62話 戦況回天
大章国軍の後方に向かう或鐶族の騎馬戦士団。
その更に後方のうっそうとした森林には、大川内信彦らが息を潜めるようにして隠れていた。
「お頭、じっとしているのもそろそろ限界でさ」
「おい、俺のことは村長と呼べ……しかし、そうだな。そろそろしびれが切れちまう」
配下の武民がそう声を掛けてきたのを窘めつつ応じたのは、大川内信賀彦改め大川内村の信彦。
その後方には茂みや木陰にうずくまる者達が数多居た。
昨日から森に潜み続けている、彼ら武民や夷族の戦士達。
相当我慢強い彼らでも、丸二日近くじっとしているのはそろそろきつくなり始めている。
「今無策に掛かっていけば、或鐶の蛮族共に切り刻まれて終わるのが落ちだ。もうしばらくじいさんの合図を待つ」
行武からはとにかく我慢して砦からの狼煙を待てと言い含められている信彦。
弁国兵や海賊、大章国兵の襲来は知っていたが、まさか北の大部族である或鐶族までもが現れるとは思っておらず、信彦の顔は引きつり気味だ。
それは配下の者達も同じで、寒くなり始めた季節の中、薄暗い森林で潜んでいるためだけではない。
「少将様は八夷族や或鐶族の参戦もあるようなことは言ってはいましたが、いざ本当になってみると震えが止まりませんや」
先程信彦に声を掛けてきた武民が震えた小声で言う。
信彦にしても弁国や大章国については海の向こうの大国という程度の認識だが、八夷族や或鐶族の恐ろしさは肌で知っている。
北の蛮族の襲撃は、彼ら非違の郷が武装を余儀なくされた大きな原因の1つでもある。
弁国兵を退けた時は、配下の兵や戦士達と共に声をかみ殺して喜んだ信彦だったが、昼を過ぎてから大章国軍に押されっぱなしの行武率いる瑞穂兵を見て歯がみしていたところへ、或鐶族の騎馬戦士が到着したのである。
「ちっ、形勢不利だな……」
「お頭、どうしやすか?このまま森に隠れて逃げちまいましょうか?」
思わず漏らした信彦の声に別の配下の武民が即座に応じる。
しかし信彦は不満そうに声を発した者を睨み付けて言う。
「じいさんがやられちまったら、逃げた先で家族ごと踏み潰されるのが落ちだ。馬鹿なこと言ってねえで合図を待て」
声を発した武民も本心ではなかったのだろう。
信彦から叱声を浴びせられると、大人しく引き下がる。
ふんと鼻を鳴らして前に向き直った丁度その時。
信彦の目の前、梓弓砦の中央部分からゆっくりと白煙が上がり始めた。
「……!よし合図が来たぞっ、弓番え!使い番を出せ!」
周囲に居た武民達が信彦の命令を聞いて慌てて茂みに身を潜めつつ周囲に散っていく。
しばらくしてから配下の者が戻ってきて信彦に復命した。
「お頭、準備出来やしたぜ!」
それを聞いた信彦は、大きく頷くと自分の弓に、赤茶色く大きな矢羽根を付けた矢を番える。
それは或鐶族や八夷族が矢羽根に能く使う、赤雁金と呼ばれる鶏の羽だ。
周囲を見れば、誰も彼も使う弓には赤雁金の矢羽根を付けた矢を番えている。
そしてその向きは、或鐶族の騎馬戦士団を越えた先、大章国兵の戦列。
或鐶族や八夷族の使う短弓では届かないが、和族の使う木の特性を生かして拵えられた大弓を使えば十分届く距離である。
故に、矢羽根こそ赤雁金を使っているがそれ以外は和族の使う長矢である。
信彦が十分に角度を付け、思い切り引き絞った大弓から矢を放つと、周囲の森から一斉に赤い矢羽根を付けられた矢が発射された。
文字通り矢継ぎ早に信彦は赤い矢羽根の矢を放つ。
手持ちの五本の矢を放ち終えると、信彦は周囲に叫んだ。
