王太子は深い深い溜息をつく
アドルフを加えて始まった昼食は何だか物足りなくしんみりしたもので、ルイザは空いているロジーナの席を寂しそうに見つめながら微笑んだ。
「しばらくしたらサンドイッチでもお持ちしましょう。涙が止まった頃にね」
「やっぱり泣くのを見せまいと出て行かれたんですねぇ」
レイの言葉に一同は頷く。
「エルクラストに来てまだ三日目、僅かそれだけの間にこれだけ状況を読むとはな。今までは泣くことだけを要求されていた、それだけしか知らなかったのに」
「ほんの僅かな時間で認識のズレを理解したんでしょう。ここの人間は自分が泣くと困惑する、だから泣くのを堪えるべきだという判断をした。それにここの人間は皆優しく甘える事を望まれている。自分はその優しさを受け入れるべきだって事もちゃんと自覚した。その分析力、大したもんじゃありませんか。でもそんな事を嬉しいと感じて流す涙に戸惑いがあるんでしょうね。困らせる涙とそうじゃない涙の区別はまだ難しいんだろうなぁ。本人的に、涙は全面禁止にしたみたいだし」
レイが厨房でロジーナが落としたナプキンの事を打ち明けるとシャファルアリーンベルドは表情を曇らせた。
「結局、屋敷でも皆に愛されていたようだな……」
「それはもう」
アドルフは大きく頷いた。
「皆ロジーナ様が自分達を守ろうと距離を取っていることを重々承知しておりました。だからこそこれ以上悲しませてなるものかと表立っては関わらなかった。父親は勿論、ロジーナ様ご本人ですら気が付かないような密やかな気遣いで少しでもロジーナ様を労れたらと。ロジーナ様はそうせずにはいられないような健気で優しさと思いやりに溢れたお嬢様なのだそうです。その話を聞いただけでわたくしは」
目を閉じて上を見上げたアドルフの頬を一筋の涙が伝った。
「ロジーナ様を命に代えてもお守りしようと、そう心に誓いました」
ここにもまた一人、何故かロジーナに心を鷲掴みにされ萌えてしまった人物が生まれていた。しかもヒアリング調査の情報のみだからより重篤だ。
とはいうものの、命に代えてもお守りしようという心意気は立派だがそれは護衛騎士辺りが誓う内容なのでは?と三人は思ったが、アドルフの本気度は疑うべくもないようなので見て見ぬ振りで対応しようとアイコンタクトで示し合わせた。
「ところであの兎さんは一体なに?」
レイに聞かれ鼻をズズッとすすり上げたアドルフはテーブルに乗せた両方の拳をワナワナと震わせた。
「酷い話です。あの父親、ロジーナ様が気に入ったものは片っ端から取り上げたそうです。バイオリンとて同じ、熱心に練習していたらたまたま虫の居所が悪かったのか煩いと窓から外に放り投げた。それきりです。それきり壊れたバイオリンを直すことも新しい物を買い与えることもしなかった。ロジーナ様は五歳の時から四年間練習を欠かさず努力してこられたのに」
「それでバイオリンの話が出た時のロジーナ様は様子がおかしかったのか。でもそれならあの兎さんはどうして父親に捨てられたり燃やされたりしなかったんたろう?」
アドルフはこらえるようにじっと俯いていたが、クッと顔を上げた。
「あれはロジーナ様がお生まれになる以前に出産を控えた母君がご友人から贈られたものだそうです。生まれた時からロジーナ様のお側にあった。だからなのでしょう。どんなに理不尽な罵詈雑言を浴びせても決して一度たりともロジーナ様に手を上げる事だけは無かった父親が、代わりに何をしたとお思いでしょう?」
「まさか……」
アドルフは苦しそうに顔を歪ませながら口を開いた。
「やめてと泣いて縋るロジーナ様を振り払って兎を……時には床に叩きつけ時には靴で踏み、そしてバイオリンと同じように窓から投げ捨てる。ロジーナ様は大雨が降る中庭で棘だらけの薔薇に引っ掛かってしまった兎をずぶ濡れになりながら拾った事もあったそうです。戻った時には両腕が傷だらけになっていたと……」
