68話 梓弓軍南進
瑞穂歴513年 晩春月15日 東先道、広浜国
日差しが強くなり、緑色の大蛙があちこちで鳴き始めている。
梓弓砦周辺の水田には既に水が張られ、田植えの準備が整っていた。
畦が真新しい泥で塗り固められ、十分に耕された田に水が引き込まれる。
東先道諸国のみならず、北の地に在る各国では、京府周辺より少し遅い今頃の時期になってから田植えが始まるのだ。
瑞穂国の中心である京府やその周辺では雨季となるこの時期であるが、東先道から北の地においては雨の程度が西や南の地に比べて弱い。
それに代わって冬の間高山に降り積もった雪からの雪解け水が水源となるのだ。
しかし水量は十分に確保されているものの水温が低く、稲の生育に支障が出かねない。
そこで水が十分に温まるこの季節になってから田植えが行われるのである。
苗代から取り分けられた生きの良い真緑の苗が、これから田植えに参加する男女の腰籠に分けて入れられていく。
泥田に引き入れられた水が十分温くなり始めた頃合いを見計らい、周辺に太鼓の音が響き渡った。
これからいよいよ神事とも言うべき田植えが始まるのだ。
夷族、和族の別なく配られた稲の苗が、それぞれの手で植えられていく。
中には少し大きくなったツマグロやスジグロを始めとした浮塵子の子供達も雑じっており、雪麻呂を始めとする夷族や和族の大人達に教わりながら、太鼓の音に合わせて一列ずつ苗を植えていく。
そんな植えられていく稲を、少彦と是安は畦道からほくほく顔で見つめていた。
それというのも、今年は天候順調で豊作が予想されているからである。
そしてそのお墨付きを与えたのは、猫芝率いる蕗下人の天候博士達であった。
「我主ら、その顔は止めよ」
「いやいや、滅相も御座いません」
「猫芝殿に渋い顔など向けられるはずもないでしょう」
「渋いとは言うておらん、その笑み崩れただらしない顔を止めよと言うておる」
嫌そうな顔付きで言う猫芝に、少彦と是安はそう言って満面の笑みを向け続ける。
猫芝の後ろには背丈の低い、蕗下人達が泥や水を底の浅い土器に乗せては何かを調べており、その姿を目にした是安と少彦の笑みが深くなる。
蕗下人の博士達は、この地のみならず行武の支配下に入った全国に散り、その地に合わせた作物や農耕技術を伝授して回っているのだ。
今まで伝説でしか知らなかった蕗下人の活動に若干の混乱も生じたが、行武の威令が行き届いていることもあって概ねは受け入れられており、お陰で各地ともに今年からは新しい農法や作物が試されることになっている。
もちろん、大部分は今まで通りに農事を行うが、一部蕗下人の知識を入れて試験的に実施し、今年成功すれば大々的に拡充する方策を採ることになる。
「昨年は色々ありました故に、なかなか農地も広げられず難渋しておりましたが、今年こそは殿様に黄金色の秋を見せられそうで御座います」
「ふん、まあ……今年は夏暑く雨も多い天候になるのは間違いないそうじゃからの。作柄は大いに期待出来ような」
是安の感慨深げな言葉を聞き、猫芝もまんざらでもなさそうな顔付きになってから言う。
少彦らが田植えを見守る中、泥田では田植え作業に慣れないツマグロが足を取られてひっくり返った。
頭から泥まみれになったのを見て、周囲の大人達が暖かい笑い声を上げる。
太鼓も拍子を崩したことで、田植えに従事していた者達の視線が泥まみれのツマグロに集まり、再度の温かい笑いが起こる。
ばつが悪そうにしながらも落とした稲の苗を大切そうに拾い上げ、ツマグロが太鼓係の男に大丈夫だと手を振ると、再び拍子が戻った。
「……馬鹿にされることを何よりも嫌っておったツマグロが、怒りもせずに作業に戻るとはの。人の成長は早いものじゃ」
行武が遠目に見て取った光景に感心した様子で言うと、森から出てくる獣を警戒する兵を率いていた軽部麻呂が笑みを浮かべて言う。
「それだけ老将の行為がこの地に安寧をもたらしたのだ。かつての浮浪児達も心穏やかに農事に勤しみ、夷族和族の別なく田植えに従事する。この人の和を為したのも、老将だ。大いに誇って頂きたいものだ」
「わはははは、そうは言うても人の心がそれを望まねばどうにもなるまい。わしは少しばかり人の良き心の後押しをしただけよ。全てこの地に住まう民人の成せる事じゃ」