「射終えた者から逃げろ!森奥へ駆け込め!」
瑞穂兵を押し込み、もう一息でせん滅に移れるというその最中の大章国軍。
大章国軍の将軍は、押し包まれつつある瑞穂国兵の集団を見て満足げな笑みを浮かべる。
しかし、次の瞬間、怪訝そうな表情で或鐶族の騎馬戦士団の方向を見た。
何やら弓射の音が聞こえた気がしたのだ。
そして、ふと見上げた中空に、赤い矢羽根を付けた矢が驟雨のように飛来してくるのを見て取る。
慌てて或鐶族の騎馬戦士団を見つめると、丁度疾走に移るのが目に入る。
大章国の北方にいる騎馬部族も、一斉に弓射をした後に突撃に移るのが常。
慌てて大盾で側面からの弓射に備えるよう指示を出すが、正面の瑞穂国兵に掛かり切りであった兵達の対応が遅れる。
ましてややって来る蛮族達は味方。
そう聞かされていた兵達の動きは鈍く、将軍や指揮官達は焦りと戸惑いを隠せない。
しかしながら赤矢羽根の矢は無情にも大章国軍の左側面に襲い掛かった。
頭や首、顔面のみならず体側や足をも赤い矢で射貫かれ、大章兵から悲鳴と叫び声、それに加えて戸惑いの声が上がる。
それでも次々と大章兵を射貫く赤い矢。
瑞穂国兵相手に戦いを優位に進めていた大章国軍が大混乱に陥るのに、そう時間は掛からなかった。
行武はその様子を見て取り、即座に引き太鼓を打たせる。
疲労困憊の瑞穂国兵が、何とか大章兵を引きはがし、砦の正面へ防御隊形を維持したまま集まってきた。
「やれ者共っ、勝ち鬨をあげよ!声を上げよ!」
行武の号令に戸惑いつつも国兵達は鬨の声を上げる。
「「えい!えい!えい!」」
「「おう!おう!おう!」」
「声が小さいわい!張り上げよ!あらん限りの音声で呼ばわるのじゃ!」
行武が檄を飛ばし、自ら率先して声を上げる。
それに釣られるようにして、国兵達は喉の奥から、腹の底からの勝ち鬨を上げた。
「「ぶえええいいっっっ!!」」
「「うおおおおおうっっ!!」」
「雪麻呂よ!旗を振れい!」
「はっ、はいいっ!」
その声と共に、行武は雪麻呂に再度白い旗を振らせる行武。
慌てて、そして必死に旗を振る雪麻呂の姿を見た砦から、勝ち鬨が上がる。
砦に残っていた国兵達が、勇気を振り絞り、砦の正面で戦っている国兵達に負けじと声を上げたのだ。
そして、鬨の声を上げつつ、砦の兵達は一斉に弓射を開始した。
白色や灰色の矢羽根が付いた瑞穂国の矢が、赤い矢羽根の矢に翻弄されつつも大盾で防ごうとしていた大章兵の側面を突く形で降り注ぐ。
赤い矢が降り注いだのと期を一にし、瑞穂国兵が勝ち鬨をあげて弓射を開始したのを見て取り、大章国の将軍は唇を噛み締める。
これは梓弓の罠だ。
北方の蛮族をいつの間にか手懐け、大章国軍に参加させるふりをして、後背を突く。
どうしても渡海に馬は連れて行けない。
大章国軍や弁国軍の騎兵戦力が不足することを見越し、梓弓が罠を仕掛けたのだ。
瑞穂国兵の勝ち鬨と弓射に加え、或鐶族の騎馬戦士団が速歩に移行しているのもそれを裏付けている。
このままでは前後に挟み撃ちを受けてしまいかねない。
すでに一敗地に塗れた弁国兵や海賊は士気が極めて低く、或鐶族からと思われる弓射を側面から受けた時点で逃げ散ってしまっており、せっかく左翼に配置したのに全く役に立たない有様。
このままでは砦から盛り返してくる瑞穂国軍と、泥田を回り込んで後背に位置取ろうとしている或鐶族騎馬戦士団の挟み撃ちに遭ってしまう。
大章国軍の将軍は、悩むことなく即座に或鐶族の騎馬戦士団へ弩を打ち返す命令を下した。
少しでも騎馬戦士団の数を減らし、迎え撃つ他に手立てはない。
