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アヒル番令嬢と堅物王太子は呪われてしまうらしい  作者: 碧りいな
ロジーナ、アヒル番令嬢になる
25/42

王太子は呪いの恐ろしさを思い知る


 ロジーナは戸惑っていた。


 誰かを満足させる為に泣く事、今までそれだけがロジーナの唯一の存在価値だった。しかしエルクラストに来てそれを否定されここでは必要無いのだと覚った時は、これから自分はどうすれば良いのかと途方に暮れた。


 しかしロジーナの置かれた環境は彼女が身を守る為に場の空気を読む高い能力を培っていた。だからロジーナはほんの僅かな時間で泣くのを止め人々の親切を受けとめることを選んだ。それこそが人々がロジーナに望むものであり受けとめれば彼らは笑顔を向けてくれると察知したから。そしてそれは今までロジーナが見てきた蔑むような嗜虐的な笑いではなく、純粋に喜びを感じて浮かべる笑顔だった。


 父にも母にも祖父母にも憎まれ叔父や従兄から蔑ろにされてきた自分の何処に優しくされる理由が有るのかはまるで解らなかったが、エルクラストでは誰もがロジーナに優しい。恐る恐る出掛けたラワーシュの街にもロジーナを虐げる人など居なかった。当たり前だと思っていたあの環境が、耐えるしかないと諦めていた自分の境遇がどれ程異常な物だったかをロジーナは漸く覚り始めた。


 今までロジーナは『嬉しい』という気持ちを押し殺し心の奥底に隠して『嬉しい』と感じていることすら悟られないようにしてきた。そんな日々はやがて『嬉しい』と感じていることを自覚することすら無くしてしまっていたが、わくわくと胸を弾ませうきうきと浮き立つような想いが自分の心にもあるのだと気が付きロジーナは驚いた。その気持ちを隠さずにいられる、隠さずにいるからこそ誰かに喜んで貰える、それはロジーナが今まで知らなかった『喜び』だった。


 ロジーナがシャファルアリーンベルドを『お坊っちゃま』と呼んだのは、領主の息子だというシャファルアリーンベルドをなんと呼べば良いのか、ロジーナの小さな世界には適当なサンプルが無かったからだ。子どもの頃使用人達にお坊っちゃまと呼ばれていたデニスがロジーナの小さな世界では一番シャファルアリーンベルドのポジションに近く、だから咄嗟に口をついて出てきたのが『お坊っちゃま』だった。ごく限られた人物としか接した経験がなかったロジーナにとって人の名前を覚えるのは想像以上に難しく、その上呼び掛けるにも勇気がいる。シャファルアリーンベルドという耳慣れない長い名前は、書くことも読むこともできるけれど間違えたり噛んだりせずに呼び掛けられる自信がとてもない。シャファルアリーンベルドは『あの~』とか何とか言えば良いと言ったけれどやはりそれでは事足らないし、ルイザやレイは構わないと言うからそれを信じていたが、でもやはり名前を呼べない後ろめたさがしこりのように常に胸にあった。


 だから『シャーリーと呼んで良い』と言われた時は嬉しかった。だってそれは祖父母が母を呼ぶときと同じ、よく知る名前だったからだ。ただ何だか自然に顔が引きつってしまったのが嬉しさのあまり浮かべた笑顔だったのは知らなかったけれど。


 それなのに『シャーリー様』と呼ぶ度にシャファルアリーンベルドは苦しそうな表情を浮かべた。それだけではなく初めて二人で街を歩いたあの日から、何故かシャファルアリーンベルドは酷くよそよそしくなってしまい目を合わせようともしてくれない。何か気に障ることをしてしまったのだろうかと考えてみても思い当たらず、ルイザに聞けば満面の笑顔で何も気にしなくて良いと言われるだけだし、レイは気まずそうに口ごもり『ロジーナ様は何にも……すみません、本人がヘタレなんです』と意味の解らない謝罪をされただけだった。勿論それでは釈然とせず、ロジーナは戸惑っているのだ。


 アヒル番の仕事中、シャファルアリーンベルドは色々と話しかけ、ロジーナを質問漬けにしていた。ロジーナは自分がそこまで特殊な暮らしをしてきたとは思っていなかったから一々驚かれる事が不思議でならなかったけれど、シャファルアリーンベルドが自分の事を理解しようと努めてくれているのが感じられたので不快感はなかった。ひとしきりの質問が済んだのか、いつしかシャファルアリーンベルドはロジーナが知らない色々な事を教えてくれるようになり、それはロジーナの小さな世界を広げてくれる大切な宝物のような時間であった。


