王太子は拒絶される
「ロジーナ様……」
アドルフに呼び掛けられたロジーナは『え?』と小さな声を出した。アドルフらしくもない焦った様子で呼ばれるような用事はどう考えても何も思い付かないが、アドルフは緊急のしかも重大な用件を伝えようとしているのではないか?ただならぬ気配で背筋が凍りつくような緊張に包まれたロジーナにアドルフの言葉は続く。
「ニアト国王陛下より召還命令の書状が……」
「なに?」
冷ややかな声を放ったのはシャファルアリーンベルドだ。
「詳細は?」
「わたくしにローズを連れて帰るようにと、それだけね。急に戻れなんて言うから何かと思ったら、始めからそう言う事だったらしいわ」
マルガレーテはあえて何でもない事のように言ったが、シャファルアリーンベルドは書状を奪い取るようにして掴むとサッと目で追う。僅か二行のそれを読み終えると怒りを抑えつつきっぱりと告げた。
「母上……どうかお一人でニアトに行きローズはわたしがシュラパに連れ帰った、伯父上にそうお伝え下さい」
「シャファルアリーンベルド、それじゃ貴方達……」
「ローズは指輪を受け取ってくれました。ローズはわたしの妻になるのです。ローズの瞳がニアトキュラシアンブルーだから何だと言うのですか?それがニアト王家にとってどんな価値が有るかなどわたしたちには関わりの無いことです。わたしが愛しているのはローズの瞳だけではない、ローズの全て、ローズという一人の女性そのものだ。ニアト王家に渡す事などできません」
無我夢中でそこまで言ったシャファルアリーンベルドが背後から聞こえた『……どういう事……?!』という小さな呟きにハッとして振り向くと、雨に濡れて震えている子猫のように頼り無げで、今にも崩れ落ちてしまいそうなロジーナの咎めるような瞳と視線が絡んだ。
ロジーナはほんの少し首を傾げ止まらぬ震えを抑えるために両手を握り合わせ、ゆっくりマルガレーテに視線を移し静かに話しかけた。
「ニアトからサルーシュに輿入れされたマルガレーテ・ロザリアナ王女殿下はローズ様なのですね……」
「そうね……でもローズ、シャーリーは決して貴女を……」
マルガレーテはそこで言葉を失った。ロジーナが何も聞きたくないと言うかのように耳を塞いでしゃがみ込んだのだ。
「ローズ……黙っていて悪かった。君に伝えたかったのはこの事だ。わたしはサルーシュの王太子だ」
「それならば……」
隣に跪き肩に掛けられた手をそっと振り解いたロジーナはくっと唇を噛みしめ嗚咽を堪えた。しかし見開かれた目からは湧き出るように涙が溢れ、次々と頬を伝っていく。
「どうして先に教えて下さらなかったの?知っていれば私は……シャーリー様に……この手を、この手を差し出したりしなかった……」
「何故だ?わたしの気持ちに嘘偽りなどない。わたしにはローズが必要なんだ」
ロジーナはすっと立ち上がりシャファルアリーンベルドを見下ろし、優しい目でじっと見つめてから首をふるりと横に振った。
「シャーリー様が私を望んで下さるのなら、そしてシャーリー様が次期領主ならば私は共に歩んで行けるのではないかと思いました」
ロジーナが指に嵌められた指輪を指で摘まみ指先に向けて動かすと少し大きめだった指輪はあっけなく簡単に外れる。それから膝を着き両手でシャファルアリーンベルドに差し出し再び言葉を続けた。
「でも、私は王太子妃としてシャーリー様の隣に立つべき娘ではありません。父に憎まれ母を絶望させ不幸にさせた、そして誰からも愛されずに呪われながら育った私を、こんな歪な人間になってしまった私を王太子妃にしてはならないのです。その場所に立つのは、祝福と共に生まれ愛情を注がれ大切な宝物のように大事に大事に育てられた方が相応しいのです」
「何度言えば解ってくれるんだ?ローズは歪な人間なんかじゃない。君はあの監獄のような家で虐げられながら人を想い気遣う優しさを失わなかった素晴らしい女性だ。ここに来て君は気が付いたのだろう?君を守る為に陰ながらではあったけれど、君は本当は沢山の人々に愛されていた。ローズは沢山の人々から沢山の愛情を注がれていたんだ」
