人の恋路
倉敷は、見かけたから声かけただけだ、と言い捨ててさっさと立ち去ってくれた。コミックスの棚に行ったようだった。姿が見えなくなった途端どっと溜息をついた私の心境を白亜は悟ったらしく、「倉敷くん、見かけほど怖くないから大丈夫」と笑った。私は怖い部分しか見ていないのでとてもそうは思えなかったが、今後一生関わることはないはずなので軽く流して、本棚を眺める作業に戻ることにした。
さすがに好きな作家の本は網羅されてはいなかったけれど、在庫数の割に、他ではあまり見かけない品揃えを堪能できたのは収穫だった。あまり新しすぎない店内の雰囲気もいい。本当にいいお店を紹介してもらった。光月作品を買って帰るかはかなり悩んだけれど、今日はお財布の都合で断念した。
入店時に気になったハードカバーもしっかりアプリにメモした。一通り見たからもう店を出ようとレジの横を通り過ぎるのと同時くらいに、白亜は不意に思い出したように足を止めた。お手洗いに行ってくる、と耳打ちしたので、私は先に出ている旨を伝えて外に出た。
自動ドアから出ると、湿っぽい空気が肌にまとわりつく。外はまだ明るい。時計を見ると午後四時だった。まだ暑さは残るけれど真昼よりは日差しも和らいで、幾分か過ごしやすくなった。少しの間だけど本の続きを読もうかと鞄を漁っている時、自動販売機の方向から「おい」と横柄な声のかけられ方をした。
「石川は?」
「……お手洗いですけど」
倉敷だった。スタンドを立てたままの自転車に跨り、ハンドルに両腕をかけて炭酸飲料のアルミ缶を指先で吊り下げている。店から出なければよかったと心底思った。かといって短い間に出たり入ったりするのはお店に迷惑かもしれない。更に何か声をかけられる前に販売機があるのとは反対側に移動する。邪魔しないでくださいとアピールをするために本も開いたけど、何故か倉敷はついてきて、読んでいる途中の本を取り上げてきた。これには怖いと思うよりもイラついた。この行為で倉敷は本を読まない人間なのだとわかる。
(なんでついてくるのよ)
相変わらず声にはできなかったけど、睨んでしまった。白亜に見かけほど怖くないと言われたから萎縮が弱まったのだろう。倉敷は開いているページにスピンを挟んでから本を閉じたけど印象は最悪だった。そして私がいくら睨んだところで痛くも痒くもなさそうだ。
閉じた本を私に差し出してきたので手に取ったけど、倉石は手を離してくれない。うんざりする。こんなに嫌な人には生まれて初めて会った。
「なァ、あんた本仲間なんだろ。石川ってどんなん読むんだ」
「……平岡美由樹とか好きだけど」
「知らねえ」
「有名なのは『炭酸の海』とか『さかさまな街』とか、あと『半生バーカウンター』とか」
「知らねえ」
「半生バーカウンターは漫画にもなってるわ」
「……あー、なんか見た覚えあんな。つーかその漫画三巻くらい出てなかったか。長えのは読める気がしねえ。あいつが読むの挿絵ねえし文字が細けえ小説だろ。他にねえのか。短えやつ」
「知らないわよ。っていうか白亜と帰りに会うのになんで私に聞くの?」
どうして初対面の不良に、白亜が読む本を教えないとならないのか。読む前から私たちが読んでる本を却下するのも気に食わない。それに白亜についての質問で明確に答えられないことがあると、「そんなことも知らないのか」と言われてるみたいで嫌だった。あんたの方が白亜を知らないくせに。
私の苛立ちが伝染したように、倉敷も忌々しそうに舌打ちして、かなり不本意そうに言った。
「うるせえな。帰りは二回しか会ってねえわ」
「ああ、そう。じゃあ今日が三回目の偶然なのね」
「偶然じゃねえよ」
「はい?」
「たまにここ来るんだろ、あいつ。……だから来た」
「…………え、なんで?」
「なんっ……」
信じられないものを見るような目で見られる。察しが悪すぎていっそ哀れむような怪訝な顔。
私だって苛立っているとはいえ、さすがにそんなこと話されれば倉敷が白亜に好意を持ってることくらいわかる。今日が偶然じゃないなら、帰りに会ったっていうのもきっと偶然じゃなくて、白亜が来るまで待ってるんじゃないだろうか。
(そんなのストーカーじゃない)
一気に不信感を抱いた。白亜は可愛い。贔屓目抜きに見たとしても顔立ちは整ってるし、ちゃんと私以外のクラスメイトとも交流してるから社交性だってあるし、体だって華奢で女の子らしい。男にモテないなんてことがあるわけがない。仮にモテないとしたら、男に見る目がないか、告白できない小心者しか周りにいなかったのだ。それはわかるけど、こんな嫌な奴に好かれてるなんて知ってしまったら、どうにかして突き放したくなるに決まってる。私はできるだけ望みがない回答を探してやった。
「倉敷くんって別に本が好きじゃないんでしょ。無理に合わせようとされてもコメントしづらいわ」
「仕方ねえだろ。趣味合わねえんだよ」
「接点ないのになんで好きなの」
問うと、倉敷は黙った。
みるみる顔を真っ赤にして、唇がくっと震えるのが見えた。私は、自分以外の人間にも心は備わっているけれど、それは他人のことを考えられない鈍感な心だと思っていた。だからその顔を見ただけで白亜が好きとわかってしまう倉敷の反応に面食らってしまった。倉敷は今きっと白亜のことを考えていて、その純情な表情に、私は一瞬恐怖も嫌悪も忘れてしまった。
「か……」
それまでの尊大な態度とは打って変わって、虫が鳴くような小声。だから微かな声は拾えても言葉までは聞き取れなかった。「何?」と聞き返すと、ぐっと口をひき結んだ後、開き直ったようにまた嫌な態度に戻った。
「関係ねえだろ。つーか接点はあったんだよ。委員会同じで、成績も並んでた」
「へえ……」
それなりには話す仲だったのか。
思っていたより本当に白亜が好きなようだとは思ったけれど、それで協力したくなるほど倉敷の嫌な印象が消えるはずもない。
私から白亜の情報は決して言うまいと思ったが、ちょうどその時白亜が店から出てきた。倉敷を見て、帰る前に一声かけようと思って、と話していたのを聞いて、白亜の方も倉石を憎からず思っているのだとわかって心の中で密かに舌打ちした。
倉敷は白亜に気づくや否や、やっと私の本から手を離した。そして結局『白亜が好きな本で自分でも読めそうな短い小説』を知ることなく、私たちと別れた。