王太子は大慌てで口を塞ぐ
食事を終えた二人は手芸店に向かった。
「刺繍の材料が欲しいと言っていたな。刺繍は誰かに習ったのか?」
「えぇ、領地に送られるまでは家庭教師がついておりましたので」
思わぬ答えにシャファルアリーンベルドは思わず足を止めた。
「家庭教師が?!」
「すみません……またおかしな事を言いましたか?そういうものではないのかしら?私は学院に通いませんでしたのでずっと家庭教師達から教育を受けていたのですけれど」
「家庭教師……達?」
『えぇ』と言ってロジーナは繋いでいた手を離し指を折りながら説明をし始めた。
「筆頭家庭教師から教養全般、立ち居振る舞いとマナーの先生、ダンスの先生、音楽の先生、裁縫の先生の五人。刺繍は裁縫の先生にご教授頂きましたが……13歳になると学院に通う代わりに文法,文学,作文の先生、数学の先生、理科の先生、地理,歴史の先生も加わったので全部で九人です」
不安そうに眉を顰めるロジーナを安心させるように、シャファルアリーンベルドは微笑みを浮べて静かに首を振った。
ーー淑女教育どころか、お妃教育顔負けの熱心さじゃないか!
レイやルイザが立ち居振る舞いの美しさに感心するのも舌を巻くほどの幅広い知識を有していたのもそれだけの教育を受けていたのならば頷ける。しかし、12歳で婚約させ社交界デビューを赦さなかった娘を何故そんなにも熱心に教育したのであろうか?
ロジーナの表情に翳りを感じたシャファルアリーンベルドは一旦その話題から離れる事にした。
「この角を曲がった所にあるらしい……、あぁ、あそこだな」
突き当たりにあるくすんだピンク色の壁をしている建物が目指す手芸店らしい。いかにも女性好みの可愛らしい店で男性ならば入るのを躊躇いそうだが、シャファルアリーンベルドはキラッキラの王子様なのでその手の恥じらいは一切芽生えず何の抵抗もなくロジーナの手を引いて店内に足を踏み入れた。
「何かお探しですか?」
出迎えたのは初老の女性店主だった。
「刺繍の道具を一揃え欲しいのですが」
「でしたら見繕って参りますのでおかけになって」
店主に窓際に置かれたテーブルセットに案内された二人は向かい合わせに置かれている木の椅子に腰を下ろした。店主はあれこれと道具を選びかごに入れ、確認するように中身を眺めてから戻ってきた。
テーブルに一つ一つ並べられた品々をロジーナはじっくり吟味して選んでいる。時折どちらを選ぼうかと迷うのかしかめっ面になって見比べるが、夢中になっているので気がついていないのだろう。そして一通り選んだ頃離れていた店主が何かを手にして戻ってきた。
「あの、刺繍針はこれではなくてデイジー社の物は無いでしょうか?」
「こちらでございますわね」
店主は手にしていた刺繍針をそっとテーブルに置き『どうして?』と怪訝な顔をしているシャファルアリーンベルドに微笑んだ。
「お品物の選び方がとてもしっかりしておいでなのです。中々の腕前でいらっしゃる証拠ですわ。でしたらこちらの物よりもかなり値は張りますが物が良いデイジー社製の針をお望みだろうなと思いましたのよ」
針の番手を選ぶロジーナの集中を妨げないように小声で話す店主は嬉しそうに目を細めていた。
「コックコートのタイに刺繍をさせて貰うのですけれど、25番の糸なら二本取りかしら?本当は一本で刺したいのですが」
「そうですわね。頻繁に洗濯をしたりアイロンを当てたりしますので、一本では弱いかも知れません。二本をお勧めしますわ」
店主はロジーナに答えた後ほらねと言うようにシャファルアリーンベルドに目配せした。『だったら針はこれね』と呟きながら選んだロジーナはシャファルアリーンベルドを残し今度は店主と連れだって棚に並んだ刺繍糸を選んでいく。
シャファルアリーンベルドはその様子を眺めながら腕を組んで考え込んでいた。店主が感じ取った通りロジーナの刺繍の腕は確かなものなのだろう。今も何やら専門用語を交えながら店主と話をしているが、戸惑うこと無く話ができているのだからしっかりと話は通じているはずだ。
それに……とシャファルアリーンベルドは思い返した。
