王妃様は困っている
『シャファルアリーンベルドにも困ったものね』と呟いてサルーシュの王妃マルガレーテは溜息をついた。
シャファルアリーンベルドとはサルーシュの王太子であり王妃マルガレーテの一人息子だ。頬に手を添えて俯くマルガレーテがその一人息子の事で何かしらの無理難題を突きつけるつもりなのは一目瞭然だったが、レイは一応抵抗してみる事にした。
「殿下は容姿端麗、文武両道、政務も積極的に熟され王太子としての自覚も十二分にお持ちです。まぁこの頃は趣味が仕事か仕事が趣味か、みたいな事になって来ちゃいましたが王太子が怠け者では目も当てられないですからね。仕事熱心で大いに結構!困る事など何もございません。王太子妃選びに関しての積極性には欠けますが、あの見た目ですからどうにでもなるでしょう。ご本人さえその気になれば忽ち婚約者決定間違いなしです」
「レイ、お前わたくしが困っているのはそんなことじゃないって判って言ってるわね?」
ふわりとと微笑まれレイは背筋がゾワリとした。やっぱりこの方に抵抗など試みてはいけなかった。これ以上ご機嫌を損ねることのないように無抵抗をモットーに生きていこう。それはそれでややこしい面倒事を押し付けられることを意味するけれど。
「何か問題でもございましたか?」
マルガレーテは伏せていた瞼をくいっと上げてレイを見つめた。宝石のように輝く琥珀色の瞳がぴくりとも動かずに自分を見つめている。まるで狙いを定められた野ねずみにでもなったかのようでレイの背筋は再びゾワリとした。
「大ありよ。シャファルアリーンベルドのオツムは石にでもなってしまったの?どうしてあんなに堅くなったのかしら?一生懸命帝王教育に取り組んだのは良いけれど、あんなにぎゅうぎゅうでぎちぎちな物の考え方しかできないんじゃ何か欠けていたとしか思えないわ。国王陛下もこれでは国を導く者としては不適格ではないか?……なぁんてねぇ」
あ、これ、……の部分には『って言いそうな気がしないでもないかな?』が入ってるな、とピンときたが、警戒心を増したレイは指摘しないことにした。
確かにシャファルアリーンベルドは堅物だ。元々素直で馬鹿正直な性格であったがそれゆえ真面目に取り組んだ帝王教育にどハマリし、ちょっとおかしな方に向けてすくすくと伸ばしてしまったらしい。正か否か、白か黒か、丸かバツか。シャファルアリーンベルドは情け容赦なく2つに分類しようとする。
例えば先日、孤児院に視察に行ったときのこと、一人の少女が庭の隅に咲いていた一輪の花を『どうぞ』と言って差し出した。王子様スマイルでありがとうと受け取れば好感度急上昇の絶好の機会であったのに、シャファルアリーンベルドは『これは……』と言って考え込み、よりにもよって少女を見下ろしながらくどくどと説教を始めたのだ。
この花は君のものなのか?君のものかどうか定かではないのならどうして確認もせずにそれを摘んだのか?もしこの花の所有権を誰かが有していれば君は窃盗を犯した事になる。更にはそれを渡されたことで私は共犯者としての疑いをかけられてしまう。同時に君は王族を罪人にしようとした咎で不敬罪にも問われる。そこまで考えてなお、君は私に花を差し出したのか?
いや、だってそれ、雑草だよ……と誰もが思った。というか、はっきり言ってわかり辛いけれど、思いっきりのだだスベリだけど、これきっと渾身の王太子殿下ジョークをかましてくれたんだなぁ、と生暖かい目を向けられていた。
だがしかし勿論そうではない。シャファルアリーンベルドはただ真っ直ぐに己の正義に従ったまでなのだ!
レイは気付かれないうちにと大慌てでシャファルアリーンベルドを回収して馬車に押し込み、関係者に殿下は平然を装っておられるがどうやらギックリ腰を発症されているのでこれで失礼すると頭を下げて廻った。ギックリ腰に見舞われながら平然を装う王太子殿下については誰もが感心し感動してくれるのでレイはちょいちょい口実に利用している。使いすぎて『殿下はギックリ腰が癖になられているらしい』と噂されていると聞き使用を控え目にしなければと考えていたところだが、ここではやむなく使わざるを得なかった。そして頭の上に?を沢山浮かべたまま呆然と立ち尽くしている少女には平身低頭謝り倒し大慌てで城へと撤退した。
今はまだ良いだろう。そうだ、ちょっとズレてる少しどうかと思える王太子であるうちはまだ良いのだ。だが彼はいずれ国王としてこの国を率いなければならない。このままでは冷酷無比な血も涙も無い王と恐れられ家臣の信頼を得られないのではないか?人の上に立つ者は何よりも人望が大切だ。この方の為ならば命を投げうつ覚悟をしようと感じさせるだけの人望が。
決して悪い人じゃないんだよね……とレイはシャファルアリーンベルドを思い浮かべた。
