人には色々な事情があるそうです
翌日からロジーナはピピルと共に刺繍工房に同行する事になり、皆に倣って『ピピル先生』と呼ぶようになった。工房では日常使いの小物雑貨からオートクチュールのドレスまで様々な物が扱われている。中でも特別な技法を用いた婚礼衣装は認定された数名の刺繍技術者だけが手掛ける事を許され、それに携わる事は技術者達の憧れであると共に目標でもある。いつの日か自分の手で生み出した物を送り出す為に技術者達は努力し切磋琢磨しているのだ。ピピルが作業していたのもセティルストリアの公爵令嬢のウェディングベールで間もなく完成するのだという。霞のようなふんわりしたベールを縁取る細緻な刺繍は美術品とも言える圧巻の素晴らしさだ。
「私が婚礼衣裳を手掛けた花嫁は必ず幸せになるっていうジンクスがあって、これって婚礼衣裳にはこの上ない何よりの付加価値なの。お陰様でひっきりなしに注文が入って最近じゃ仕上がりを待つためにお式を延期するなんて仰る方もいらっしゃるのよ。それだけに花嫁さんの幸せにはシルセウスの刺繍事業の明暗が掛かってるの。でも大丈夫、この刺繍を纏って祝福された花嫁は必ず幸せになるんたから」
「必ず、ですか?」
作業の手を動かしつつ自信たっぷりに語るピピルの言葉に思わずロジーナが聞き返すと、ピピルはふっと顔を上げて当然だと言わんばかりの笑顔を浮かべた。
「えぇそうよ。勿論これをお召しになる花嫁さんもね。だって門外不出のとびっきりの秘密があるんだもの」
視線を手元に戻し再び針を運び始めたピピルの指はまるで布の上で軽やかにダンスをしているようだ。
その横でロジーナは昨日案内してくれた女性……アイリスから刺繍の基本の手解を受けた。令嬢の嗜みとしての刺繍と商品になる刺繍には色々な違いがあり、何よりも表面だけではなく裏側の美しさへの拘りにロジーナは驚かされた。今まで刺繍を苦手だと思った事はなかったけれど、刺繍技術者という職業としての技能を身につけるのは一筋縄ではいかないのだと気持ちを新たにし、アイリスから出された課題に必死に取り組んだ。無心で手を動かせばその間は目の前の布だけに集中できる。きりきりする胸の奥の痛みも忘れられる。そしていつかその痛みも感じなくなる日が来るはずだ。
そう思いながらもロジーナは気が付けばエルクラストに想いを馳せているのだった。
数日後、刺繍を完成させたピピルはロジーナを森に誘った。
「ここのところ工房に籠りっきりだったから外の空気が吸いたくなったの。湖畔のガゼボでお茶はいかが?」
馬車では通れない森の小道を行くので馬に乗るという。ピピルは荷物を乗せた馬に一人で乗りロジーナはカイルと呼ばれている護衛官の馬に乗せて貰った。
背の高い木々が生い茂る深い緑の森が開けて現れた湖畔には湖面を渡る爽やかな風に足元を覆い尽くす小さな葉がそよそよと揺れている。その向こうには揺れる水面がキラキラと輝き遠くには青い山脈が聳えていた。それは言葉では言い表せない心を震わせるような美しい景色だった。
ロジーナが景色に目を奪われうっとりと見とれている間にピピルは白いガゼボに荷物を運びテーブルにクロスを掛けてきぱきとお茶の用意をしていく。そして『後程参ります』と言って踵を返したカイルに『お願いね』と答え、カップに紅茶を注いだ。
「さぁ、頂きましょう。夫にねだられて焼いたツルイチゴのタルトもあるのよ」
小振りに作られたさっくりしたタルトには濃厚なカスタードクリームと甘酸っぱいツルイチゴのジャムがたっぷりと乗っている。その他にもパウンドケーキや小さなココットに入ったプディング、親指くらいの可愛いエクレアにピピルが焼いたという黒胡椒と粉チーズが掛かったクッキーもあった。
「本当に旦那様と仲がよろしいのですね」
ロジーナは寂しげな微笑みを浮かべながらポツリと言った。
ジェフリーの溺愛は想像以上でロジーナは思わずラーナに訊ねたくらいだ。『世の奥さま達はこんなにも旦那様から愛されるものなのですか?』と。
ラーナは堪えきれずに吹き出して『とんでもない!』ときっぱり言った。
「あそこまで妻にメロメロにならなきゃいけないのなら、大抵の夫は離縁されてしまいますわ」
エルクラストの使用人の中には夫婦で働く者達もいたがあれほどに妻に夢中になっている夫は一人もいなかった。ラーナによればジェフリーの愛妻家振りは特別なのだそうだ。
「さぁ、どうなのかしらね?」
ピピルは顔を歪めながら首を傾げた。
「人って大抵色々な事情を抱えているものなのよ。私たちもそう。そのせいで夫は何年も心の奥に想いを封じ込めるしかなかったから、どうやらあれはその反動らしいの」
「色々な事情……ですか?」
「えぇ。真面目でかっちこちにお堅かった夫が弾けてどうかしちゃうほどの事情がね。私にも事情があったしそれに貴女にもお有りでしょう?」
ピピルは悪戯っぽくニカっと笑ってからふっと目元を和らげ、労るような優しい瞳でロジーナを見つめた。
「確かに貴女の置かれた境遇は異常だった。そして虐げられてきた貴女の辛さは可哀想だとかお気の毒だとかそんな言葉を並べて判ったような顔をしてはいけないものだと思うの。でもね、貴女が過去の為に自分を卑下して可能性を否定しなければならない理由なんて何処にあるのかしら?」
