64話 諸外国打払顛末次第
瑞穂歴512年 初冬月17日早朝 東先道広浜国、藻塩潟近くの丘陵地帯
藻塩潟の沖合に、取手坂井麻呂、と永鉾良匡、それに軍監の玄墨久秀を乗せた早速武銛の大船がゆっくりと南に向かっている。
大船には、30名ほどの弁国之輩や大章兵の虜囚が乗っており、藻塩潟に押し寄せたそれらの者達が使っていた鎧兜が同じ数、併せて積まれている。
そしてその後方に弁国海賊の船と大章国の戦艦が一艘ずつ追従していた。
行武が戦勝の後、接収した船舶の一部で、もちろんそれらを動かしているのは、武銛配下の元水軍衆だ。
加えて或鐶族から奪った馬も5頭ばかり積み込んでおり、行武の北の地での戦功を裏付けるには十分な物証となるだろう。
行武はふむと一つ頷くと、船団から目を手前の丘陵地帯へと移す。
そこには、この大戦で亡くなった国兵達が埋葬されているのだ。
敵兵達とは違い、一つ一つ丁寧に墓を作られ、石碑が建てられたその場所は、以前からこの地に住まう夷族が墓地としてきた場所で、行武から見て右手に古い夷族の墓が静かに佇んでいる。
新たな移住者を、彼らは歓迎もしないが拒絶もしない。
ただ、これからは一緒に在り続けることになるだけ。
行武が自軍に吸収した、兵部卿が率いて来た国兵達の犠牲は取り分け大きく、行武の軍全体においても2000名もの国兵が亡くなった。
ある者は戦場で討たれ、またある者は戦傷が酷く手当の甲斐無く亡くなり、またある者は今回の戦いの以前に病や事故で亡くなっている。
そうしてこの藻塩潟の地で亡くなった者達が埋葬されているのが、この場所なのだ。
厳しい東先道の冬がひたひたと足音をさせているこの時期。
朝方は特に寒さが厳しい。
周囲には墓地の土饅頭の表面を押し上げる霜柱は元より、小さな雫があちこちで凍結し、藻塩潟の近くを流れる河に氷が浮く。
そんな中、白い息を吐きつつ、厚手の羽織を狩衣の上に纏い、行武はこの場所に目的があってやって来た。
船団を見送ることはそのついでであったのだ。
行武がこの墓所に来る2日前。
按察使を砦に案内した時に、事件が起こった。
「……小桜姫?」
呆然とした様子で、そうつぶやくように言う坂井麻呂。
行武が予想もしない小桜姫の姿がそこに在ったが、敢えて姿を現したわけではなさそうだ。
恐らく負傷した国兵達の手当を手伝っていたのだろう。
その手には汚れた湯の入った桶があり、背負い籠に血汚れた包帯が満載されており、一応護衛と思しき国兵も5名ばかりいる。
小桜姫は坂井麻呂と良匡を見て目を丸くすると同時に、殺気を放ち始めた山渦達を目の当たりにして身を強張らせた。
「これは何と姫様っ?雪麻呂っ。お主何をしておるのか!?」
「申し訳ありませんっ」
思わず傍らに控える雪麻呂を叱責するが、行武や雪麻呂の焦りを余所に小桜姫は姿を見られて開き直ったのか、桶や背負い籠をそのままに傲慢ささえも感じさせる態度と冷ややかな目で按察使の一行を出迎えた。
「これは取手刑部大輔に永鉾少将、無沙汰しておるな……だが私はこの国を救ってくれた者達の治療の手伝いで忙しいので、失礼しよう」
小桜姫の言葉を受けた正使の取手坂井麻呂と副使の永鉾良匡は、ひたすら呆気にとられるだけだったが、その周囲に控えて従者のふりをしていた山渦達の反応は激烈だった。
各々が隠し持っていた武具を露わにして小桜姫に襲い掛かったのである。
「ぬんっ」
「あぐ」
「うううっ……」
行武が追いすがって抜き打ちにして切り伏せらたのは僅か2人の山渦。
残りの8名は、本来上司であり身分が隔絶しているはずの坂井麻呂を押しのけ、良匡を突き飛ばし小桜姫に無言で襲い掛かる。
とっさに汚れた湯をぶちまけて身を守る小桜姫に、山渦達が僅かに怯んだ。
「皆の者!姫様をお守り致せ!」
行武から指示を出され、辛うじて鉾を突き出す国兵達。
しかし山渦達の動きは速く、3名の負傷者と2名の犠牲者を出しつつ2人の山渦を仕留めるに留まった。
しかもまずいことに小桜姫の護衛に就いていた国兵が全て倒れてしまう。
