何なりとお話しします
初めこそ警戒してか考え考え一口ずつ杏酒を飲んでいたロジーナだったが、どうやらレイの言うとおりイケる口だったらしく次第に飲み方から怯えが見えなくなった。それでもシャファルアリーンベルドはハラハラしながら見守っていたものの、ロジーナの様子に何ら変化はなくこれなら本当に大丈夫そうだと安堵し、後は本人に任せて良いだろうと判断した。
「もう少し聞いても良いだろうか?」
「えぇ、私にお答えできることでしたら何なりと」
ロジーナはテーブルにグラスを静かに置くと膝の上で両手を重ねた。その仕草もスッと伸ばされた背筋も流れるような脚の揃え方も非の打ち所のない素晴らしさで、レイはまた説明のつかない違和感を覚えた。
「君の祖父母は健在なのか?」
「父方の祖父母は亡くなっておりますが母方は二人とも息災との事です。最後に会ったのは母の葬儀でしたが。その理由も説明した方がよろしいですか?」
「差し支えなければ聞かせてもらえるかな?」
シャファルアリーンベルドに頼まれたロジーナは一瞬だけ何か考えたようだったがそれまでと変わらず穏やかに語り出した。
「私は祖父母も不幸にしているのです」
「……」
シャファルアリーンベルドとレイは顔を見合わせた。ほんの少しだけ躊躇ったロジーナにまさかとは思ったが、予感的中とは。
「私の母は子どもの頃からニアトの王太子妃候補の一人として名前があがっておりまして、祖父母は一人娘の母を王太子妃にすべく厳しく教育したそうです。ですが母は過度な期待に押し潰され王太子妃になどなりたくないと言い出しました。心身ともに疲れ果てていた丁度その頃父に出会い一目惚れした母は、結婚させて欲しいと祖父母に頼みました。なんでも結婚させてくれないなら修道院に入ってやると脅したそうで……。祖父母はとうとう結婚を許す事にしたのです」
娘の選んだ男に想い人がいることなど祖父母は全く知らなかった。娘の相手は王太子ただ一人と信じていた祖父母は格下貴族の子息のリサーチなんて一切しておらず、彼がどんな男なのか全く知らなかったのだ。
ついに父と結婚できないのなら死ぬとまで口走り思い詰めた様子の母に祖父母はとうとう折れた。だが結婚しても父はあの調子、母に愛情などなく天使に夢中なのを隠そうともしない。とはいえ帰って来いと言っても母は言う事を聞こうとせず、祖父母は五年経って父が離婚を切り出すのをひたすら待つしか無かった。
「実は祖父母は起死回生を狙っておりました。両親が結婚した後ご成婚された王太子妃殿下が双子の王子を出産された際に亡くなられてしまい、祖父母は離婚された母を王太子殿下の再婚相手にしようと目論んだのです。なんでも母は相当王太子殿下から気に入られていたらしく再婚相手としてなら強ち不可能な話では無かったとかで。しかし母が私を身籠った為にそれも叶わくなりました。それはあくまでも白い結婚だからこその話でしたので。祖父母は何度か私に会いに来ましたが私の髪色は父譲りで孫とわかっていても憎い男の子としか感じられないと。それに母は利発で愛らしい子どもだったのにお前は似ても似つかないとも申しておりました。そして私が九つの時、母は……」
それまで淀みなく冷静に話をしていたロジーナが突然口籠り俯いた。
「言わなくて良いんですよ。無理しちゃだめです」