『それでも……』とロジーナは言いかけて俯いた。それからくっと上げたその顔には何の表情も浮かんでいない。ただ揺らぐ瞳だけが何もかもを諦めたように深い闇に染まっていた。それはきっと出会った頃の瞳だったのだろうとぼんやりと考えているシャファルアリーンベルドにロジーナはふらふらと近寄った。そしてかがみ込むと握りしめられたシャファルアリーンベルドの手を開きその上に指輪を乗せ、またそっと握らせた。
「私は一番初めに愛情を注いでくれる筈の両親からは愛して貰えなかったわ。だって父と母を不幸にして生まれてきたのですもの。貴方は生まれながらに不幸をもたらした私を選んではいけない……シャーリー様、いつか貴方のその手にはこの国の民の命が託されるのです。その貴方が一時の想いに捕らわれて私を選んではいせません」
シャファルアリーンベルドは懇願するようにロジーナに手を伸ばしたが、身を翻して離れたロジーナにその手が届くことはなかった。
走り去るロジーナの後ろ姿をシャファルアリーンベルドは茫然と見つめていた。
カーテンの隙間から差し込んだ光の眩しさに目を覚ましたシャファルアリーンベルドは、割れるような頭の痛みに顔をしかめた。夕べの酒で二日酔いになったのか?そんなに深酒ではなかったのにおかしいなと思いながら時計に視線を送った彼はそのまま固まった。
カチカチという振り子の音に我に返り弾かれたようにベッドから飛び出すと縺れる足でロジーナの部屋に向かいあわただしくノックを繰り返す。返事はないがいたたまれずにドアを開けたが既に中はもぬけの殻だった。
そのままマルガレーテの部屋に向かおうとしたシャファルアリーンベルドはレイに止められた。
「母上は何処だ?!」
「今朝早く、ロジーナ様を連れて出立されました」
シャファルアリーンベルドは窓から身を乗り出して外を見たが、マルガレーテの馬車はどこにも見当たらない。振り向き様に目が合ったレイは酷く疲れた顔をしていた。
「レイ、何故薬を盛った?」
「ロジーナ様に頼まれて断れますか?」
「馬鹿な、どうしてローズが?」
「殿下が冷静に考えて下さるように、だそうですよ。自分がここに居てはそれも出来ないだろうと、だからここを離れたいと仰っておられました」
シャファルアリーンベルドはふらふらと壁に寄りかかり片手を着いて身体を支えた。
「単騎で追いかけようなんて、今の殿下には無理ですから止めましょうね。落馬して下手すりゃ死にますよ。もう三時間もすれば完全に薬が抜けますからそれまでベッドで大人しくしていて下さいます?ロジーナ様からも危ないから強引に出ていかないようにしっかりと見張って欲しいって念押しされてましてね」
レイはシャファルアリーンベルドに肩を貸しながら何時ものように飄々と話したが、一向に目を合わせようとはしない。そのままシャファルアリーンベルドの部屋に連れて行くとベッドに座らせグラスに入れた水を差し出した。
「ライモンド子爵夫人」
レイは徐にその名を口にした。
「ロジーナ様の筆頭家庭教師です。彼女からニアト国王陛下にニアトキュラシアンブルーの情報が伝えられたと……」
「母上から聞いたのか?」
レイは深く頷いた。
ライモンド子爵夫人は元々ロジーナの母シャルロットの家庭教師で、シャルロットを王太子妃にすべく厳しい教育を施したが叶わなかった。それでもシャルロットの両親は夫人の教育の質の高さを評価していたのでロジーナが生まれるとライモンド夫人を筆頭家庭教師に据えた。
「どうやら侯爵家としては娘を蔑ろにしながら妊娠させたレーベンドルフ伯爵への単なる当てつけだったようなのですが、ライモンド夫人は今度こそ悲願を成し遂げようと、そう考えたようです」
ライモンド夫人はロジーナが嫁ぐまで雇用を続けるという条件で家庭教師を引き受けた。そうする事で並々ならぬ覚悟を示したのだ。祖父母はロジーナの器量の悪さに失望し希望の欠片も持ってはいなかったが、ライモンド夫人は早くから確かな手応えを感じていた。幼いながらもロジーナは王家に望まれるだけの資質と聡明さを持っていたのだ。やがてライモンド夫人は悲願は必ず達せられるという確信を持つようになった。彼女はロジーナの瞳がニアトキュラシアンブルーで有ることに気付いたのだ。
