ。
それを知ったのは、その二年後――つまり今。
「だが、君は聖なる力を失ったのではないのか?」
ウリヤナは表情を変えることなく、ただ奥歯を噛みしめた。彼の言ったことは事実である。今のウリヤナには聖なる力がない。
原因はわからないが、心当たりはある。
彼と身体を重ねて熱を分け合ってしまった。婚約しているのだからと、彼に強引に迫られたところもあるが、それを許したのはウリヤナ自身だ。身体を捧げれば彼の心をつなぎ留められるかもしれないと思ったのも認める。
だがその結果、逆に彼の心を失い、力も失った。
「そのようですね……」
「だからだよ。聖なる力を失った君とは結婚できない。だから、婚約をなかったものとしたい」
微かな笑みを浮かべているクロヴィスを一発ぶん殴りたい気分である。いや、殴りたいのはあの時の感情に任せて身を捧げてしまったウリヤナ自身だ。
「承知しました……。ですが一つだけ約束していただきたいことがあります」
こうなってしまってはウリヤナの気持ち一つで解決するような問題ではない。婚約を続けた先に結婚があったとしても、彼の離れた心を手に入れるのは難しいだろう。結婚の先にあるのが不幸であるのは目に見えている。
だから一つだけ、交換条件を出した。それはカール子爵家を守るため。
「そのくらい、大した内容ではない。必ず守ると約束しよう……。では、これにサインを」
婚約を解消するために必要な書類である。それに一筆、今の約束事をクロヴィスがさらりと付け足した。
イングラム国の王太子と聖女の婚約は、国中から注目を集めた祝い事でもあった。いつ結婚するのだと、国民も気を揉んでいたところもある。
それが今、たった一枚の紙切れによって、ないものにされようとしている。
ローテーブルの上に置かれた紙に視線を走らせる。すでに、クロヴィスのサインは入っているし、先ほどの約束事もクロヴィスの直筆で書かれている。
ウリヤナは小さく息を吐くと、側にいた文官よりペンを受け取った。聖女となったウリヤナは、カール子爵令嬢としての身分は失っていた。聖女は聖女であって、聖女以外の者であってはならない。だから、この婚約が解消されたとしても、両親にはなんのお咎めもないはず。
ウリヤナがサインを終えた途端、クロヴィスは乱暴にそれを奪い取る。すぐさま文官に手渡し、議会に提出するようにと口にする。
これが議会で認められれば、お互いの手元に婚約解消通知書が届く。それが二人の婚約が解消された証になる。
「そうそう、ウリヤナ。私の新しい相手を紹介しよう。そうすれば、君も自分の気持ちに正直になれるのではないか?」
この男はとことんウリヤナとの関係を断ち切りたいようだ。むしろ、まだ未練があると自惚れているのだろうか。
興味ありませんと声に出せたらどれほど楽か。だが、その言葉すら飲み込む。それが、ここでうまくやっていく方法なのだ。彼に歯向かって機嫌を損ねられたら、婚約解消だけではすまない。
「コリーン。ここに来てくれ」
彼が口にした名は、ウリヤナもよく知っている。