69話 鎧袖一触
瑞穂歴513年 初冬月10日夕刻 東間道志瑠麻国、梓弓行武軍駐屯地
椀や鉄鍋を洗ってから片付け、かまどに再び燃えさしの薪を入れる。
そしてその上に屑藁を乗せて燧石を叩き、火を付けると、その熱で暖を取りながら行武が口を開く。
「さて、腹拵えも済んだ事じゃし、軍議と行くかの」
その言を聞き、周囲に居る一同は真剣な表情で頷いた。
今この場に来ている者以外は、現在藻塩潟の梓弓砦で留守を守っている。
マリオンは遠征に付いて行きたがったが、西方から来る大船との交渉をしなければならず、また他に西方語が話せる者もいないので居残りとなった。
山下麻呂や雪麻呂は夷族の相談役や橋渡し役として居残り、また畦造少彦と財部是安は農事や財務もさることながら、遠征軍に対する糧食などの補給に必須な人材であるが故に居残っており、浮塵子の連中も農事に従事しなければならないので居残りとなっている。
武鎗重光は藻塩潟の守備役、薬研和人も医師として藻塩潟に居残りである。
行武の支配下に置いた各国は、労働意欲の向上と施策の成功で軒並み生産力が上がり、天候が順調に推移したことと相まって、近年まれに見る大豊作となった。
それ故に穀物の収穫は大幅に高まり、遠征軍への補給も潤沢かつ順調に行われている。
また備蓄も順調に推移しており、このまま行けば国家の体裁の一つの基準である3年分の備蓄も直ぐに達成出来そうだ。
大章国との捕虜引渡も順調で、米や銭が行武の元にどんどん入ってきているので、行武に兵糧や給料不足の心配は今のところない。
それに加えて補給路もしっかりと確保されている。
早速武銛らが大章国や弁国から接収した船を使って、藻塩潟から行武のいる最前線であるところの東間道まで兵糧を大量に運んでいるからである。
それに、街道を遮る国司もいないので進駐の時と同様に陸路も使える。
「そろそろ攻めるかの」
行武の宣言に軽部麻呂が不思議そうに質問する。
「長期の対陣で相手を疲弊させ、内部不和を図るのではなかったのか?」
「まあ、内部不和は大分進んだようじゃからの」
「うむ、ジジイの言うとおりじゃ。京府の貴族共は櫛の歯が欠けたかように硯石の元から離れつつある」
行武の説明に、猫芝が鼻息荒く同意した。
揺曳衆共々京府に度々侵入して情報を得ている猫芝は、得意げに小さな身体を反らせて言葉を継ぐ。
「京府の民草も元々梓弓のじじいには同情的であったからの。昨今の文人貴族の姿勢や態度に不満が募っていたところに今日日の騒ぎじゃ。恐らく民草はジジイの入京を心待ちにしておるじゃろ」
「……行武様、周辺の山渦共の排除も完了しております」
猫芝の脇に立ってそう言うのは、揺曳衆の頭である烏麻呂。
彼らは今回の軍旅には裏方として従事しており、主に密偵の摘発や間諜の排除、妨害工作の防除を行ってきていた。
東間道に来てからしばらくは敢えて山渦の密偵を泳がしていたが、ここ数日を掛けてそれらを慎重に排除していたのである。
「うむ、ようしてくれたわい。これで急襲が可能となる」
烏麻呂の言葉を受け、行武は満足そうに頷いて言うと、集まった一同を見回して再び口を開く。
「明朝、国境を越えて朝廷軍を急襲する。故に、本日は見張りを除いて早めに兵を休ませる。皆も承知おいてくれい」
瑞穂歴513年 初冬月15日 京府・硯石邸
「……山渦共を東先道に送り込む?」
不信感の籠もった声色で聞き返す基家に、広家はうっすらと不気味な笑みを浮かべて言う。
「梓弓めの本拠地に混乱を起こすのです。さすれば、兵を引かないまでも動揺することは明白。梓弓めの兵はその大半が東先道の夷族や柵戸から成ります。兵共の士気を下げることも出来ましょう」
「ふうむ」
