執事長が戻りました
これにて第一回アヒル番朝の部は無事終了した。
三人は城を目指し来た道を引き返す。畑を通り抜けツルバラのアーチを潜り庭園に入りハーブ花壇まで来ると先ほどの庭師達が待ち構えていた。『一束こしらえておきましょう』とさらりと言ったあの庭師達だ。
しかしあの時、さらりと言った一束がこんなに重みのあるものだったとは誰が想像できたであろうか?
一束のラベンダー、その本数凡そ三百。
確認の為、もう一度。その本数凡そ三百。
得意満面の庭師達によって総数凡そ三百のラベンダーで構成された花束はロジーナに披露された。それから庭師達は
「こんなに沢山……なんて良い香りなんでしょう!」
というロジーナの感嘆の言葉に目を潤めながら『ラベンダーの花はポロポロ落ちてきますからなるべくそうっとお持ちください』という厳重注意と共に、当然貴方がお持ちなさいねとでもいうかのようにシャファルアリーンベルド=一国の王太子に花束を手渡した。
そのくせ
「まぁ大変。それならこうやって落ちてくる花を受け止めながら戻った方が良いかしら?」
と心配そうにシャファルアリーンベルドの前に回り込み手元にエプロンを広げるロジーナには
「後ろ向きで歩いたら危ないですよ。大丈夫、ラベンダーはまだまだ咲きますからいくらでも差し上げますからね」
と全く整合性の無い優しい言葉を口にしつつ、なんてキュートな事を……と胸をきゅるんとさせている。
『お嬢ちゃまが 良い香りだと言ったから 今日は我々のラベンダーアニバーサリー(字余り)』という庭師バージョンの一句と共に。
「お疲れ様でございました。汗をかいていらっしゃるでしょう?汗疹になるといけませんわ。湯浴みの支度ができていますから直ぐにお部屋に参りましょう。ついでにジェニーが髪を切り揃えると申しておりますのよ」
ウキウキと出迎えたルイザに部屋に連行されて行くロジーナを見送りながらレイは顔をしかめた。
「汗疹になるといけないって……我々もよく同じ事を言われちゃ洗われましたっけねぇ。といってもこーんな小さな幼児でしたけど……」
「昨日はそんなに服を仕立ててどうするんだと言っていたが、あの様子だとやはりそれくらい必要じゃないか!ルイザはアヒル番の度に湯浴みをさせるつもりだぞ。それになぁ」
シャファルアリーンベルドはたった今ロジーナに手渡した花束の香りが残る自分の手を眺めた。
「あんな小さい花、良くぞあの短時間にあれだけ切り取りましたね。そんなにも尽くしたいと感じさせるロジーナ様って……」
レイは感心しながらも呆れてそう言った。
結局ロジーナはジェニーに髪をカットされ湯浴みをしそのままエステフルコースになだれ込まれたのか、シャファルアリーンベルド達が次に顔を合わせた時には昼食の時間になっていた。二時間ほど拘束されていた模様だ。ダイニングに入ってきたロジーナの髪はハーフアップに纒められていてここに来た一昨日に比べると随分艶が出ている。それにしてもかなり印象が違うと思ったら前髪を下ろしたのだという。
「良くお似合いでしょう?」
前髪を下ろすなんて初めてだと心細そうな本人をよそにルイザは上機嫌だが、正直言ってシャファルアリーンベルドは似合うかどうかはまるで解らなかった。なにせ百合根だ。前髪があろうとなかろうと百合根なのだ。けれど何とは無しに浮かぶ残念な想いにシャファルアリーンベルドは戸惑ったが、それが何故かに思い当たるより前に考えている場合じゃなくなってしまった。何故ってどこからか『シャファルアリーンベルド様!』と大興奮で叫ぶ声がずんずんと近付いて来るのだ。
騒がしくやって来たのは箱を抱えた執事長のアドルフだった。シャファルアリーンベルドとレイはこの時始めて『そういえば居なかった……』と気がついたのだが
「姿が見えないと思っていたんだ。どうしていた?」
「そうですよ!なーんか物足りなくてね~」
等と悟られないようにその場凌ぎの言葉を並べる。ま、一切質問されることの無かったルイザは概ね感づいていたが憐憫の想いから口を閉ざすという大人の対応をしていた。
「ニアトに行って参りました!」
「ニアトだと?何の為に?」
アドルフは答えずにキョロキョロと辺りを見回しロジーナに目を留めてツカツカと歩み寄った。
「ロジーナ様、執事長のアドルフ・パーゼマンですわ」
ルイザに言われロジーナは小さく頷いた。
「ロジーナです」
「執事長、アドルフ・パーゼマンでございます」
アドルフが右手を胸に深々と一礼し顔を上げたその時、アドルフを除く全員がポカンと口をあけた。
ロジーナが、なんとロジーナが、アドルフに向かって微笑んだのだ。
ーーしゅ、しゅっ、淑女の微笑みならできるのか!!
