-消えた可能性-
今回でこのエピソードは終わりです。
「私の所為じゃない、私の所為じゃない、私の所為じゃない──」
譫言のように繰り返す妻。
どうも鬼を恐れているような反応ではない。
まさに自分自身が犯してしまった罪に、怯えているかのようだ。
それは──。
「お前まさか……鬼の夢を見たのか……?」
男は妻に問う。
すると、妻は図星を突かれたかのように、大きく目を見開いて男を見上げた。
「ち、違うのよ。
あんな夢の約束、現実になる訳がないじゃない。
だって夢だもの……夢なんだものっ!!」
そんな妻の言い訳を聞きながら、男は理解した。
妻は自身の命惜しさに、娘を鬼へと差し出すことを約束したのだ。
だから今、娘は連れ去られた。
(俺は娘を差し出さなかったのに……!!)
怒りがわいた。
男は自身の命が奪われる可能性と天秤にかけて、結局は娘を鬼に差し出すという選択を選べなかった。
それが夢だからと侮っていたからというのもあるが、鬼の姿を現実に見てしまうと、実際には命懸けの選択だったのかもしれなかった。
今彼が無事に生きているのは結果論に過ぎず、鬼の気まぐれか何かで見逃されただけなのかもしれないのだ。
それでも男は娘を守った。
なのに、それが無駄に終わった。
男が命懸けで守った娘は、妻の保身によって失われたのである。
これが怒らずにいられるだろうか。
「お前っ、ふざけるなよっ!?
俺がどんな想いで、あの夢に耐えたのかっ!
それなのにお前は……っ!!」
「ひぃっ!
ご、ごめんなさいっ!
ごめんなさいっ!!
男は妻を蹴り上げる。
妻は頭を抱えて身体を丸め、身を守る姿勢に入ったが、男は構わずに蹴り続けた。
このままでは取り返しのつかない結果を招くかもしれなかったが、男の怒りはそんな可能性を頭の外へと追いやっていた。
今の男にとって、悪いのは妻の方なのだ。
これは受けるべくして受ける罰だと思った。
だから男は、妻をひたすらに蹴り続けた。
マンションの屋上で、鬼は赤子を見下ろしている。
赤子は気を失っているのか、既に泣き止んでいた。
『クックック……貴様の両親は、遅かれ早かれああなっていただろうて……」
まるでその場で見てきたかのように、鬼は夫婦の間に行われている凶行を嘲笑う。
鬼には遠く離れた場所を──あるいは人の運命そのものを見る力があるのだろうか。
『あの夫婦の元では、どのみち貴様は幸せになれなかっただろう。
ならば我が物になっていた方が、少しはマシかもしれぬなぁ?』
鬼が赤子をどうするつもりなのか、それは分からない。
喰うつもりなのか、それとも別の目的の為に生かすのか、それは鬼のみぞ知ることであった。
ただ、赤子はもう、人間の世界では生きられない──それだけは間違い無かった。
「──という感じの話なんだけど?」
と、作家は担当編集者へ、次回作となる短編の構想を語った。
売れない作家が、久しぶりに提出したプロットである。
しかし担当は、
「……オチが弱くありません?
もっと衝撃的な展開とかは、無いんですかね?」
と、難しい顔で唸る。
それに対して作家は、
「でもこれ、半分実話だしね。
ネタに困って苦し紛れに出した、俺の体験談」
そんな不可解なことを言い出した。
それに対して、担当は眉根を寄せる。
「え? でも、先生は独身じゃないですか?」
「うん、だから夢の部分だけが実話なの」
そんな作家の言葉に、担当は苦笑いしながら問う。
「え……先生はなんて鬼に答えたんですか?」
「それは小説の通り、途中で目が覚めてよく分からないんだ。
ただその所為か、それっきり子供が欲しいとも、結婚したいとも全く思わなくなっちゃった。
もしかしたら、そういう未来の可能性を、鬼に捧げちゃったのかもねぇ……」
さすがにその言葉を聞いて、担当は少し気味悪そうにしていた。
人の未来の可能性を喰う鬼とは、穏やかな話ではない。
実在するかもしれないとなれば、なおのことである。
だがそれだけに、
「じゃあ、今の僕たちの会話をオチにしましょう。
変な後味の悪さが残って、読者の印象に残るかもしれません」
「そうだね」
ネタになるのならば、使わない手は無いのである。
もしかしたら、作家は大きな可能性を犠牲にしているのかもしれない。
しかしだからこそ、転んでもただでは起きない。
そんな人間の業が、ある意味では1番怖い──
と、窓の外から呆れたような表情で2人を見つめている少女がいることには、ついぞ誰も気づくことは無かった。
その少女は、どことなく作家に似ていたという。
悪夢の章──完。
つまり夢の部分だけは、私の体験談で半実話。まあ、その夢にでてきたのは、鬼ではなく熊でしたが。そして丁度昨日も、地元が十数頭の熊の大群に襲撃されるという夢を見た(笑)。
ともかくこれでこのシリーズは一旦休眠します。次のエピソードの構想はありますが、書くのは来年になるでしょうしね。それではまた。