ロジーナは黙って俯きスカートの上で両手を握りしめた。
「勿論これは私の考えであってロジーナさんに押し付けるつもりはないのよ。でも、日を追う毎に哀しみが深くなっていく貴女を見ていると、貴女はもう一度自分の気持ちと向き合うべきなんじゃないかという気がするの」
『ごめんなさいね』と言いながらピピルは湖に視線を送りそれきり口を閉ざして、忙しなく水の中に顔を突っ込んでお尻を振っている水鳥を楽しそうに眺めている。ロジーナもそれを真似るように眺めていたが、もう一度俯いて絞り出すようにポツポツと声を出した。
「私は……相応しくないのです。両親は同じ屋敷にいながら顔を会わせようともしなかった。私は愛し合う両親から生まれた娘ではないのです。いくら本当は母が私を愛してくれていたとしても、私は両親から愛されていると感じたことはありませんでした。それどころか父には母のお腹にいることが判ったその瞬間から恨まれ憎まれた、そんな私にいつか国を率いることになるあの方の隣に立つ資格は……私はあの方をきちんと愛する事なんてできないのではないかと……」
頬を伝った涙がポトリポトリと落ちて言葉を詰まらせたロジーナの両手を濡らしていく。ピピルはハンカチを取り出しそっとその手に握らせ、また湖面を泳ぐ水鳥に目をやりながらきっぱりと言い放った。
「両親が愛し合っていたかどうかなんて生まれてくる子には関係ないし、大体貴女のお父様は何一つ真実を見極められていなかったじゃない。そんな人間の恨み辛みなんてただの言い掛かりだわ」
ピピルらしくない張りつめた口調にロジーナは俯いていた顔を上げその横顔を目を見開いて見つめた。
「貴女はちょっと難しく考えすぎたのではないかしら?貴女は王太子殿下が一時の感情に浮ついて愚かな判断をするような、そんな頭にお花が咲いている方だと思ってはいないのでしょう?」
ロジーナはこくりと深く頷いた。
「王太子殿下はしっかりとご自分のお立場を考えられる方。その殿下がロジーナさんを望まれたのならば殿下は貴女が王太子妃に相応しいと確信していらしたはずよ?暗闇にいた貴女だからこそ資格があるって……喜びや楽しさだけじゃない、貴女なら殿下のお傍で悲しみも苦悩も全部を受け止めて差し上げられる、だから殿下はロジーナさんを望まれたのではないかしら?って私は思うけれども?」
「でも……やっぱり私には赦されないことなんです」
そう言って俯いたロジーナの頬をまた涙が伝って落ちたが、ピピルは何も聞かずに手を伸ばし小さな子どもを宥めるようにロジーナの髪を撫でた。
「もしもロジーナさんの考えている通りだとしても貴女のお母様は恨んだりしていないと思うの。いいえ、お母様は絶対に貴女の幸せを望んでいらっしゃるわ。だって最後の最後まで貴女を守ろうとした方ですもの。でも貴女が自分を赦せるか赦せないかは別なのね?」
ロジーナは涙が溢れ出す目元にハンカチを押し付けたまま小刻みに頷き、ピピルは宥めるように優しく髪を撫で続けていた。
「でも、赦せないと決めてしまう前に話くらい聞いて差し上げないとお気の毒だわ。きっと貴女のために必死になって奔走したのでしょうから。だって思ったよりもずっと早いお出ましなんだもの。私、もっと貴女がシルセウスにいてくれると思っていたからがっかりだわ」
「え……?」
ピピルは目をぱちくりと瞬きをするロジーナに意味有り気な微笑みを浮かべながら言葉を続けた。
「それからね。夫も……エリィも暖かで幸せな家庭に育った人ではないのよ。私と出会った頃のエリィは大きな寂しさだけを抱えている孤独な人だったわ」
ロジーナの目は更に大きく目開かれた。ロジーナには自信が無かった。愛されずに育ち愛する術を学べずに大人になってしまった自分は誰かを想う気持ちすら歪なのかも知れない。そんな不安に苛まれ、そんな自分はいつかシャファルアリーンベルドを傷つけてしまうのではないかという恐怖すら抱いていた。だからこそシャファルアリーンベルドの想いに応えることはできないと思って身を引いたのだ。
しかしそれならばあのジェフリーの溺愛は何だと言うのだろう?
「夫が貴女の言うきちんとした愛し方をしているかは疑問だけど、これで私が話した事が少しは腑に落ちたんじゃない?ね、だから貴女は自信を持って良いのよ」
呆気にとられてさらに目を真ん丸く見開いたロジーナに見つめられ笑いだすのを堪えていたピピルは、その表情を確信を得たようににんまりした笑顔に変えるとすくっと立ち上がった。すると何処からか馬の嘶きが聞こえ、やがて草を踏む足音と共に辺りを見回しながらシャファルアリーンベルドが姿を現した。
「ローズ!!」
シャファルアリーンベルドが走り出すと同時にピピルはガゼボの柵に手を掛けて、いとも簡単にヒラリと飛び越えて見えなくなった。『……?!』訳がわからず混乱しキョロキョロしているロジーナを息苦しいほど硬く抱き締めながらシャファルアリーンベルドは振り絞るように言った。
「ローズ、君がいないと駄目なんだ。わたしにはローズが必要不可欠なんだ!」
その言葉だけで十分だった。それは疑いようもなくロジーナという存在の全てがシャファルアリーンベルドから愛されていると悟らせてくれた。




