-未来の代償-
男はふと、今まで忘れていた悪夢のことを思い出した。
もう十数年も前に見たその悪夢を、何故今頃思い出したのかといえば、思い当たるのは子供が生まれたということであった。
女の子だった。
40歳を過ぎてようやく得た子供だ。
男にとって<可愛くない訳がない。
だからこそ、万が一にも失うことなど男には考えられなかったし、それ故に子供が無関係ではない内容のあの悪夢を、今更思い出したのだろう。
でも──、
(あれはただの夢だ。
何かが起こるはずもない……)
そのはずだった。
不吉な夢に対して不安を感じはしても、その夢が現実に何かしらの影響があるとは思えなかった。
それでも男の顔からは、不安の色は消えない。
(それに俺は──)
「……どうしたの?
怖い顔して?」
その時、男の妻が話しかけてきた。
男よりも10歳近く年下で、それだけに未だ若々しさに満ちあふれている。
手放しに「美人」と呼んでも、言い過ぎではuいだろう。
正直男は、自分には勿体ないくらいの女性だとも感じているが、だからこそ一目で惚れ込んで、必死に口説き落としたという経緯もある。
ただ、妻が妊娠して以来、性交渉はご無沙汰だったし、その他にも親族との付き合いや、産婦人科の手続き、出産後に想定される諸々の事柄に対する準備などで忙しくなり、妻とはすれ違い気味になっている。
そうなると、性差や年齢が離れていることによる価値観の違いも浮き彫りになってきて、最近は関係がギクシャクしてきている……と、男は感じていた。
「いや……なんでもない。
昔見た嫌な夢を思い出しただけだよ
通り魔に追いかけられた……みたいな感じの」
男は努めて平静を装いつつ、偽りの夢の内容を伝えた。
出産間もない妻に不安を与えるような話をして、これ以上彼女との間にある溝を広げたくはなかったし、言葉にすれば、それが事実になってしまうような、嫌な予感もあった。
言葉には力が宿るという、「言霊」の概念も馬鹿にはできないものである。
しかし妻は、男の説明には納得いっていないようで、不審げな表情を浮かべている。
確かにいい年した大人が、ただの悪夢を思い出しただけで、過剰に反応しているという印象は否めなかっただろう。
だから男は、話題を逸らして誤魔化すことにした。
「それよりも、何か用があったんじゃないのかい?」
最近は、妻から声をかけてくることは少ない。
あえて声をかけてきたからには、何か用事があったはずだ。
それとも、思わず声をかけるほど深刻な顔をしていたのだろうか……と、男は内心で反省した。
「ええ、夕食にしよう……って。
呼びかけても、なかなか部屋から出てこなかったから……」
「あれ……そうだったのか。
聞こえなかったよ」
男は妻が深刻な用事で声をかけてきたのではないことに安堵しつつ、椅子から立ち上がる。
嫌なことは夕食を食べて忘れてしまおう──そう考えていた。
──と、その時。
赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
生まれたばかりの、娘の物であるようだった。
まあ、赤ん坊にはよくあることだ。
「ああ、ハイハイ」
妻が娘の元へと向かう。
男はそんな妻の後を、ゆっくりと追う。
授乳などをするだけならば、男には手伝えることが少ないので、焦る必要も無かった。
ただ、何か違和感がある。
男はそれが何なのか分からないまま、娘のベビーベッドがあるはずの、居間へと向かった。
しかし、居間に近づけば近づくほど、その違和感が大きくなる。
そして居間に辿り着く頃に、ようやくその違和感の正体に気づいた。
娘の泣き声が、居間の中から聞こえてこないのだ。
もっと別の、それこそ屋外から聞こえてくるかのような……。
事実、居間には娘の姿を見つけることができず、オロオロとしている妻の姿があった。
「何処っ、何処へ行ったの!?」
娘は生まれたばかりだ。
まだ歩くどころか、這い這いすらできない。
自力でどこかへ行くことなんて、あり得なかった。
それなのに、娘の姿があるべき所に無い。
男は嫌な予感が膨れ上がっていくのを、抑えることができなかった。
(まさか、夢の──!?)
男も娘の姿を必死に捜した。
しかし室内にはやはり娘の姿が見当たらない。
ただ、聞こえてくる泣き声が遠く感じる。
「外、ベランダかっ!?」
男がカーテンを開けると、そこには──。
「ひっ!?」
妻の息を呑むような悲鳴が聞こえた。
男も思わず絶句する。
そこには、巨大な何かがいた。
人型の何かだが、決して人間にはあり得ない巨体であった。
そこには、男が夢に見たままの姿の鬼がいた。
そんな鬼の掌の中には、泣き声を上げ続ける娘が包まれている。
「ば、馬鹿な……っ!」
悪夢が現実の物になったという事実に、男は呻くしかなかった。
そんな男に対して、鬼は──、
『約束通り、子供は貰っていくぞ……』
絶望的な言葉を告げる。
「ま、待てっ!!
話が違う!!」
男は鬼を呼び止めるが、鬼はそれが聞こえていないかの如く、何の反応も返さないままベランダの外へ向けて跳躍し、そのまま夜の闇の中に姿を消した。
男は慌ててその姿を追い、ベランダから下を覗き込むが、鬼の姿は見当たらない。
この部屋はマンションの9階にある。
普通の生物なら、地上へ墜落していてもおかしくないはずだが、その形跡も無ければ、落下音も聞こえなかった。
ということは、鬼はもっと遠い所まで跳んでいき、そのまま逃げ去ってしまったということなのだろうか。
だとすれば、これからどうすればいいのか?
警察に通報したところで、話を信じてもらえるとは思えないし、だからと言って、鬼の存在を隠したままで、捜査が上手くいくものなのだろうか。
下手をすれば、自分達が娘をどうにかしてしまったのを隠す為に、狂言を演じていると疑われる可能性だってある。
それを考えれば、男はこれからどのように動けばいいのか、分からなかった。
今できるのは、自身の正当性を確信して、心の平安を得ることだけだ。
(そうだよ……!
確かに俺は、あの夢で何かを約束してなんかいない。
俺が何かを言う前に、夢から覚めてしまったはずなんだ。
俺は悪くないはずなのに、なんでこんなことになっているんだよっ!?)
そんな疑問が渦巻く男の耳に、「ひっ、ひっ」としゃくり上げるような妻の嗚咽が届く。
男が妻の方に目を向けてみると、妻は床に座り込み、酷くおびえた様子で嗚咽を漏らしている。
確かにあのような化け物の姿を目の当たりにしたのだから、それは当然の反応であるように見えた。
だが、男は何か違和感を覚える。
よく耳を澄ませば、妻は小声で譫言のように何事かを繰り返していた。
「私の所為じゃない、私の所為じゃない、私の所為じゃない──」
男はそれを聞いて、何故このような現状に至ったのか、それが理解できたような気がした。