ーー背の高いスラッとした見た目ながら鍛えられて引き締まった身体……にもなるよなぁ、毎日欠かさず早朝の鍛練をするんだもんなぁ。ーーサラリと風になびくミルクティーブラウンの髪と白磁のようなきめ細やかな肌……を保つために真面目にお手入れするんだよね、清潔感は大切だって言われたからさ。ーー国王陛下譲りの碧紫色の瞳……はピカイチのチャームポイントなんだけど、あれ見開いて詰問されると背筋が凍るんだよね。ーー丁度良い高さの形の良い鼻と引き結ばれた唇……をね、ニカッと開けて笑うとさぁ、大人になっても笑顔は少年!みたいでいい感じなのに滅多に笑わないのが惜しいよね。
等々一々のツッコミ付きではあったがシャファルアリーンベルドの容姿は素晴らしく、また王太子としての能力も周囲の認めるものであった。赤ん坊が生まれた近衛騎士にお祝いだと言って一週間の有給休暇を与えたり、掃いても掃いても風で舞い散る落ち葉に途方にくれていた見習いメイドの少女を見て、風情があるのだから落ち葉はそのままにしておけ、とメイド長にサラリと命じたりする小洒落た気遣いもできる。
惜しむらくはその突き抜けた堅物振りだけなのだ。
「それはそうとね、エルクラストに来ることになったわよ」
マルガレーテに言われレイはえ?何のこと?と目をしばたいた。
「姫百合よ、姫百合」
「ヒメユリ?」
「そう、ニアトの白百合の娘」
「……あぁー……」
誰かは判った。
「で、ヒメユリって?」
「だって白百合の娘ですもの。姫百合がぴったりでしょう?まぁ、わたくしの記憶の中のニアトの白百合は16歳の乙女で姫百合はもう18になったそうだけれど」
「いや、それよりも……失礼ながら写真を拝見しましたが、ヒメユリはないかと……」
『おばかさんね』と言いながらマルガレーテはフフンと笑った。
「あんな写真に惑わされるなんて情けない。わたくしの祖国、ニアトの白百合を甘く見てはいけないわよ。ニアトの白百合……シャルロットは王太子妃候補の中でも飛び抜けた美貌だったんだから。王太子だったお兄様は迷わずシャルロットを選ぶつもりだったのよ。それなのに突然フリッツと婚約したと聞いてショックで3日も寝込んだわ」
「母親譲りの器量良しにはなれなかった娘なんていくらだっていますよ。ニアトの白百合の娘も……なんと言うか……どっちかというと百合根、みたいな?」
マルガレーテからギロリとレイに凍りつくような冷たい視線を投げかけられ『レイナーディラエフィッセ……』と本名を呼ばれたレイは慌てて口をつぐんだ。
「お前は見る目がなさ過ぎるわ。あれはね、呪い……」
「はぁ?」
「可哀想に、大人達の恨みと怒りと悲しみと悔しさと……そういう怨念で押し潰されながら生きてきたの。当然泣き暮らしもするし顔を腫らしもするわ。でも、領地にいた時は多少なりとも心が休まったのね。まぁわたくしも一目見た時は絶句したしシャルロットの娘だと言われて驚いたけれど、よくよく見れば……ね」
「ヒメユリだったんですか?」
マルガレーテは気不味そうに薄笑いを浮かべた。
「んー?まぁ、蒸しパン……くらい?……でも間違いないわ。後半年も領地に居られたらヒメユリになったはず」
「確かにあの家は酷い環境です。身体に虐待を受けていなかったのがせめてもの救いでしたが……最近転がり込んで来た義母の娘は頭に血が登ると手が出るそうですからね。逃げ出せたなら本人の為には何よりです。ですがクズとの結婚は?」
マルガレーテは寂しそうに微笑んで俯き、ゆっくりと首を振った。
「出生届が出されていなかったそうよ。爵位が叔父の物になったから利益のない婚約は破棄されたわ。シャルロットは……懸命に娘を守ったのね」
「そんな……それでは彼女は何の権利も主張する事ができないじゃないですか!」
「だから奴らはあの娘を手放してくれたの。壊れてしまったシャルロットにできた精一杯の抵抗でね」
「……」
レイは首を捻った。娘の存在を闇に葬るなんて、そんな抵抗、何の為にする必要があると言うのだ?
「それはそうとね……」
またいきなり話を飛ばされるぞ、とレイは頭を振って考えをリセットした。そうしないと次の話についていけないのだ。マルガレーテの話はそれくらいポンポンと『それはそうと』一つで情け容赦なくぶっ飛ぶのだから。
「レイナーディラエフィッセ、お前シャファルアリーンベルドと今すぐエルクラストに行きなさい」
「はぁっ?!」
「姫百合の出迎えをするにはすぐに出ないと間に合わないでしょう。シャファルアリーンベルドには姫百合の世話をさせるんだから」
「はいはいはいはいっ?!?!?!」
話が飛ぶどころではない。これは一体どこから降ってきたのかとレイは呆然とした。
「あの堅物に世の中には型にはまらない人間もいるって思い知らせるのに丁度良いわ。それからね、姫百合はアヒルの世話人になるの。仕事があった方が気楽でしょうからね。あの娘、アヒルが好きなのよ。そしてシャファルアリーンベルドはアヒルの世話人の世話人。任せられない事もあるから補佐としてメイドはつけるわ。でもあくまでも世話人はシャファルアリーンベルド。しっかり世話をさせてね」
レイはパチクリとぎこちない瞬きを一つした。
「で、私は……」
「んー?アヒルの世話人の世話人の補佐?」
「ですよね~」
ハハッ、という乾いた笑いをあげながらレイの笑顔はごちごちに強張っていた。