ここで躊躇している時間は無いと判断したのだ。
後方に下がっていた弩兵が側面から後方に移され、一斉射撃が始まる。
愚かにも側面を晒して移動し続けていた或鐶族の騎馬戦士団は、次々と飛来する短矢に馬や身体を撃ち抜かれて隊列を乱した。
所詮は蛮族、信ずるに値しない、非文明人。
その最期にはお似合いであろう、そう東方大陸語で憎々しげに吐き捨て、大章国軍の将軍は後方に備えるべく兵の一部を移動させるのだった。
一方の或鐶族騎馬戦士団。
自分達の使う矢羽根を付けた矢が森林から飛来したことは把握したが、特に何の思いもない。
自分達を装った者達がいることは何となく理解したが、それが現状にどれ程の影響を与えうるかはっきりと理解していないのだ。
ただ、森林は深く騎馬で分け入るのは自殺行為。
開けた地であれば騎馬の特性を生かせるが、森林のような障害物の多い地形においては、その優位性は生かせないことを肌で知っている或鐶族。
それ故に、一定の矢を射た後は森の奥深くへ逃げ去った者達を追いかけるようなことは考慮の埒外なのである。
しかし、漠然とこのままでは不味いと思った戦士長は、早めに大章軍と合流してことの経過を説明した方がよいと考えた。
森林から大川内信彦らの弓射が終わる前に、戦士団を早駆けさせることにしたのだ。
そして悲劇が生み出される。
早期合流を目指した早駆けが、弓射という敵対行動の延長線上にある突撃だと判断した大章国軍が、反撃という名の同士討ちを選択したのだ。
高速度で飛来する短矢を斜め横から受け、騎馬戦士達が血飛沫と叫び声を上げて馬ごと倒れていくのを見て取り、或鐶族の戦士長がようやく瑞穂国、もっと言えば梓弓の奸計に掛かったことを理解する。
しかしその時には既に次々と弩による一斉射撃が繰り返され、犠牲がどんどん増える。
やがて戦士長の首筋に短矢が数本突き立ち、混乱の収拾が付かないまま、そして敵と味方を判断できる者がいないまま或鐶族の戦士団は大章国軍の後背に襲い掛かることとなったのだった。
行武らから見て藻塩潟側で或鐶族の騎馬戦士団と大章国軍が衝突する
騎馬戦士の突撃が繰り返され、それを大章兵の歩兵が受け止めようとする。
さっきまで味方だと思っていた者達があっさり敵に寝返ったと思い込み、最初からの敵であった瑞穂国兵以上の苛烈さで互いを攻め上げる。
そこに瑞穂国兵の矢が降り注ぎ、事態は混乱と混沌の渦に巻き込まれていった。
しかし、行武率いる瑞穂国兵だけはその混乱の中でも敵を見誤らず、的確に弓射を浴びせ続け、牽制してくる大章兵を逆に牽制しながら体勢を整えていく。
「やれやれ、何とか上手くいったわい……誠に綱渡りじゃったの」
大きなため息と共に行武が言葉を吐き出す。
後は同士討ちで疲弊しきるのを待って、掃討戦を仕掛けるだけだ。
大川内信彦が引き上げた後、近接戦闘に優れた夷族の戦士達が代わって森に潜む手筈になっており、追い付いてきた八夷族や或鐶族の徒歩戦士を側面から攻撃する手筈になっている。
しかし大本である大章国軍や弁国軍が壊滅した今、八夷族らが単独で攻勢を仕掛けるようなことはしないと行武は見ていた。
梓弓砦の周囲に、瑞穂国兵、弁国兵や海賊、大章兵の遺骸が夥しいまでに重なっているのを見てから、行武は天を仰ぐ。
「嗚呼、何と言う程の犠牲か。我が功成れりとも数多散らしたる命戻るべからず。我が命脈尽きじとも、輩の命に代えられず……何時になっても、わしは成長せぬ。この犠牲が、果たして見合うものであったのか。我が生涯掛けるとも分からぬ」