「彼女なら、自分が殴られるよりも辛い想いをしていたかも知れないな」
シャファルアリーンベルドは腕を組んで考え込みレイは痛ましそうにロジーナの席に視線を送る。そしてルイザは耐えきれずにおいおいと泣き出した。
「お可哀そうに。今まで……どれ程お辛かったことでしょう!」
「と……わたくしも思ったのですが……」
アドルフは気不味そうに口籠ったがコホンと一つ咳払いをするとまた語りだした。
「ロジーナ様はちょっと違ったようで……あのお嬢様は日々涙に暮れていたとはいえ、ごく淡々と冷静に自分の境遇を受け入れておいでだったようなのです。使用人達が申しますには恐らく他人との接点がほとんどなく世間を知らずにお育ちになったせいではないかと。比較対象がいないのでご自分の悲惨さを理解されておらず、自分のせいで家族を不幸にしたのなら恨まれるのも仕方がないと捉えていらした」
「誰か指摘してやらなかったのか?」
険しい表情のシャファルアリーンベルドにアドルフは困った様子で眉尻を下げた。
「それがですな。清々しさすら感じさせるくらいあっけらかんとされていたそうで……」
「あっけらかん?」
何だそれはと首を傾げる三人にアドルフは更に困惑を深めもういっちょとばかりに眉尻をググッと下げた。
「はい。あんな扱いを受けながら、どうも今ひとつ当事者意識に欠けると申しますか。『なんて可哀相な私!』という雰囲気がまるで無い!」
この家庭環境でこんなにも素直に純真無垢なまま成長したのならば、いっそ余計な事は耳に入れず可能な限り自分達でお守りしようと彼等はそう考えた。やがて父親は再婚しロジーナは邪魔だからと領地に送られた。領地に行ったところで自由は無くとも父親はいない。ロジーナは漸く穏やかな日々を過ごす事ができた。今までも機嫌次第で領地に送られる事は度々あったが、気が変わった父親がいつ迎えに来るかわからず怯えて過ごさねばならなかった。しかし再婚して幸せに暮らす父親はロジーナの事など忘れてしまったようでそんな気配はない。アヒルの世話をしているロジーナののびのびとした様子を伝え聞き屋敷の使用人達は胸を撫で下ろしていた。さけられそうもない結婚もデニスが逃げているせいで進展がない。このまま一日でも長くロジーナが領地にいられるようにと彼等は一心に願っていたが、そんな折、余りにも突然に父親は急死した。
「父親の葬儀が終わるや否や直ぐに結婚するようにと叔父に迫られ、覚悟はできていたロジーナ様でしたが随分落ち込まれてしまったそうです。その上湯水のように金を使う義母はまるで話が通じない、おまけにその娘まで転がり込んできた」
流石のロジーナも義母とその娘に対しては納得がいかない思いを抱いてはいたようだが、小さな世界で純粋培養されたロジーナは極厚の厚かましさを振りかざす二人に立ち向かう術など持たなかった。しかも娘のイリセが激昂しやすく直ぐに手が出る性質であることも彼等を悩ませた。ロジーナは度々イリセから暴力を受けるようになり、それはロジーナだけではなく彼等にも向けられた。そして殴られるのはそれを庇ったロジーナなのだ。
「婚約者と義母の関係が怪しくなって来たのを感じたメイド達は思い切った賭けに出ることにしました。上手く行けば母娘を追い出し婚約も解消できる。そもそも言い逃れなどできるはずがないだろうと誰もが考えていたのです。メイド達は二人が部屋に籠ったのを見計らいロジーナ様に様子を見て欲しいと頼みました」
結果はまさかの惨敗だったが。
「あの時はどうなる事だろうかと皆生きた心地がしなかったそうですが、今こうしてロジーナ様がエルクラストに引き取られ大喜びしております。あの叔父は正気の大馬鹿者ですけれど、執事はエルクラストの事もルーセンバルトの家名が何を表すのかもしっかり把握されておいででした。お嬢様を何卒頼みますとそう申され、あの品々を託されて参りました」