騒ぎを聞きつけ、本楯弘光が10名ほどの国兵を連れて駆けつけるが、未だ遠い。
「これは……!?姫殿下をお守りせよ!」
「うむっ」
更に追いすがって1人を倒す行武の勢いと気迫に、山渦達の注意が小桜姫から逸れた。
その隙を突いて弘光が小桜姫と山渦の間に辛うじて割り込み、国兵達が大盾で小桜姫の身を隠す。
攻撃を阻止されてしまった山渦に追い付き、行武が更に2人を斬り捨て、弘光と同じく騒ぎを聞きつけて駆けつけた軽部麻呂が1人の顔面を拳で打ち抜き、小桜姫を囲む国兵達の鉾に掛かって更に1人が事切れた。
しかしその攻撃をかい潜った残りの1人が、大盾の隙間から小桜姫に向かって仕込み短刀を投げ付ける。
「姫様!」
雪麻呂の叫び声が響き渡り、小桜姫に最も近い位置でその身を庇っていた雪麻呂が前に飛び出し、仕込み短刀をその身に受け止める。
「うあっ……!」
「あっ、雪麻呂っ!?しっかり致せっ」
胸元に仕込み短刀を受けた雪麻呂がうめき声を上げて力なく崩れるようにして倒れ、思わず小桜姫がその身体に駆け寄る。
山渦が更に懐から短剣を取り出し、背を向けて雪麻呂を介抱しようとうする小桜姫に迫ったそのとき、行武の直刃太刀が残った山渦の背を薙ぎ払った。
「しっかりせい!雪麻呂よっ」
直刃太刀を右の手に把持したまま血相を変えて駆け付けた行武が、小桜姫に支えられた雪麻呂の脈を左手で取る。
「す、すまぬ爺。引き上げるのが遅れてしまった」
「……今はそれを言うても詮無きこと。とにかく雪麻呂の手当を致しましょう」
そう言いつつ行武は、傷の状態を確かめるべく雪麻呂の着物の胸元をはだけた。
「ああっ?」
「むっ?」
驚く雪麻呂と行武。
露わになった胸元は、女性のものであったからだ。
しかしその膨らみを覆うのは西方渡りの鎖帷子で、その身に傷は無いものの仕込み短刀が直撃した胸元が赤黒く変色している。
「むう、これは……?」
「マリオン様から頂きました」
驚く行武に、雪麻呂が詰まった息をゆっくり戻しながら言う。
酷い打撲は負っているが、骨や内臓には異常が無さそうなのを見て取り、行武はほっと息をついたが、安心と同時に驚きが勝ってくる。
「雪麻呂。その方、女子じゃったのか?」
行武が思わず問うと、はだけられた胸元をかき合わせ、真っ赤な顔のまま雪麻呂がこくりと頷いた。
その反応だけ見て取ると、行武は周囲に負傷者の手当と山渦共の始末を命じ、併せて按察使の2人を睨み付けて震え上がらせた後、砦の然るべき部屋に案内するよう本楯弘光に指示を出し、それから徐に雪麻呂へ向き直った。
「理由はあろうが、男に化けて国兵になるとは……あまりに危うい所行じゃ。いずれにせよ身の振り方を考え直さねばなるまいのう……」
行武が顎髭を扱きながら思案げに言うのを聞き、雪麻呂が思い詰めたような表情をした。
しばらく互いを見つめ合うが、やがて雪麻呂が何かを決心した様子で頷くと、ゆっくり胸元をはだける。
「何をしておるのじゃ?」
顎髭を扱く手を止めて眉をひそめる行武を余所に、雪麻呂が胸元から取り出したのは、古びていながらも丁寧に補修と手入れのされた短剣。
その柄には梓弓氏の家紋である大弓と矢が刻まれている。
見覚えのある、遠い昔に託したはずの古びた短剣を目にした行武の声が震える。
「……お主、それをどこで?」
「私の祖母の名は、雪姫と言います」
「なんと」
絶句する行武。
その名は50年間一度も聞く事の無かった名。
かつてこの地で行武が愛した夷族の姫君。
そして自分が失脚する原因とされてしまった薄幸の女性。
その女性の孫が今ここに、目の前に居る。
今まで自分が生き存えてきた意味を問いただし、一つの結果が生じていたことを理解した行武は、感極まった声を上げる。
「嗚呼、何と。ここにわしの存在した意味の一つがあろうとは……今まで目が曇りおおせておったか」
愛する人は元気なのだろうか。
孫が納税人足にならざるを得なかった状況を鑑みれば、決して幸せとは言えない生活を送っていたのだろう。
しかし、自らの孫がこの地にいる、いや、いてくれた。