軽部麻呂の言葉に心底嬉しそうな笑みを浮かべて言う行武。
その眼前には、きらめく水田が山裾まで広がり、畠と代わった後に深く豊かな森へと繋がっている。
水田と山裾の間にある水の引けない高畑では、西方から伝わった玉菜の収穫が行われており、収穫後の土に草木灰や落葉肥が撒かれ、馬犂がそれをしっかりと混ぜ込んでいく。
どこまでも豊で穏やかな大地が広がる光景を前に、行武は静かに天を見上げて祈った。
「東北の辺土なれども、この地にこそ弥栄有れかし」
藻塩潟は西方から大章、大章から西方へ向かう交易船の中継寄港地として徐々に周知されてきており、大章国や西方からの商船が続々と入港し始めていた。
しかも行武の施策で寄港料はかなり低く設定されており、関税も取られない。
行武はまずは船舶をより多く呼び込むために無駄な徴収はしないことにして、関税は免除とし、また桟橋や岸壁については接岸料として最低限度の料金を取るものの、それ以外の金銭は取らないようにしたのだ。
藻塩潟も西方船や大章船が寄港し易いよう、また直接の乗降や荷物の積卸しがし易いように港湾を掘り下げ、桟橋を拡張し、石垣を築いて護岸を造成し始めている。
まだまだ時間は掛かるものだが、大章船や西方船は今まで全く寄港出来なかった瑞穂諸島に開かれた唯一の港である藻塩潟を瑞穂北港と呼んで重宝し、今後の発展に大いに期待していた。
残念ながら今はまだ藻塩潟において特筆すべき商品がないため、交易船の食料や真水の補給、船体の修理や整備のための寄港が主体だが、それでもそれらの船が用立てる食料品や水、修理に使う木材に帆布用の布や糸、綱や釘、鎹などの鉄製品は全てこの地で購入される。
その甲斐あって、行武の元には諸外国で通用する大章銭や西方銀貨が少しずつ貯まり始めていた。
いずれは歓楽地区を設定して、船乗りや商人達により魅力ある寄港地とする予定だが、今は未だそういった文化に慣れない東先道の民人には受け入れられないと考え、酒を飲ませ飯を食わせる宿場と湧き出る温泉を利用した浴場を設けた。
浴場は特に大当たりし、今や広浜温泉場と呼ばれ、寄港した船員達が必ず立ち寄る名所となっている。
藻塩潟の発展と前後し、行武は東先道は言うに及ばず、北辺道、北平道、北嶺道、紐山道、東間道、東北山道、東平道、東山道の諸国を影響下に納めるべく動いた。
行武は国司が逃げ出した国々の国衙を接収し、介以下の地方官吏に仕事を続けさせる一方で汚職を排除し、武民や武装農民を解体し、東先道で実施した各種施策を順番に施行していく。
非違郷の編入、検地の実施、戸籍の整理、租庸調の見直しと軽減、官道の整備、治安の回復を基礎として、計画されながらも実施されてこなかったり、発案そのものを国司に無視されてきた灌漑工事や治水工事、道路工事、開拓などの施策を掘り起こす。
一旦それらの事業を展開するにあたって、全ての租税を免じてもいる。
民人の労働意欲が大きく増すとともに浮浪人や無戸籍人、夷族や八夷族の移民が増え、これらの定着や定住が進む。
労働力不足は更なる貧民達の吸収を可能とし、行武の影響下にない諸国においても、行武の支配する東及び北瑞穂地域への移住が促進され、益々耕作地は増え、農業技術の向上が図られていった。
特に苛政を敷かれている荘園や公地からの逃散が西や南瑞穂地域で相次いでおり、それらの民人が向かった東や北の地域は更なる発展を遂げていくことになる。
瑞穂歴513年初夏月20日、東間道志瑠麻国、端同郡柴桐、梓弓行武軍駐屯地に、行武率いる軍団が到着した。
行武は支配下に入った地域の南端である東間道と、朝廷の力の及ぶ領域の北限である大交道の境目、志瑠麻国に兵8千余りを引き連れて進駐。
それに加えて周辺諸国から国兵を集め、都合1万2千余りをもって朝廷に圧力を掛けることにした。
無論、小桜姫を名目上の総帥に据えていることは言うまでもない。
朝廷側も慌てて大交道採蕗国に剣持兵部卿率いる兵5千を送り込むが、双方共にそこから動かず、越年することになる。
瑞穂歴513年 初冬月10日 東間道志瑠麻国江入郡、梓弓行武軍駐屯地