アドルフはそう言うと窓辺に置かれたバスケットに目をやった。
「それはそうと、彼女はここに来て以来にこりともしていない。ルイザに笑えと言われた時には笑い方がわからないとメソメソ泣いたそうだ。それでも屋敷では普通に笑っていたのだろうか?」
シャファルアリーンベルドに尋ねられアドルフはニヤリとした。
「気になりますかな?」
「あれだけ規格外の変わった娘だ。興味関心があって当然ではないか!」
当たり前だと言わんばかりのシャファルアリーンベルドの顔に向かってレイもニヤリとする。
「しかももふもふの子兎ですもんねぇ」
「いや、だって不思議ではないか!見た目はあんなだぞ。どうして抱き上げるとフワフワしているんだ?」
ガシャーン!とルイザの手から落ちたフォークが音を立てた。
「抱きしめる……と……?!」
「違うだろう!!抱き上げるとだ!一昨日酔っぱらった彼女を部屋まで連れて行ったじゃないか!」
『あ、あぁ……アレね』とルイザは小刻みに首を縦に振った。
「でもね殿下、見た目はあんななんてちょっと聞き捨てならない言い方ですわ。確かに華奢でいらっしゃいますし、決してこういう……」
と言いつつルイザは胸の前で有りがちなジェスチャーをしてみせる。
「グラマラスなタイプではございませんけれどね。スラッとした手足とほっそりした首筋。それにあの細いお腰ったらもう、女のわたくしでも思わず見惚れる色っぽい括れか」「な・ん・の・は・な・し・だ!!」
大慌てのシャファルアリーンベルドは思わず立ち上がってルイザの話を中断させた。
「そういう事じゃない!無意識に成人女性大の鶏ガラを想像していたら実際はやけにフワフワしていたから驚いただけだ。勘違いするな」
プリプリしながら座り直すシャファルアリーンベルドに向かってルイザもニヤリとした。
「そういえば、殿下も呪われていらしたのよね?」
「それは母上の何時もの悪ふざけだろうが。いい加減にしないか!」
『でも……』とレイは顎に拳を当て考え込んだ。
「ロジーナ様も呪われていて、その呪いは王子様に惚れられたら解ける。対する殿下のはニアト出身18歳髪は銀色の婚約破棄されたばかりの令嬢に恋をしちゃう呪いなんですよ。それが一遍にドロンと解けると思うと無理も感じますけど……」
「どう思っても無理しか感じないだろうが!」
「そうかなぁ?進行性の呪いって事も考えられませんか?呪いでほんの少し殿下の心が動いたとしますよ、そしたらロジーナ様の呪いがちょっと解けてさり気ないチャームポイントがポロッと目に付く。それにドキっとして殿下の呪いがちょっぴり発動する、ロジーナ様の呪いがちょっぴり解けて別のチャームポイントがポロッと目に付く。ドキっとする、ポロッと目に付く。それを繰り返しているうちに完全に呪いの解けたロジーナ様はどうなっているでしょうねぇ?」
三人は揃ってシャファルアリーンベルドに視線を送りニヘラと笑った。
「あり得ないと言っただろう!」
シャファルアリーンベルドは奥歯を食いしばりながら器用にそう言った。
「大切なのは心根だと言いつつ結局容姿に囚われるのかと言われると何とも言い返せないが、アレはない。百合根のような見た目だけではなくて何で泣き出すかわからないあの底知れぬ不安感」
「ですから、それはもうご本人が自粛すると判断されておいででしょう?」
「た、確かにそうだが……何だか型破り過ぎて良くわからないし、それなのに次々と人の気持ちを掴んてしまうのが理解できん!」
「あら、昨日三十着仕立てろって仰ったのも、休みの度に外に連れて行くと宣言なさったのも殿下ですわよ。ご自分だって掴まれていらっしゃるくせに」
ルイザは目を細めてホホホと笑った。
「ルイザはちゃんとわかっておりますわ。がっかりなさったのよね。初めての微笑みを向けたのが初対面のアドルフだったなんて」
またしても三人揃ってニヘラと笑い掛けられ、シャファルアリーンベルドは深い深い溜息をついた。