自分の説明に思案する基家に、広家は畳みかけるように言う。
「上手くいかずとも山渦共などいくら使い潰してもこちらの痛手にはなりませぬ。失敗したとしても、本拠地を狙われたと知れば、梓弓めは兵の一部を東先道へ戻すやも知れませぬ」
広家の説明を聞き、更に思案する基家。
確かに今のままでは勝ち目は薄い。
剣持兵部卿を復帰させ、かき集めた兵5千を与えて採蕗国へと派遣したが、その差は明らか。
しかも招集した兵は以前剣持兵部卿に与えたのと同様の農兵で、訓練が不足しており、大章国や弁国を破った歴戦の強兵を揃える梓弓軍に敵うべくも無い。
恐らくまともにぶつかれば、練度兵数共に劣る剣持兵部卿の軍は鎧袖一触であろう。
しかも梓弓軍には海路での補給が続々と到着しているのみならず、梓弓家の家紋旗を掲げた大章国風の戦艦が京府周辺に出没し、あちこちの官倉や国兵屯所、国衙を襲撃して回っている。
一度などは京府の玄関口にあたる、大伊津に10隻の戦艦が現れ、西方製の投石機で散々に大石や油樽を撃ち込んで港湾設備を破壊し、焼き払っている。
幸いにも人的被害はほとんどなかったが、この襲撃は京府の文人貴族を恐慌状態に陥らせ、大王を奉じて京府北西にある大垣山への遷座も検討された程だ。
その為に京府の守護に兵5千を残さなければならず、迎撃部隊を率いる剣持兵部卿には練度不足も明らかな5千の兵士しか預けられなかったのだ。
京府のみならず、瑞穂国全体の政情が不安定化し、事に田那上王の宰領下にある西海道や西南道、西州道を除く各地域では暴乱や紛争が頻発している。
その田那上王も朝廷からの命令に理由を付けて拒否することもしばしばで、動静が読めず不穏な空気が増していた。
国司がしっかりと分国を把握している国々では何とか動揺を押さえ込んでいるが、大半の国々では叛徒や農民一揆を抑えきれずに混乱が広がっているのだ。
貴族の中には朝廷への出仕を取り止めて邸に引き籠もったり、荘園や領地に疎開する者まで出始めており、混乱は終息の気配を見せない。
梓弓軍が進駐した志瑠麻国から京府までは未だ距離もそれなりにあるが、1万2千余の大兵を事も無げに動かした行武の軍事的才覚とその圧力に、かねてから財政基盤を行武の施策や農民達の反発によって弱められていた文人貴族達は、徐々に屈しつつあった。
当代の大王は当然ながら狼狽えるばかりで何の施策も実施出来ず、櫛の歯が欠けるように減り続ける朝議への出席者の数を見て取り、基家は謹慎から復帰させた広家に意見を求めたのである。
「梓弓めに動く気は無いかもしれんな……」
「それは……我々の自壊を待っていると言うことでしょうかな?」
基家の独り言にも似た言葉に、広家は眉を上げて問う。
基家は重々しく頷くと、再度口を開いた。
「現に今の朝廷から貴族共が逃げ出し始めておる。このまま行けば政権の中枢機能が失われてしまうやも知れん。梓弓からすれば、待っておれば朝廷は機能不全に陥るのだ……それに西の田那上王と梓弓めは旧知の仲。連絡を取り合っている可能性もある」
「山渦共を放っておりますが、左様な知らせはありませぬ。使者の行き来も見受けられませんが……」
「海を忘れておるぞ。梓弓めは海を使う、以前もそれで失敗した」
基家のため息と共に吐き出された言葉に、広家は少し戸惑った様子で応える。
「……そうでしたな。しかし、海の方は何とも出来ませぬ。湊には密偵を貼り付けておりますが、梓弓共は西方や大章の大船を鹵獲して使っております故、遠洋を一気に航海されては探りきれませぬ」
「弁国とやらから貴様に連絡はないのか?」
ふと今気付いたかのように問う基家に、広家は首を左右に軽く振って言う。
「敗戦の報せは来ておりませぬな。情勢が変わったので撤退した、ついては再侵攻のために援助をせよ……という連絡は来ておりますが」