レイは突き出した両手をひらひらと振ってロジーナを制止し
「屋敷の階段から転落されまして、それで……」
とシャファルアリーンベルドに耳打ちした。
シャファルアリーンベルドはレイの言葉に目を瞠り、そして顔を曇らせた。幼い少女が突然母親を亡くしたのだ。言葉に詰まったのも当然だろう。
「あぁ、その話はやめておこう」
そう言われロジーナは戸惑っていた。祖父母との関わりが無くなった理由を説明するつもりだったのに前振り段階で中断されたのだ。伝えなければいけないのはこの先なのだけれど……と後ろめたい気持ちにもなったが、何しろ泣いてばかりで慢性的に顔が腫れているので会って間もないこのニ名のビギナーがロジーナの表情から何を思うかを察するのは難易度が高過ぎた。
それでもロジーナは話すべきではと迷っていたが、二人はいらぬ気をまわしさっさと質問を変える方向に阿吽の呼吸で決定してしまっており、ロジーナに口を挟ませないように間髪入れずに次の質問を口にしていた。
「使用人が解雇されると心配していたそうだが、それは何故なんだ?」
ロジーナは膝の上で重ねられた両手をグッと握りしめた。
「父は常々使用人達に私に優しくしてはいけないと申しておりました。私は不幸の源で可愛がられたり愛されたりする資格が無いのだからと。それでもこっそり優しくしてくれたり扱いを改めるようにと父に進言したりした者は忽ち解雇されたんです。そこで私は使用人達と距離を置くことにしました。職を失った彼等が追い出されるのを見るのは辛い事で、それに比べたら淋しさや不便さなんて何でもありませんでしたから。その内に彼等は私の意図を感じ取るようになり私は誰にも構われなくなりました。でもこちらに参りましたら皆さんに口々に優しい言葉を掛けられて、これでは大量の解雇者が出てしまわないかと心配なのです」
そこまで言うとロジーナの目から久し振りにポロポロと涙が溢れ落ちた。ここまでロジーナは報告書を読み上げるかのように冷静に、まるで他人事のように話していたので、シャファルアリーンベルドとレイはうっかりロジーナがすぐ泣くのを失念しており、そういえばそうだったのこの事態に思わず身体を硬直させた。
「い、いや、大丈夫だ。君は俄には信じられないかも知れないが信じてくれ。ここには君に親切にしたからと解雇させるような者はいないんだ。どいつもこいつも君に優しくしたくて手ぐすね引いているが何も心配しなくて良い。そうだな……君の家では君に優しくしてはいけなかったが、ここでは君は彼等に親切にされるのを拒めない、そういうルールだと思ってくれ。判るか?」
ロジーナは大きく首を傾げ目元をグニグニと動かした。恐らく本人的にはぱちぱちと瞬きをしたのであろう。とにかくかなり驚ききょとんとしていたのだろうが、コクリと頷いた。シャファルアリーンベルド渾身のファインプレーにレイはよしよしと目を細めた。どうやら多少なりともこのお嬢さんの扱い方を掴んで来たようだ。
と、デキの悪い生徒がコツを掴んで問題をすらすら解き出したのを見守る教師に似た気もちを抱いた途端、レイは呆気に取られてあんぐりと口を開けた。
シャファルアリーンベルドはロジーナに別の質問を投げかけた。しかもしかもよりによって、婚約破棄について君は納得できているのか?と。
ーーどうして今ここでそういうデリケートな質問をしちゃうかね?