楽譜が届けられてからロジーナは毎日のように音楽室に行ってピアノを弾くようになったのだが、ルイザによるとロジーナが演奏する曲は令嬢の手習い程度では歯が立たない難曲で、相当な技量が無いと弾き熟せないのだという。
ロジーナの父親が淑女教育をあれだけ熱心に受けさせたとは到底思えない。手駒として使おうと言うのならばいざ知らず、嫌がらせの為に甥と婚約させているのだ。それならば何故という強い疑問が再びシャファルアリーンベルドの胸に引っ掛かりを感じさせた。
「お待たせしました」
会計を終え紙袋を手に戻って来たロジーナに声を掛けられシャファルアリーンベルドは我に返った。
「お坊ちゃまの仰った通り、お金は十分足りました。ホントに凄いわ。何でもご存知なのね!」
感服しましたと言わんばかりのロジーナの言い方に気不味さを覚え、シャファルアリーンベルドは視線を合わせずに黙って紙袋に手を伸ばした。
「ありがとうございます」
ロジーナは素直に紙袋を渡し素早く空いている方に廻り込んでその手に指を潜らせる。その躊躇いの欠片もない手慣れた様子はまるで父親と並んで歩く小さな子どものようであったが、何度も繰り返しても一向に慣れが見えないシャファルアリーンベルドはとてもとてもお父さんには程遠い。離れて見守る護衛達が『これじゃまるで殿下が不審者だ!』と毎回必死で笑いを噛み殺すレベルの挙動不審ぶりだ。
それでも二人は最後の目的地、人気菓子店『ポポポリーニ』に到着した。
店内に入ると焼き菓子の並んだ棚とタルトの並べられたショーケース、そして一回り小さなショーケースが置かれていた。
その小さなショーケースの前でロジーナはピタリと動きを止めて並べられた菓子をじっと見つめている。
「どうかしたのか?」
「お坊ちゃま、これは何に使うものなのでしょう?」
シャファルアリーンベルドはロジーナの視線の先を辿った。
「何に、というか菓子だ。この白や水色や薄紅色のものは中にはアーモンドが入っているし、ガラス細工のようなものは林檎やさくらんぼを飴絡めにしたもので、その色とりどりのトゲトゲした小さいのは金平糖という飴だ」
ロジーナはショーケースに視線を据えたまま目を見張った。
「こんなに美しいものが……本当にこれが全部食べられるのかしら?」
「あぁ、全て菓子だ」
シャファルアリーンベルドの言葉に応えるかのようにロジーナは繋いだ手にギュっと力を込めた。その瞬間、まるでスイッチを押されたようにシャファルアリーンベルドの胸に訳のわからない思いが湧き上がる。
「ど、どれが欲しい?好きな物を選ぶといい。林檎飴か?金平糖か?選べないなら一つずつ全種類を……あぁそれよりもこれ全部買ってしまおう!」
ロジーナは突き動かされるように口走るシャファルアリーンベルドに首を振ってみせた。
「ありがとうございます。でもそれは無駄使いというものですわ。ですからお気持ちだけ受け取らせて頂きます」
「じゃあ一つだ。一つなら良いだろう?」
シャファルアリーンベルドの胸に何かが湧き上がっているなど知る由もないロジーナはその必死さに思わず一歩後退ったが、ここはお言葉に甘えるのが礼儀なのではと判断し一番日持ちのするアーモンドドラジェを選んだ。店員に包むように言いながらもそれでも残念そうなシャファルアリーンベルドにロジーナは困り顔で小首を傾けた。
「お坊ちゃま、私、次にこちらに来た時はさくらんぼ飴が欲しいです。その次に来たら金平糖。ですからここにもまた連れてきて頂けますか?」
シャファルアリーンベルドは目を見開いた。ついでに口もパカッと開けた。それからぱちりと瞬きを一つすると『ガフっ!』と咽せた。
「何故?何故なんだ?何故君は……⁉」
うっかりそこまで声に出してしまったシャファルアリーンベルドは大慌てで口を塞ぐ。そりゃそうだ。その続きは『そんなに可愛らしい事ばかり言うんだ!』だったのだから。
「な、な、な、な、な……」
「?」
「お茶だ!お茶を飲もう」
ツカツカと歩き出すシャファルアリーンベルドに引っ張られるようにしながらロジーナは考えた。お坊ちゃまは今日は随分と喉が渇くのねと。
街を見下ろす二階のバルコニー席に案内され、シャファルアリーンベルドはウエイトレスに水を頼み出された水を三杯立て続けに飲んだ。ロジーナは『やっぱり』とそれはもう物凄く納得した。とっても喉が渇くのだわ、だから二度も咽たのねと。