「ロジーナ様が婚約させられてもライモンド夫人は気に留めることもなく厳しい教育を課し続けたそうです」
王家は必ずニアトキュラシアンブルーを欲しがる、その為なら婚約者がいる事など大した問題ではない。それよりも常に足を引っ張っていたのはロジーナを虐げる父親だった。あんな見た目ではニアトキュラシアンブルーの瞳であることすら信じて貰えないだろうが、あの父親がロジーナが王太子妃になるなど許すはずがなく協力は望めない。かと言って侯爵家にも拒絶されたロジーナの居場所は他に無く父親から引き離す術もない。更にはライモンド夫人が手をこまねいている間に父親が急死した事で、彼女の計画に大きな番狂わせが生じたのだ。
ロジーナの叔父がデニスとの結婚を進める為に大慌てで動き出し、それを知ったライモンド夫人はもう猶予は無いと急遽ロジーナに関する情報を王家に明かす事にした。
「王家は直ぐに調べたそうですが、そもそもロジーナ様の出生が届けられていませんでした。ロジーナ・レーベンドルフ伯爵令嬢は存在していなかったのです。そこで先ずはロジーナ様が本当に伯爵夫妻の娘なのか裏付けを取らなければならなかった。確認に時間を取られている間に何も知らない叔父がロジーナ様を追い出してエルクラストに送りつけたと言う訳です」
ニアト王家に嫁がせようと目論んでそれ相応の教育を受けさせられていたと母が言っていたのはこの事だったのかと、シャファルアリーンベルドは更に痛みを増している頭を抱えながら考えた。
「レイ、馬車を用意してくれ」
「お断りですよ、ロジーナ様に嫌われたくないですからね。それにロジーナ様は王妃様と共にニアトに向かわれましたが、目的地はニアトではありません」
「何だと!それならローズは何処に行った?!」
レイはハァと大きく溜め息をついた。マルガレーテとロジーナに口止めされて、尚且つ母のルイザに圧力を掛けられているのに誰が口を割れるものか!
「教えられません、としか言えないわたしの事情を察して貰えますかねぇ?」
「察するのは容易いが、だからといってわたしも切羽詰まった状況だ。大人しく引き下がるつもりは」「殿下!!」
滅多にないレイの厳しい口調で言葉を遮られたシャファルアリーンベルドは思わず口を閉ざした。
「どうかロジーナ様のお気持ちをお考え下さい。どうして殿下のお気持拒絶されたのかを。辛いのはあの方も同じです」
シャファルアリーンベルドは背中からばたりとベッドに倒れ天蓋を見上げながら力の無い声でレイに話しかけた。
「わたしはまだローズの苦しみを受け止められてはいなかったのだな。いつもそうだ。捕らわれた深い闇から救い出したと思ってもそれはただの自己満足でしかないんだ。ローズは闇に差し込む光を見ながら足を踏み出そうとはしていない」
「ロジーナ様は闇の中で生きる運命だと刷り込まれていたんです。闇から出ることに罪悪感を持って躊躇されるのは無理もないでしょう。そんなに簡単にはいきませんって。おまけに外の世界を知った事で闇に捕らわれている自分に負い目を感じるようになったみたいですし」
いくらエルクラストの人々に愛され大切にされても、ロジーナの心から虐げられていた過去や苦しい記憶が消え去ることは無い。たとえ痛みは和らいでも、その傷跡は永遠にロジーナの胸に刻まれたままなのだ。その醜い傷跡を持った自分は王太子妃に相応しくはない、ロジーナはそう考え身を引き姿を消した。
「冷静に考えろ、か。……いかにもローズらしいな」
シャファルアリーンベルドの目尻からつうっと一筋の涙が伝う。
--ローズ?君の事を冷静に想うなんて、無理に決まっているじゃないか
シャファルアリーンベルドは身体を起こしサイドテーブルに置かれた指輪を手に取りじっとみつめながら『レイ……』と声を掛けた。