シャファルアリーンベルドのデリカシーの無さに呆然とするレイだったが、ロジーナはまったくもって動揺する素振りもなくコクリと頷いた。
「実は内心してやったりとも思っておりました」
「してやったり?」
「えぇ。デニスは私の従兄弟なのですが子どもの頃からとにかく意地が悪くて苦手だったのです。けれども叔父にデニスを婿入りさせたいと言われたもので、私ついつい……嫌で嫌で堪らなくて……大泣きしてしまいまして。それを見た父は直ぐに婚約を了承したんです」
またか、この父親のろくでなしヒストリーはどれ程壮大なのだと二人は頭を抱えたくなった。
「父が亡くなり慌てた叔父に急いで結婚するように言われて……そんな時に私は義母の部屋でデニスと義母が二人きりでいる所に居合わせてしまったんです」
「義母の部屋で二人きり?一体何をしていたんだ?」
ロジーナはまたグニグニと目元を動かした。
「知りたいですか?」
「勿論だ」
「かなり生々しいかと思われますがそれでも知りたいですか?」
「構わない。教えてくれるか?」
前のめりになったシャファルアリーンベルドに向かいロジーナはそれならばとご希望通りに事実を述べた。
「性行為です」
「…………」
表情を無くしピクリとも動かないシャファルアリーンベルドの様子を見てロジーナは慌てた。
「も、申し訳ありません」
ポロンと頬を転がる涙を拭うとどうしたら良いかわからずに取り敢えず身体の横で両手をパタパタ動かしながら言葉を続けた。
「性行為がどのような物かご存知無かったのですね。でしたらご説明致しましょうか?これは男女がおこな」「いや、いやいや間に合っている!」
ぎりぎり正気に戻ったシャファルアリーンベルドが大慌てで止めたのでロジーナの説明は終了した。
「気遣いは無用だ。何たるかは承知しているので何があったかは良く解った」
小さな世界のロジーナよりも二つお兄さんのシャファルアリーンベルドはそれに関して間違いなくよっぽど豊富な知識を有しており、その辺を何となく察したのかロジーナは安心したように頷いた。
「デニスと義母がと驚きはしたのですが二人が恋仲なら仕方がないですし……あわよくばこれで婚約破棄できるかなと。でもデニスは私と結婚しないことには爵位が手に入らないし、父が亡くなった今ならば私なんて領地に閉じ込めてしまえば居ないも同然だから婚約破棄などしないと申しまして。しかも義母はもう不要だから領地に連れて行けとも言われ、正直なところとってもがっかりしてしまいました」
「出生届が未提出で叔父が爵位を継ぐ事になったと知らされたのはその後なのか?」
ロジーナはどうしてご存知なのかしらと不思議に思ったがこくりと首を振った。
「はい、そうです。婚約破棄できないと思いがっかりした直後に婚約破棄だと言われ、私思わず嬉しいなと感じてしまったのです。全財産を取られるのは些か腑に落ちないでもありませんでしたがデニスと結婚するよりはましだろうと」
「義理とはいえ母親とそういう関係になるような男ですよ。ロジーナ様の将来を考えたら婚約破棄おめでとうございますと言いたいくらいです!」
レイはロジーナの話を聞けば聞くほど腹が立ち、目を血走らせながらそう言った。
「もうね、父親もそんな男も血も涙もない叔父さんもあばずれのお義母さんもついでに直ぐに手が出るその娘もキレイさっぱり忘れちゃぃしょう。これからはエルクラストで我々や可愛い可愛いアヒルちゃんと楽しく過ごしましょうね。アヒルの世話以外の時間は何でも好きなことをして構わないですよ」
「承知しました。先ずは精一杯アヒル番として務めさせて頂きます」
そう言うとロジーナは深々と頭を下げた。もう身体を二つ折りにするような頭の下げ方で、シャファルアリーンベルドとレイは今までロジーナはこうやって頭を下げさせられていたのかといたたまらない気持ちでそれを見ていた。
「顔を上げて。そんな頭の下げかたなんて、もうする必要はないんだよ」
シャファルアリーンベルドは優しく諭すように言ったがロジーナはそのまま固まったように動かず頭を上げようとしない。これもあの父親に強制されてのことだったのだろうか?二人はもう何度目か判らぬ憤りを堪えようとするかのように拳を握りしめた。
…………。
だが……あまりにもいくらなんでもこんなに長いこと顔を上げないものだろうか?二人の胸に遅ればせながら疑問が芽生えたその時、ロジーナは更にがくんと頭を下げテーブルにゴツンとおでこを打ち付けた。
「え?ちょっとロジーナ様?」
慌てて立ち上がった二人が両脇から身体を起こすと、ロジーナはそのままソファの背もたれに寄り掛かりついでに頭をのけ反らせ天井を向いた。
「寝ているのか?」
「寝ていますね……」
すうすうと小さな寝息を立て、ロジーナはぐっすり眠っていた。