ここでも水を飲んで態勢を立て直したシャファルアリーンベルドはメニューを捲ると指を差した。
「このクラッポポロロッカという揚げ菓子はここでしか食べられないんだ」
「どんなお菓子なのですか?」
「うーん、詳しいことはわからないが甘みが薄くコクの無いクッキー生地に似た物を薄く伸ばして細長い紐状に切り分けたものをこう……」
とシャファルアリーンベルドはおにぎりを握るような仕草をして見せる。
「手で丸めた物を油で揚げ、粉砂糖を振ったのではないかと思う」
この説明で『美味しそう、食べてみたいわ!』と言う令嬢などこの世に存在するだろうかと甚だ疑問であるが、驚いた事に存在した。しかもシャファルアリーンベルドの目の前に。
「まぁ、なんだか美味しそう。食べてみたいです!」
すっかり乗り気になっているロジーナの為にシャファルアリーンベルドはクラッポポロロッカを二人前と紅茶を注文した。但しロジーナは『どんなお菓子が出てくるのか楽しみです』と言い足したので、やはりあの説明から全貌を思い浮かべることは無理だったらしい。
「コックコートのタイに刺繍をする事になったのか?」
「はい、ルイザさんが構わないって仰るので。私、厨房の皆さんにフロランタンの作り方を習ったんです。お屋敷の方達に何かお礼を差し上げたくて。作る時には厨房の皆さんがお手伝いもして下さるそうなんです。ですから厨房の皆さんにはお礼に新しいコックコートのタイを差し上げる事にしました」
「お礼?彼らは仕事をしているだけだが?」
ロジーナは口を引き結び少しだけ険しさを含んだ視線をシャファルアリーンベルドに投げ掛けた。
「でも私に温かな気持ちを注いでくれます。それは彼らの優しい気持ちでしょう?だからお礼がしたいんです。皆さんに差し上げたいから沢山作らなくちゃいけないの。ルイザさんにジェニーにアンにアドルフさんに……」
ロジーナは次々と使用人の名前を上げていく。執事にメイドに庭師に農夫までを上げたところで『あっ』と小さな声を上げた。
「いけない!大事な人を忘れていました」
思わずホッとしたシャファルアリーンベルドはゴクリと喉を鳴らしたが、
「レイさん!」
と言う一声にガクリと肩を落とした。だがロジーナがそれに気付くことは無かった。丁度その時注文していたクラッポポロロッカがテーブルに置かれシャファルアリーンベルドを構っている場合ではなくなったのだ。
シャファルアリーンベルドの説明はこの菓子の魅力を伝える物では無かったが、構成や形状はほぼ正しく伝わったようだ。ロジーナの拳よりも一回り小さなボール状のその揚げ菓子には粉砂糖がたっぷりと降られまるで雪玉のようで、横には杏のジャムとオレンジマーマレード、それからクリームが添えられている。
「どうやって食べるのですか?」
「ナイフで切り分けても構わないが上手くやらないと欠片が飛び散るんだ。だから手で解しながら食べるのが良いと思う。レイの婚約者のルシェはかぶりつくらしいが……」
「かぶりつく??ガブッと?」
頷いたシャファルアリーンベルドは遠い目をした。
「その無邪気なところが堪らなく可愛らしいそうだ……。レイがそれに嵌まったせいでルシェはここに来る度にクラッポポロロッカを食べさせられるらしい」
「……では私は手で失礼します」
ロジーナはグラッポポロロッカの外側に指を掛けぽろんと割れたキツネ色の欠片をまじまじと見た。
「そのままでも良いしジャムやクリームを付けても良い」
先ずは本体その物がどんな味なのか気になったらしいロジーナは粉砂糖の掛かっていない部分を齧った。
「甘みの薄い、コクの無い、クッキー生地に似たものを薄く伸ばして油で揚げた、まさにそういうお味です」
という文言からはネガティブに捉えたかのような空気が感じられるが、ロジーナはあの説明から美味しそうとクラッポポポロッカの可能性を見出しただけのことはある。
「サクサクで香ばしくて、油で揚げているのに軽くて美味しい」
栗鼠のようにカリカリとクラッポポポロッカを齧るロジーナはしっかりとその価値を把捉したのであろう。何となくほっこりしている様子を感じ取ったシャファルアリーンベルドは口元を緩めていた。