シャファルアリーンベルドは驚きの余りあんぐりと口を開けてロジーナの顔を凝視した。
それはふんわりと柔らかく浮かべられた優しさに満ちあふれながらもキュッと上げられた口角が気品を醸し出している完璧と言えるクオリティの微笑みだ。しかし同時に隠しきれない義務感が完璧なはずのその微笑みをどこか物悲しげに見せている。まるで聖堂の女神像のように気高く微笑むロジーナから目が離せなくなったシャファルアリーンベルドだが、アドルフの声に我に返りドキリとした。危なかったがお陰で我を忘れて見とれてしまったことは誰にも気がつかれなかったはずだ。何しろ誰もが口をポカンと開けてロジーナの微笑みを眺めていたのだから。
ただし唯一ロジーナの微笑みのレア感を理解できていないアドルフは上機嫌でロジーナに話しかけた。
「叔父上様の所に行って参りました。ちょっとした覚え書きを交わす必要がありましてな」
実際は今後一切ロジーナに関わるなという念書に署名をさせたのだが。ちなみにアドルフとロジーナの叔父とは顔見知りだ。何てったって何度もロジーナを引き取りたいとレーベンドルフ伯爵家に足を運んだ貴族の遣い……と叔父が勝手に思い込んでいた人物こそこのアドルフだったのだから。
そんな訳で、散々煮え湯を飲まされてきたアドルフは遂に悲願を成し遂げてただ今感無量である。
「そうしたらロジーナ様のお使いになった楽譜が残っていると言われて、持って参りましたぞ」
実際は全部纏めて林檎ひと箱くらいの値段を提示され、超絶おこのアドルフがその五倍をたたき付けてやったのだが。
「楽譜を?持ってきて下さったの!」
なんとなくロジーナの声が弾んでいるように聴こえ、ルイザは嬉しくなった。
「ロジーナ様は何を演奏なさるのかしら?」
「ピアノを少し……以前はヴァイオリンも嗜んでいたのですが……」
それで?という一同を見回してロジーナはしまったとでも言うようにキュッと身体を縮ませた。モジモジと恐縮しているロジーナに何かを悟ったのかアドルフがそそくさと二人の執事を招き入れた。
「楽譜の他にも色々お渡しするものがございまして」
後から入って来た二人の執事達はそれぞれ箱とバスケットを抱えている。ロジーナは楽譜の他に残して来た物などあっただろうか?と首を傾げてそれを見た。何しろくたびれたクッションまでもイリセに取られたのだ。ロジーナに残されていたのは流石のイリセも欲しがらなかった下着とイリセセレクションのもやっとしてダボッとした数枚のワンピースのみのはず。それならば全部持ってきた。
「先ずは料理長から預かった特製ミックススパイス。ロジーナ様が苦手なナスもこれで味付けすると食が進むからと」
バスケットから出て来たのは小瓶とカードだった。
「こちらの料理長にレシピを渡して同じように作って貰って欲しいと言われました。それからこれは……」
アドルフは陶器の壷を取り出す。
「副料理長特製の生姜の飴。こんなヒリヒリと辛いもの、子どもは喜ばないと旦那様に耳打ちしてみたらロジーナに食べさせろと命じられるようになったとニンマリしながら言っておりました。このレシピも預かっております」
続いてアドルフは小さな缶を手に取った。
「あちらのメイド長がお嬢様は蚊に刺されると治りが悪いから気を付けて欲しいと心配されておりました。外に出るなら虫除けを使うのをお忘れにならぬように、それでも刺されてしまったらこの軟膏を塗れば治りが早いとの事です」
バスケット担当の執事が一歩下がり次は箱担当の執事が前に進み出る。アドルフは箱を開けて中身をそっと取り出すと薄紙の包をロジーナに手渡した。ロジーナは包を眺め、それからアドルフをじっと見つめた。
「兎さん……」
ロジーナの震える指で解かれた包から現れたのは、茶色い兎のぬいぐるみだった。
「若いメイド達がカンカンに怒っておりましたよ。あの強欲な我儘娘がロジーナ様から取り上げながらゴミ捨場に放り込んでいたいたそうで。ゴミを燃やそうとした下男が気付いて拾いメイド達が洗って破れを繕ったそうです。そして厨房のロジーナ様がお座りになっていた椅子に飾られていたんだとか」
「兎さんが?」
アドルフはロジーナににこりと笑い掛けた。
「ええ。ところが酔っぱらった料理長が抱きしめながら寂しい寂しいと泣きじゃくって涙と鼻水でぐちゃぐちゃに濡れたのでもう一度洗わなければならなかったそうです」
心温まる話のような気もするが出来れば聞きたくなかった情報のような気もする……とシャファルアリーンベルド達は微妙な思いを抱いたが、ギュッと兎を抱えて頬摺りをした様子から察するにロジーナ的にはさして問題は無いようだ。
「あの……」
ロジーナはルイザに声を掛けた。
「すみません。何だか……頭痛がしてきてしまって。アヒルの迎えの時間まで部屋で休んでも良いでしょうか?」
「具合が悪いのか?それなら部屋まで送ろう」
手を取ろうとしたシャファルアリーンベルドから一歩後退りロジーナはブンブンと首を振った。
「ありがとうございます。でも一人で戻れます。お坊ちゃまは皆さんと昼食を召し上がって下さい。折角のお食事が冷めては作ってくれた皆さんに申し訳ありませんから」
失礼します、と言い残してスタスタと出て行ったロジーナを一同はポカンと眺めていた。