梓弓の老少将後日譚~大生苗国廻神退治2~
瑞穂歴515年 夏月10日
北進道・大生苗国居津良郡、(おおなわこくいつらぐん)・居津村
「無茶を言うな、大古真彦。その怪我ではどこかに流れ着く前に死んでしまうぞ」
「でも他に方法は無い、やるしかない」
年嵩の男の言葉に歯を食い縛りながらそう答えると、大古真彦は自分の身体に付いた傷を麻の布できつく縛り上げる。
「し、しかし……昨日」
「……外に助けを求めに行こうとした矢津麻呂は廻神に八つ裂きにされたんだろう?」
更に制止しようとした別の男の言葉を遮り、大古真彦が固い口調で言うと周囲に集まっていた男達は息を呑んだ。
「お、おまえ、それをどこで聞いた?」
「明日生け贄にされる矢津麻呂の妹の志麻比米からだよ」
「……」
「……」
「家にバラバラにされた矢津麻呂の身体が投げ込まれたらしいじゃないか。隠していてもみんな知ってる」
大古真彦の言葉に応える術を持たない村の男達。
彼の言うとおり、自分の妹が次の生け贄に決まってしまった矢津麻呂は、誰知れず突き立てられていた屋根の梁に立った白羽の矢を抜き取り、それを持って国衙へ助けを求めようとしたが、果たせなかったのだ。
「……川に流されていく」
「川……だと?お前、その怪我では無理だぞ。血が流れ出てしまう」
大古真彦がぽつりとこぼした言葉に、最初彼に声を掛けた年嵩の男が驚いて言うが、大古真彦は自分の手足や胴を麻の布で縛るのみ。
やがて周囲の男達は大古真彦を尻目に立ち去る。
「……どいつもこいつも、腰抜けめ。おれは、あいつらをきっと成敗するっ、国衙に訴え出て強い武人を連れて戻ってくるっ」
全員が立ち去ってからも自分の身体を縛り続ける大古真彦。
やがてそれが終盤に差し掛かった時、年嵩の男が戻ってきた。
「何のようだ?」
「それだけじゃ川に流されねえぞ、ただ沈むだけだ」
じゃあどうすりゃいいんだ!
そう大古真彦が怒りの声を上げようとしたその顔の前に、年嵩の男が縄で連結された瓢箪を突き出した。
「これ使え、少し浮く。縛ってやるから、脇を上げろ」
「麻布だけじゃ辛かろう、木綿を持ってきた。傷口にはこっちの方が優しいはずだ」
「銭を少し入れておくから、使え」
先程立ち去った男達が次々と戻ってくると、それぞれが持ち寄った必要と思われる物を大古真彦に渡していく。
「み、みんな……」
「お前が最後の希望だ、頼む。あの化け物共をひねり潰せるような、梓弓の少将様のような武人を連れてきてくれっ」
驚き泣きそうになる大古真彦の肩を優しく叩き、年嵩の男が言うと、村の男達は次々に大古真彦の身体を触っていく。
大古真彦は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔のまま、男達を振り切るようにして村の外れを流れる川へと向かい、そのまま川面へと入った。
傷口にじわじわと水が迫り、しびれるような痛みが広がる。
しかし脇や腰に結わえられた瓢箪が浮力を持ち、水面の下にありながらも完全に沈まない状態で大古真彦は流されていく。
やがて大古真彦はゆらゆらと揺れる水に身を任せ、疼痛に苛まれながらやがて気を失った。
瑞穂歴515年 夏月12日 北進道・大生苗国早苗郡・羽良街道
「うむ?」
沙雪と街道を歩く行武の鼻腔に、嗅ぎ慣れた不快な臭気がほのかに届いた。
それはかつて幾度も戦場で嗅いだ不快な香り。
「御祖父様?」
ふと足を止めた行武に、沙雪が不思議そうに問い掛ける。
「血臭じゃの」
「えっ?」
驚く沙雪の手へ連れていた馬の手綱を預けると、戸惑う孫娘の様子も意に介さず行武は街道から脇を流れる河川敷へと向かう。
腰刀に手をやっていつでも抜けるよう油断無く歩みを進める行武。
