イオニアの分離
イオニアの反乱はアテナイで炎のような盛り上がりを見せながら、豪雨による洪水のように急速に鎮火し流されていった。
後に残ったのは内政干渉による独立運動を手伝ったアテナイとミレトスに対する烈火のようなペルシアによる怒りである。
ミレトスでペルシア帝国の副提督を務めていたアリスタゴラスはナクソスの反乱で鎮圧に失敗、失敗後のペルシアからの懲罰を逃れるため反乱を決意、最初スパルタに援軍をもちかけるもゴルゴ姫の献策で説得に失敗、次いでアテナイで援軍を確保する。
アテナイの派兵軍の指揮は以前小アジアにいたことのあるミルティアデスが受けた。
派遣する数戦艦20艘、ヘルムもつけず足当てもないペルシア軍人には十分な数に思えたが…
エフィソスに上陸後特に抵抗もなくヘルメス解放軍はサルディスへと向かった。
そこで騎馬部隊に迎え撃たれた。その数およそ1000。
姑息にもトモロス山の麓に隠れていた敵軍は一瞬でヘルメス解放軍を壊滅。
そのまま追撃を受け逃走兵はエフィソスで徹底的に壊滅させられた。
ヘルメス同士では戦争で負けても身代金を払えば返還されるのが常識だったが、ペルシア騎兵はまったく違った。
なんと戦士を捕虜にすることなく殺すのだ。この辺りはヘルメスとバルバロイはまったく違う慣習としか言いようがない。
その慣習の違いはトロイの地の侵略でも確認された。
パエサス、ランプサカス、ペルコート、アビイドス、そして商業の要点ダーダネルス、これらの大ポリスをへレスポントスの名のもとに一人の提督が支配かつ自由民が存在できずに、政治に関われない裕福な奴隷ともいうべき存在にヘレメス市民は落とされた。
支配者(提督)は皇帝の命令のまま政治を行うことを求められており、市民が公共事業や戦争を起こすことは一切認められなかった。
一方で皇帝の資産である奴隷を無意味に損なうことは忌むこととされており、戦時の戦士以外はメトイコイ並みの自由は認められていた。
このこともあってへレスポントスではポリスの寄り集まりよりは経済的に発達する例も見られた。
ヘレネスという水域に水滴がバラまかれ、それが複雑な波紋の織りなした結果、ペルシア融和推進の波はアテナイで非常に強い波となって押し寄せていた。
バラまいたのは各地の港の水夫たち、その大本はコリントスであり、神聖娼婦の寝物語がもとになっている。
もう一つがデルフォイの神託で、こちらは重要人物を直撃する形でヘルメスの意思を民族主義とでもいうべき方向に動かしていた。面白いのは民族主義=反ペルシアとはならないように予言は伝えられ、巨大なうねりが発生する下準備のような形で伝播していったことである。
娼婦の語り部も巫女の神託も全てが見える人間がいるとすれば、その人間は波のコントロールはアテナイに繋がっており、そこから莫大な銀で操っている平和的な老人が見えたことであろう。