石で組まれたかまどにくべられた薪が勢い良く火を上げている。
そのかまどに置かれた鉄鍋の中には、粟、稗、小米、芋がぐらぐらと煮立てられており、そこからは穀物の煮え立つ得も言われぬ良い香りが立ち上っていた。
かまどの前に座った行武は、しばらく煮立つ鉄鍋を眺めていたが、頃合いを見計らって徐火のついた薪をかまどから掻き出し、土をかけて消すと、次いで手にしていた竹皮の包から味噌を取り出し、これを木匙で適量をすくい取り、少し冷めた鉄鍋の中に投入した。
それまでの穀物が煮立つ香りに、濃い塩気を伴った味噌の香りが加わり、一層食欲をかき立てる、良き香りへと変化する。
行武の横でゴクリとつばをのむ音が聞こえた。
「……姫様、はしたないですぞ」
「うう、済まぬ。しかし爺、これは我慢仕切れぬぞ……たまらぬ」
行武の面白がるような言葉に、その横に座って煮立つ鍋をじっと見つめていた小桜姫が顔を赤くしてうつむきながら言う。
一本雉尾羽の兜こそ脱いで傍らに置いているが、行武は軍陣らしく短甲姿。
隣に座る小桜姫も髪を結い上げ、行武より小振りではあるが帯飾りを付けた短甲を身に付け、倭文織帯を締めた腰には小太刀も差している。
そんな厳めしい装束にも関わらず、年相応に腹の虫を鳴らしてしまい、恥じ入る小桜姫を優しい笑顔で見ながら、行武はゆっくりと鉄鍋の粥を混ぜる。
味噌の良い香りが周囲にほんわりと満ちると、小桜姫の腹から小さな音が再び鳴った。
「わはははははは!」
「ううっ……」
大笑する行武を恨めしげな目付きで睨みつつも、小桜姫は恥ずかしそうに腹を押さえることしか出来ないまま顔を赤くする。
顔を赤くした小桜姫を傍らに招いて床几に座らせ、ゆっくりと味噌粥をかき混ぜている行武の元に、本楯弘光が、猫芝を伴い幾つもの木椀を持ってやって来た。
「姫様、少将様。椀と箸を持って参りました」
「行武ジジイよ、吾が椀を持って参ったぞ……当然、吾の分は大盛りぞ?」
「おう、ご苦労じゃの。わしのかまどでは味噌粥がなかなか上手く出来たわい。まあ、粥じゃから大盛りは無理じゃ。そう欲張るものではないぞ、猫芝よ」
にこやかに応じながら木匙を手にした方とは逆の左手で椀を受け取り、行武はその中に出来たばかりで香りをたっぷりと含んだ湯気を上げる粥をよそう。
そしてまず傍らの小桜姫にそれを手渡してから、2椀目を猫芝に渡してやる。
その後も弘光と椀の受け渡しを何度かしていると、今度は軽部麻呂が串を通して焼いた川魚を持って現れた。
「姫殿下、老将、こちらも出来たぞ」
「おう、丁度良い。こちらも完成しておるわい」
香ばしい薫りを漂わせる焼き魚を、用意されていた椎の葉に置きながら言う軽部麻呂にそう応じると、代わりに行武は味噌粥のたっぷり入った椀を差し出す。
「これは馳走だな、老将手ずからの粥とは」
「はははは、何程のことは無いわい。長く軍陣にいると美味く温かい飯を食いたくなるものじゃ。まず味噌粥は飽き難く、それなりに美味い。それに加えて作り方も簡単で、栄養滋養もたっぷりじゃ。言わば我が瑞穂軍の定番飯じゃの」
行武の説明を聞きながら頷く軽部麻呂、早くも先程手渡された味噌粥を口にした小桜姫が感嘆の声を漏らす。
「爺は流石だな……うん、美味い!」
周囲に居る国兵達も、皆思い思いの場所でかまどを石で組み、薪を使って粥や飯を作っている。
行武も弘光から差し出された箸を受け取り、自分で作った熱々の味噌粥を掻き込む。
温かさと程よい塩味、旨味が口の中いっぱいに広がり、じんわりと広がっていく。
ゆっくりと噛み締めると、滋味が溢れてきた。
しばらく咀嚼してから未だ温かいそれを飲み下し、ほうっと息を吐けば、胃の腑に暖かみと満足感が広がる。
「うむ、軍陣で食う味噌粥は格別じゃの!」
「爺の粥は最高じゃものな!」
「うむうむ、行武ジジイの粥は美味いわ」
「……少将様にこのような事をさせてしまい申し訳ありませぬが、美味いですな」
「うむ」
行武の言葉に小桜姫が言い、次いで猫芝と弘光が応じ、軽部麻呂が再び頷く。
しばらく無言で味噌粥を掻き込み、お代わりをし、また掻き込む一同。
行武は自分も味噌粥をすすりながら、満足そうにその様子を眺めるのだった。