「ものは言い様よ……所詮は弁国など東方の小国。我が瑞穂に近接するが故に交流もせねばならぬが、近くなければ相手にする必要も無い者共だ。しかも直ぐばれる詭弁を弄して我らを謀ろうとは、相変わらずの浅知恵、頼むにも信ずるにも値せぬ」
「切りまするか?」
嘲る基家の言葉に広家がそう応じるが、基家は首を左右に振る。
「いや、また何ぞかで使いどころがあるやも知れぬ。繋ぎだけは付けておけ」
それよりもと前置きした後、基家は言葉を継いだ。
「兵を集めよ。それに加えて……」
そこまで話したところに、板敷きの濡れ縁を小走りにやって来る複数の足音が響く。
怪訝そうに音のした方を向く基家と広家の前に、やがて硯石家の家人が慌てた様子でやって来るのが目に入った。
「騒々しい。何事ぞ」
厳しめの口調で問う広家に、硯石家の家人が慌てて平伏した。
「どうした」
「ただいま朝廷より知らせが参りました」
重々しく問う基家に、更に身を低くした家人が震える声で告げる。
「……ほう?」
訝りながらそう声を上げる基家に広家が視線を向けると、家人は震える声のまま言葉を継いだ。
「先だって11日未明、大交道採蕗国の大蕗川付近にて剣持兵部卿率いる朝廷軍を梓弓軍が急襲し、朝廷軍が潰走したとの知らせが参りましたっ」
「な、何だと!?」
家人の知らせに驚いて立ち上がる広家。
その様子を窺いながら家人が平伏したままの姿勢で言葉を続ける。
「梓弓軍はそのまま西進し採蕗国の国衙を接収、京府に向けて進発の準備を抜かりなく始めておるとのこと。既に京府の主立った貴族様方は西方への避難を始めておりますが、その動きを察した庶民にもこの敗報が知れてしまい、京府でも騒乱が起こっておりまする」
そう告げる家人の後方、屋敷の外側からやにわに悲鳴や怒号が起こり始めた。
よくよく見ればうっすらと遠方で黒煙が立ち上っている様も見て取れる。
「……朝廷と大王は如何致した?」
「分かりませぬ。御使者は既に逃げ散ってしまいましたので……騒乱のくだりは物見を派遣して知れました……如何なさいますか?」
基家の言葉に家人は平伏しながらもちらちらと外の様子を気にしつつ問う。
広家が物問いた気な視線を向けてくるのを感じながら、基家は素早く思案を巡らせる。
屋敷に家人は居るが警固の者や武人はおらず、今から参内して舎人や警備の国兵をかき集めても騒乱を抑えられるかどうか分からない。
そもそも混乱を察知した官人や国兵が逃げ散っている可能性もある。
自分の屋敷に貴族の誰1人としてやって来ないのも、梓弓の侵攻の前に脆くも破れた朝廷や硯石家を見限った故に、保身を図ったからであろう。
知らせが到着した時期を考慮すれば、既に梓弓軍は京府近郊に迫っていてもおかしくはない状況であるし、このまま座して待っても良い結果には成らないと見切りを付けた貴族達は我先にと京府から逃げ出すはずだ。
しかし、京府を逃げたところでどこに行こうというのか。
西には梓弓行武と親和性の高い田那上王がおり、京府近隣に避難したとしても、朝廷を抑えた梓弓に後で攻められるのが精々。
ここは朝廷や京府に居残って降伏するのが上策、そう結論づけた基家は直ちに家人に指示を出す。
「まずは朝廷に参内致す。国兵と舎人、官人を集めて大王と朝廷の安泰を図る……広家」
「はい」
「お主は山渦共に命じ、郊外の京府守護軍を京府に入れさせよ。検非違使と共に京府の治安回復と騒乱を鎮圧させるのだ。それから梓弓に使者を出せ」
「承知致しましたが、梓弓への使者の口上は……何と致しますか?」
「京府を開ける故に進駐されたしとでも言え」
広家の問いに、基家はにやりと不気味に口を歪めて応じるのだった。