河川が近付くが葦や芒が生い茂っていて見通しが悪い。
血臭が強くなった場所で、行武は葦と芒の草原をかき分けて河岸へと出た。
しばらく石だらけの河川敷を歩いた行武であったが、街道上を慌てて付いて来た沙雪を振り返ると大きな声で言った。
「人じゃ!大怪我をしておる!」
「はっ!?」
意識を取り戻した大古真彦は、しばらくしてから自分が簡単な天幕の中に寝かされていることに気付く。
手で自分の身体を探ると、既に着ていた着物は脱がされており、毛皮で出来た上掛けが掛けられていることが分かった。
しかも真新しい木綿布で手当もされている。
ぼんやりと霞が掛かったような頭でとりとめない考えを巡らせていると、傍らから老人の落ち着いた声が掛けられる。
「おう、気が付いたかの?その怪我で川に流されながら、よう生きておったな。大したものじゃ」
「ここは……?」
「大生苗国早苗郡の羽良街道ですよ」
思わずつぶやいた大古真彦に答えたのは沙雪のたおやかな声。
沙雪の言葉をしばらく頭で巡らせ、ようやく大古真彦は言う。
「……助かったのか?」
「まあ、姿を見るに手当は受けておる。見捨てられた訳でもなければ、怪我をして直ぐに川に流された訳でもなさそうじゃ……何があったのじゃな?」
再度声を掛ける行武に、大古真彦は涙をこぼしながらゆっくりと口を開くのだった。
「ふううむ、なるほど……それは廻神で間違いなかろうのう」
「御祖父様、如何しますか?」
大古真彦から全てを聞き終えてから唸る行武に沙雪が尋ねる。
兵を用いるのが一番の方法だろうが、道行く途中で見た限りここ大生苗国の兵は一度廻神と戦って手酷い損害を受けている。
それに国衙は遠く、これから怪我人の大古真彦を連れて国衙に向かっては時間が掛かりすぎるだろう。
その間に大古真彦の村人達は食い尽くされてしまうことになる。
「わしらでやるしかなかろうな」
「……あの、あなた方の手に負える相手とは思えません。どうか国衙まで私を連れて行って下さいませんか?お願いしますっ」
痛む怪我を押して大古真彦が懇願すると、沙雪が優しくそっとその額に手を載せる。
「心配要りません。私の御祖父様はとても強い武人ですから」
「わしはユキタケヒコという老兵じゃ。まあの、厳い危険じゃが勝算はあるわい、些か準備は要るが、まあ任せておけい」
頼もしく宣言する行武を、唖然とした大古真彦が見上げる。
それを見た行武は一笑いした後、それまでとは打って変わった厳しい声色で言う。
「しかし時が足らぬ。酷い怪我の所悪いが、お主の村まで早急に案内せよ」
「わ、分かった」
瑞穂歴515年 夏月15日 北進道・大生苗国居津良郡、(おおなわこくいつらぐん)・居津村村奥の鎮守社
真っ赤な夕日に染まる神木の根元。
黄昏、それは逢魔が時と呼ばれるこの国で古来から最も危険な時間。
森深い、とは言っても、村から然程離れていない鎮守の森。
そこへ村人達の手による一丁の輿が向かう。
輿には純白の絹で出来た袍と裳を着用し、倭文の長紐帯で締めた細身の若い女が乗せられている。
頤のはっきりとした顔形にくっきりとした黒眉、涼やかな二重瞼と長いまつげに彩られた目。
瞳は榛色でありながら白目がはっきり目立ち、鼻梁は長く細く、紅花で染められた薄い唇はしっかりと結ばれている彼女の容姿は、可憐にして美麗。
腰の上に端座する姿は、これから生け贄に捧げられようとするにはあまりに綺麗で堂々としていた。
むしろ輿を担ぐ村人の方がびくびくと落ち着かない様子である。
その後方には長持を担ぐ村人達が続く。
長持には村で造られた酒精の強い濁り酒が壺ごと治められており、封をされているものの村人が歩くのに合わせてちゃぷちゃぷと水っぽい音をさせている。