それは正に感慨無量。
愛した女性が報われなかったという事については複雑な気持ちもあるが、自分の一生涯を掛けて愛した人がこの地に根付き、この地に子孫を残してくれていた。
そして今。
この地の平穏に図らずも寄与する事が出来た。
「これは……失敗出来ぬわい」
命を投げ出してでもこの地の平穏と平和を勝ち取らならければならない。
今まで以上に背負うものが大きくなったが、望む所である。
「齢70にして一世一代の大勝負じゃな」
「あの……私が女である事は気付いていらっしゃらなかったのですか?」
気負いを見せる行武に雪麻呂が恐る恐る尋ねる。
「うむ……まあ線が細いのは気にせんようにしておった」
「そうですか……」
「おう、そうじゃ……雪姫、もとい雪姫殿の事を色々聞いても良いか?」
「既に祖母は……他界しています」
「!?」
目を見開いて驚き、再度絶句する行武の手に自分の手を重ね、雪麻呂はその上に短剣をそっと置いた。
「祖母はそれなりに幸せな一生を送りました。ただその事を愛した人に伝えられないのが心残りだと普段から話していました……この短剣は祖母が大事にしていた物ですが、墓には入れないで欲しい、きっと私の身を守ってくれるから肌身離さず身に着けているよう言いつかっていました」
騒ぎになったことを知って周囲から人が集まる。
その中にはマリオンや猫芝の姿も既にあり、雪麻呂との遣り取りを固唾をのんで見守っていた。
物問いたげな小桜姫の姿もその中に雑じっており、また事情を多少なりとも知る和人や夷族の者達もその成り行きに酷く興味を持ちつつも痛ましい気持ちと綯い交ぜになった顔で見ている。
そんな周囲を余所に、雪麻呂は綺麗な笑顔を浮かべて行武を見上げた。
「まさかこの様な形で役立つとは思いませんでしたけれども……ね、御祖父様」
「ここが祖母の墓所です」
「……」
雪麻呂の案内で藻塩潟や梓弓砦からほど近い丘にやって来た行武は、その場に置かれた瀟洒な白岩を見て三度目の絶句をする。
「何と……いや、先程から同じような言葉しか出てこぬのう、いやはや、年は取りたくないものじゃ」
そう少しおどけた様子で行武は柔らかい笑みを浮かべる雪麻呂に言い、また白岩に目を落とした。
かつて見た雪姫のたおやかな笑顔を、その白皙の面貌を思い起こす行武。
しかしその淡い思いは今や目の前の白くしっとりと濡れたような岩に置き換わってしまう。
「もはや、忘れ果ててしもうたわ。あれ程に思い焦がれた女であったのにの」
行武は膝を付き、膝にも届かない白岩に右手をそっと触れた。
過去に触れた彼女の柔肌に触れるように、しかし深い皺で荒れてしまった自分の手に感じる感触は、どこまでも冷たく、雪姫の気配を感じることはできない。
ただ堅く冷たい岩肌にゆっくり指を這わせると、微かに刻まれた文字を見つける。
「……これは、歌か?」
指で字をなぞりながら行武は、小さく刻まれた文字を詠む。
「ありつつも 君をば待たむ うちなびく わが亜麻髪に ゆきの手置くまで〔ここに居続けてあなたを待っていよう。長く靡くこの亜麻色の私の髪が雪のように白くなるまで、貴方の、行武の手が私の髪に届くまで〕……」
それは雪姫の強く悲しい恋い焦がれる思いが込められた歌。
口と目を歪めつつも行武は声を出すことなく白い岩に優しく手を置き続ける行武。
遠い昔に感じた細く柔らかい、それでいて行武の若々しい手に馴染む亜麻髪はそこになく、自分の皺にまみれた手に帰ってくるのは、堅い石の感触だけ。
それでも行武は岩に手を置き続け、しばらく頭を垂れる。
雪麻呂は静かにその姿を見つめていた。
しばらくそのままの姿勢でいた行武だったが、やがて小さく口ずさむ。
「我が命 在りし限りは 忘れめや いや日にごとには 想い増すとも〔私に命のある限り忘れることはないでしょう日ごとに思いを募らせることはあったとしても〕……とは申しても、既に想い人はここにあらじ。誠に情け無い話じゃ」
和歌は万葉集から引用の上改変しました。




