-鬼ごっこ-
「まいった……これじゃ道が全く分からない……」
と、太浪は平静を装う為に 独りごちた。
この霧に囲まれた状況は、老婆に聞かされ続けた鬼との遭遇談に似ている。
しかし彼はその話を信じてはいない。
いや、信じたくないと思っていた。
ところが物心が付く前からさんざん聞かされ続けた話は、太浪の心の深い部分へ澱のように沈殿している。
事実、彼がもっと幼かった頃は、鬼の話が怖くてたまらなかった。
それでもまだ幼いとは言え、太浪には男子としての矜持がある。
だからこそ、過去の自分が感じていた恐怖心を恥と考える。
そしてそれが故の、老婆への反発心だと言えた。
だがこの状況においてまだ幼い太浪が、自身の持つ原初の恐怖心を克服することは難しい。
太浪は霧で白色にしか見えぬ周囲を、キョロキョロと見渡した。
それは何かの姿を探すかのように──いや、周囲に何者の姿が無いことを確認するかのように、焦りの入り混じった素早い挙動であった。
しかし幸か不幸か、やはり周囲は白以外の色は何も見えず、太浪はまるで雲の上に浮いているかのような、不可思議な感覚に囚われる。
そして──、
(オレ……もうあの世にいるんじゃないよね……?)
そんな不安に駆られる。
ただ、そんな状況はいつまでも変化せず、それだけは救いであった。
(なんだ、霧が深いだけか……)
──と、太浪が安堵しかけたその時、
フシュウ。
太浪はそんな呼吸音を聞いたような気がした。
嘘だ、気の所為だ、そんなはず無い、嘘だ、あるはず無い、夢だ。
そんな想いが太浪の頭の中を駆けめぐった。
必死の否定である。
しかし、無情にも──、
フシュウ。
再び聞こえる呼吸音。
最早疑いようもない。
太浪のすぐ近くに何かがいる。
それを認めなければならなかった。
しかし認めたところで、太浪にできることは何も無い。
仮に呼吸音の主が飢えた獣だった場合、彼は食い殺されることになるだろう。
だが、もしも呼吸音の主が鬼ならば、老婆の話と同様に、鬼は勝手に何処かへと消えてくれるかもしれない。
じっと身じろぎもせずに待っていれば、彼は助かる。
ところがこの濃い霧では、相手の正体が分からない。
また、正体が鬼だったとしても、太浪のことを見逃してくれる保証も無かった。
そんな不確かな状態でただ待つことは、それこそ地獄のような苦しみである。
そして不安な心は、悪い可能性を想像しがちだ。
しかもそれが更なる悪い想像を呼び、際限なく膨れ上がっていく。
それを太浪のような子供が、いや大人であったとしても耐えることは難しい。
恐怖は太浪の鼓動を速くし、呼吸を荒くする。
その音を太浪は、自分の物なのか、それとも霧の向こうにいる者が発している物なのか、全く判断できなくなっていた。
「う……!」
この状況が続くことには、もう耐えきれない。
だから太浪は逃げた。
無心に、全力で、直走る。
だが、霧の向こうにいる何者かに害意が無いのであれば、その場に留まった方が安全だった。
こんな視界も不確かな状況で山の中を走るのは、転倒や崖からの滑落、樹木などへの衝突など、致命的な結果を招く可能性が高い。
まさに自殺行為である。
しかし、霧の向こうにいる正体不明の存在に、あるかどうかも分からない害意に脅えるこの曖昧な状況は、太浪にとって生殺しであった。
だから彼は逃げる。
生きるにせよ、死ぬにせよ、早くそれを確定させなければ、彼の精神は耐えられそうになかったのだ。
が、その選択は悪い方に転がった。
太浪の背後からは、何者かが追ってくるような気配がある。
彼の逃亡が、相手を刺激したのかもしれない。
「うっ、うあああああああああっ!!」
堪らずに太浪は叫び、全力で逃げた。
その頭の中は、ただ逃げたいという一心で、最早恐怖の念があるかどうかさえも分からず、ただただ白くなって行く。
まるで周囲の霧に、意識すらも飲み込まれたかのように。
ともかく、走るだけの存在と化した太浪は、山の中をひたすら駆ける。
その背後に何かがついてきているのかどうか、そんな現実は今の彼にとってはもうどうでもよくなっていた。
逃げるという行為に集中していなければ、太浪の心は粉々に砕けて、消え去りそうになっていたのだから──。