-記憶の奥底に-
太浪は老婆が居るはずの部屋を目指して進んだ。
暗闇の中をすり足で、慎重に、慎重に──。
そしてその部屋に近付くと、蝋燭の物らしき弱々しい光が、襖の隙間から漏れ出ているのが見えて来る。
久しぶりに見る光に、太浪は一瞬安堵した。
だが、照らし出された自らの足が、そしてその足が辿ってきた跡が、赤く汚れていることに気付き、体を硬直させる。
「ヒッ!? 血っ!?」
先程太浪が踏みつけたのは、やはり何者かの死体だった。
それが人か、はたまた動物の物なのかはまだ分からないが、普通に考えれば家の中に動物の死体が落ちているはずもない。
彼にとって最悪の事態が起こっているのは、ほぼ確定的だった。
「婆ちゃん!? 婆ちゃんっ!?」
動転した太浪は、まだ生存しているはずの老婆がいるであろう部屋へと飛び込んだ。
最早今の彼に頼れる大人は、もう彼女しか残されていないのだ。
しかし太浪は、再び体を硬直させる。
薄暗い部屋の中央にポツンと正座する老婆の顔──それを確認した瞬間、彼は大きな違和感を覚えた。
老婆の顔からは表情が抜け落ち、まるで人間らしさを感じさせなかったのだ。
「ば……婆ちゃん……?」
言いしれぬ不安感に戸惑う太浪。
しかし、老婆は惚けた調子で、
「太浪かい? オラぁ思い出したことがあるんだぁ。
遠い遠い昔のことだぁ」
──と、今のこの状況には似つかわしくない昔話を、語り始めようとしていた。
「ば、婆ちゃん!
今そんな話をしている場合じゃ──」
太浪が今聞きたいのは、昔話などではない。
この家で一体何が起こってしまったのかということと、家族の安否だ。
だが、老婆の様子は明らかにおかしい。
あるいは何か衝撃的な体験をして、正気を失ってしまったのではないか。
それが事実ならば、もう話を聞くどころではない。
しかし──、
「それはなぁ、鬼の話の続きだぁ……」
「え……!?」
老婆の口から、この状況を生み出したと思われる存在の名が出た。
獣が民家に侵入してまでして人を襲うことは、そうそうあるものではない。
ならば太浪が霧の中で経験したことが、この事態に直結していると考えるのは、さほどおかしな話ではなかった。
だから太浪は、老婆を問い質すことを一旦止めて、その話の続きを大人しく聞くことにする。
「お……鬼がどうしたの?」
もしかしたらあの霧の中にいた鬼が、どういう訳かこの家まで辿り着き、家族を襲ったのではないか──太浪はそんな最悪の想像を確信に変えつつあった。
ただ、そのことが老婆の昔話と直接関係があるのかどうか、それはまだ分からない。
本来ならば、昔話はただの昔話に過ぎないからだ。
それでも今は、老婆の話を聞くことでしか、この状況を動かす術はなかった。
「その昔、一匹の鬼がいたんだぁ。
鬼はとても長生きで、だから酷く退屈していた……。
そこである時鬼は、人間に目を付けた。
鬼にとって人間は、殺して食うだけの獲物に過ぎなかったのだけどな、その人間を暇潰しに飼ってみよう……と、鬼は考えたのさぁ。
でもなぁ……捕まえた人間は、餌に獣の生肉を与えても食わないし、ひたすら泣き暮らして最後には衰弱死するか、頭がおかしくなって暴れ回り、手が付けられなくなったから……と、鬼に殺されしまうか……。
とにかくまともに飼うことなんて、できなかったんだぁ……」
老婆の奇怪な話は続く。
しかし太浪には、その話が今この状況と何の関係があるのか、全く分からなかった。
それに老婆は、まるで自身が直接見聞きしてきたかの如く、まるで鬼の立場から語っているかのように見える。
それは一体何故なのか──太浪の脳裏には様々な疑問が浮かんでは消えていくが、老婆の異様な雰囲気に呑まれて、声をかけることができなかった。
「やがて鬼は、人間は人間の世界の中でしか生きられないことを理解したんだぁ。
だから鬼は別の視点から、人間を観察することを思い付いたのさぁ……」
老婆の語る物語は、いよいよ佳境を迎えようとしている。
それは太浪にとって、
「つまり、鬼自身が人間の生活の中に潜り込んでみる……ってなぁ」
──絶望的な、真実の物語であった。
バックアップ作業は想定よりも1時間はやく終わった。