 それもあの日以来ぱたりと止んで、シャファルアリーンベルドはアヒルを追うロジーナの後を黙々とついて来るだけになった。何かと様子を見にきてくれていたのに顔を見せることもなくなり、アヒル番の付き添い以外の時間は書斎に籠って仕事をしているのだという。気にしなくても良いと言われてもロジーナはやっぱりシャファルアリーンベルドの態度の変化が気になってたまらなかった。


 何度か練習してフロランタンが上手に焼けるようになり料理人達からのお墨付きも貰い、ロジーナはいよいよ念願のプレゼント用のフロランタンを焼いた。ジェニーに手伝って貰い可愛らしくラッピングをしたフロランタンは皆に喜ばれロジーナはほっと胸を撫で下ろした。


 最後にシャファルアリーンベルドの部屋を訪ね、皆とは違う特別なラッピングのフロランタンを渡すとシャファルアリーンベルドは目を見開いた。


 「わたしのフロランタンは特別なのか?」


 何故か苦しそうに、喘ぐように言ったシャファルアリーンベルドがどうしてそれを知っているのか解らなかったけれど、ロジーナはこくりと頷いた。


 「えぇ、シャーリー様は私の特別な方ですもの」

 「…………?!」


 じっとフロランタンを見つめていたシャファルアリーンベルドが視線を上げ、しかしロジーナと目が合うと気まずそうにふいと目を反らしてしまった。


 「いつも私のお世話をして下さって本当にありがとうございます。でも私、シャーリー様に頼りすぎていたのではないでしょうか?私、ここでの暮らしにかなり慣れてきたと思うんです。困った時はルイザさんやジェニーや屋敷の皆さんが助けてくれますし、間違った事をしてしまったらきちんと指摘して貰えます。ですからこれからは自分だけで大丈夫です。長いことご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」


 やはり自分が重荷になっていたようだなと思い反省と後悔で胸を一杯にしながらロジーナは頭を下げた。だがその耳に聞こえて来たのは力ないシャファルアリーンベルドの声だった。


 「君にはもうわたしの世話が必要ないと言うのか?」


 顔を上げたロジーナは訝しげに首を傾げた。どうしてシャファルアリーンベルドはこんなに悲しい目をしているのかと。


 「私の世話はシャーリー様にとってお仕事の時間を割いてまで取り組むほどのやり甲斐のあるものなのですか?」

 

 ロジーナが静かに疑問を投げ掛けるとシャファルアリーンベルドは考え込むように押し黙った。


 「私、これ以上シャーリー様の負担になりたくないのです。そのせいで嫌われたくないのです!」


 見上げたシャファルアリーンベルドの顔が滲む。あぁ、涙を浮かべてしまったと気が付いたがもう遅い。それでもせめてポロポロ涙を流しメソメソ泣いたりしないようにとロジーナは踏ん張った。懸命に目を見開きじっとシャファルアリーンベルドを見上げ続けた。


 恨まれ憎まれるのが当たり前だと思っていたのに、いつから私はこんなに強欲になったのだとロジーナは我ながら呆れた。嫌われたくない?そんなことを当たり前みたいに望むなんて。





 シャファルアリーンベルドも戸惑っていた。


 呪われた自分にも、自分の呪いのせいで呪いから解放され瞬く間に美しさを増していくロジーナにも戸惑った。『シャーリー様』と呼ばれる度に、しかもどういう訳か『シャーリーしゃま』に聞こえるその何となく舌足らずな言い方で呼ばれる度に『口からその青白い手を突っ込んで心臓を握り締められるような苦しさ』を味わった。ロジーナが眩しくて側にいると胸が苦しい。これはなんと恐ろしい呪いなのだろうか?


 しかもロジーナはあれ以来度々笑顔を浮かべるようになっていた。それは徐々に豊かさを増し時には紅い唇が開かれた。もう少しでコロコロと鈴が転がるような可愛らしい笑い声すら聞かせてくれるのではないかとすら思え、そう考えるだけで『口から』の苦しさに襲われた。これはなんと恐ろしい呪いなのだろうか?


 呪いの恐ろしさはそれだけに留まらず、日を追う毎にロジーナへの想いが増していく。それに応えるように呪いが解けていくロジーナは日に日に本来の輝きを取り戻していく。

 

 眩しそうに目を細めていたロジーナが明るさに慣れて普通に目を開けるようになり、その愛らしい瞳をクルクルとさせながら娘らしい様々な表情を見せるようになるとシャファルアリーンベルドは遂にとどめを刺されてしまったと乾いた笑い声をあげた。


 確かにあれは呪いだったのだろう。そして今、絹糸のように細くて艶やかな銀色の髪を風になびかせて微笑む夜空に光輝く月のようなロジーナは、シャファルアリーンベルドが呪われてしまった何よりの証だ。