やがて血に染まった鎮守の森の広場に到着すると、村人達は長持と輿を置く。
その中の1人が、恐る恐る尋ねる。
「ほ、本当にこれで宜しいので?」
「……」
その問い掛けに娘は答えず、無言で鎮守の森の奥を睨んでいる。
答えがないことから村人は娘から言葉を得ることを早々に諦め、その場にやって来た他の者達を誘うと早々に立ち去った。
村人達が去ってからしばらくの時が経つ。
それまで吹いていたそよ風がいつの間にか止み、小鳥のさえずりが密かに消える。
どっと生臭い風が森の奥から押し寄せ、娘の顔を撫で、その衣服をはためかせた。
「……!」
娘が息を呑むのと同時に、異形が森の奥から続々と現れた。
そしてたちまち娘と輿、長持を取り囲むと、鼻を鳴らして匂いを嗅ぐ。
「……おう、今日の娘はまた一際美しき……芳しき香りよな、大いに美味そうな」
「しかし、良き香りぞ……香りを楽しみながら喰らうが良きか?」
「このような極上の獲物を前にしてこれだけとは口惜しき……酒が欲しいの」
「……おう、そうよ。酒があれば良いの」
「酒があればこの娘の味も増し、わしらも大いに楽しめるというものじゃ、斯様な酔い獲物を前に勿体ない……」
「村人に言うて捧げさせるか……?」
「しかしそれでは喰うのが遅くなる……」
「如何すべきか……」
極上の娘を前にした異形達が口々に酒を欲しがり、それがないことを残念がる。
娘はその成り行きに息を呑む。
ぐっと拳を握り歯を食い縛って声を出すのを耐える娘をのぞき込んでいた異形達が、ふとその傍らにある長持に気付いた。
「おや、これはなんじゃ……長持は、なんじゃ?」
「……何故長持なぞが此所に在る?」
娘の後方に置かれた長持の存在にようやく気付いた異形達。
「開けてみようぞ」
異形達の内の一体が恐る恐る長持に近づき、そっとその蓋を開いた。
異形の力をもってしても抵抗を覚える程ぎっちりと喰い込んでいる蓋を取り除くと、強い酒精と芳しい米の香りが立ち上る
「これは……酒の香りぞ、なんと……人ども酒を捧げしぞ?」
一体の異形が発した驚愕の言葉に反応し、娘をそっちのけに今度は長持に群がる異形達。
「……素晴らしき、我らに酒を捧ぐか人どもよ」
「なんと気の利きたりし者達ぞ……ようやく我が意を得るに至りしか」
「……酒じゃ酒じゃ」
「麗しき娘を肴に酒盛りぞ……」
長持の中に納められている酒の香りに気付いた異形達が歓喜の声を上げ、その蓋を取り外すと壺ごと酒を持ち出した。
そしてその酒を早速回し飲みし始める。
周囲には酒精の薫りが強く漂い、異形達はその甘美な酔いに身を委ねる。
「なんと強き酒じゃ……われは酔い痴れたぞ」
「……わしもじゃ」
「わしも酔うた……」
「ではそろそろ娘を頂こうか……」
「そうじゃ、肴を忘れしぞ……これはしたり」
「酒に夢中になり過ぎし」
空になった壺を仕立てに放り投げた異形の1人がよたよたと立ち上がる。
異形達が奇っ怪で怖ろしい酒盛りをしている間、ぴくりとも動かず、その様子を眺めていた端座のままの娘に近寄る異形。
そしてその長く毛むくじゃらの手を伸ばしかけてはたと気付く。
「……何ぞおかしきぞ?」
「されば、我らを見た時から動きなかりしぞ?されば……叫び声上げぬ」
「おう……何とも殊勝な娘よ。叫び声を上げぬわ……」
「否、否。きっと興ざめよな、叫ばぬか娘よ?疾く叫び給えぞ」
妾らと娘の廻りに集まる異形達であったが、相変わらず娘は身じろぎ1つしない。
訝る異形達を余所に、長持の底が開いた。
異形達が娘を怖がらせようと、その身体を小突いたり、歯を剥き出しにして威嚇の声を上げたり、地を大きな足で踏みならしたりする中、長持の底から現れたそれは素早く弓を引き絞り、異形の後方から一気に三本の矢を放った。