 書斎で書類を広げていると席を外していたレイが何やら似つかわしくない可愛らしい包みを手に戻って来た。


 「ロジーナ様が手ずからお作りになったお菓子なんだそうですよ」


 そういえばロジーナはそんなことを言っていた。お礼のプレゼントしたいのだと。


 --そして、その中に私の名前はなかったな


 シャファルアリーンベルドはどんよりした気持ちを振り払おうと窓辺に行き庭を眺めた。


 丁度ロジーナが薔薇の手入れをしていた庭師達にレイが持っていたのと同じ包みを配っているのが見えた。庭師達は小躍りしそうな喜びようだ。シャファルアリーンベルドは耐えられずに背中を向け執務机に両手を着くと項垂れたまま唇を噛んだ。




 「殿下!」


 肩を揺すられ顔を上げるとレイが呆れたような顔をしている。


 「何度も呼んでるのにどうしました?ほら、ロジーナ様がいらしてますよ」

 「彼女が?」

 「えぇ、フロランタンを渡したいって居間でお待ちです」


 シャファルアリーンベルドは疲れたように微笑んだ。どうやらロジーナのお礼の相手には自分も含まれていたようだ。書斎を出ると居間のソファに座っていたロジーナが立ち上がり『これを』と言って包みを手渡された。


 それはレイや庭師達の物とは違い両手の平に乗るくらいの箱だった。


 「わたしのフロランタンは特別なのか?」

 

 ロジーナはどうしてそんなことを聞くのかと不思議そうに目を瞬いたがこくりと頷いた。


 「えぇ、シャーリー様は私の特別な方ですもの」


 特別な方……確かにその通りだ。シャファルアリーンベルドは身よりを無くしたロジーナを保護した後見人の息子で、両親に代わって面倒をみているのだから。


 特別の意味合いを思った時、猛烈な寂しさと虚しさがシャファルアリーンベルドの胸に広がった。そのあまりの冷たさに思わず視線を上げると、窓からの光を受けて蒼く輝くロジーナの瞳に捉えられた。


 --吸い込まれる!


 咄嗟に目を反らせたシャファルアリーンベルドに不安そうなロジーナはおずおずと言った。


 「いつも私のお世話をして下さって本当にありがとうございます。でも私、シャーリー様に頼りすぎていたのではないでしょうか?私、ここでの暮らしにかなり慣れてきたと思うんです。困った時はルイザさんやジェニーや屋敷の皆さんが助けてくれますし、間違った事をしてしまったらきちんと指摘して貰えます。ですからこれからは自分だけで大丈夫です。長いことご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」


 すまなそうに眉尻を下げ、ロジーナは深々と頭を垂れた。そんなロジーナの姿にシャファルアリーンベルドは確かにその通りなのだろうと感じた。もう泣いてばかりいたよろよろと頼りないロジーナはいない。もう手を繋がなくても一人で何処へでも歩いて行ける。


 それでもシャファルアリーンベルドは確かめたかった。だから聞いたのだ。一縷の望みを賭けて。


 「君にはもうわたしの世話が必要ないと言うのか?」


 顔を上げたロジーナは訝しげに首を傾げた。その表情と仕草とが自分の抱いている気持ちとの大きな乖離をありありと感じさせ、シャファルアリーンベルドは切なかった。


 「私の世話はシャーリー様にとってお仕事の時間を割いてまで取り組むほどのやり甲斐のあるものなのですか?」

 

 ロジーナが静かに投げ掛けてきたまるで窘めるかのような疑問にシャファルアリーンベルドは押し黙った。違う、シャファルアリーンベルドが得たいと思っているものはやり甲斐では無いのだ。


 「私、これ以上シャーリー様の負担になりたくないのです。そのせいで嫌われたくないのです!」


 そう言ったロジーナの瞳がゆらゆらと揺らめいた。あぁ、久しぶりだとシャファルアリーンベルドはロジーナが浮かべた涙に懐かしさすら感じた。泣いてはいけないと堪えているのだろう、必死に目を見開くロジーナの涙の中に漂うような瞳は蒼く蒼く煌めき、その光はシャファルアリーンベルドの視線に力強く絡み付いた。


 吸い寄せられるようにシャファルアリーンベルドが手を伸ばしかけたその時、ロジーナがふっと目を伏せ涙が頬を伝った。


 「!!」


 ロジーナはふらふらと後退り唇を震わせていたが、溢れ出る涙が次々と頬を伝っていることに愕然とし、ひらりと背を向けて駆け出す。


 シャファルアリーンベルドは凍り付いてしまったかのようにただ立ち尽くしていた。


 ロジーナの涙は美しかった。


 それはこの呪いがどれ程の想いを自分に抱かせてしまったのか、シャファルアリーンベルドにありありと思い知らせる美しさであった。


 

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