59話 戦直前
瑞穂歴512年 初冬月11日夜半 東先道広浜国、藻塩潟、梓弓砦
海を渡ってきた暴虐の嵐が吹き荒れようとしている。
昨日の昼過ぎに沖合に姿を見せた大章国と弁国の連合艦隊は、海賊船を先頭に次々と藻塩潟南岸の平地に上陸を始めた。
篝火が煌々と焚かれ、自分達の強勢振りを疑いもせず堂々と桟橋や砂浜を使っての上陸を果たす海賊や弁国兵。
大章国の艦隊は、情け無くも最早存在しない瑞穂国側の水軍を気にしているのか沖合で様子をしばらく見るつもりらしく、上陸はしないようだ。
壁際に設けられた櫓からそれを見て取った行武は、額にかざしていた手を下ろす。
「堂々たるものじゃ。自分達の勝利を疑いもしておらぬ」
「……大章国艦隊は瑞穂国水軍を相手取る手筈になっています。直ぐには上陸してこないでしょうが、海賊と弁国兵は合わせて1万5千余り、少しばかり分が悪いのではありませんか?」
行武のつぶやきに対し、傍らにあったマリオンが言う。
それに続いて猫芝も行武の影で言う。
「北からの攻撃も間近ぞ。戦が長引けば容易ならざる事態に陥ること必定じゃ」
「うむ、一息に弁国軍を破らねばならぬ。生なかの胆力で為せぬ……兵には酷な戦いを強いることになるのが悔やまれるわい」
マリオンと猫芝の言葉にそう応じると、行武は背後に控える山下麻呂に告げる。
「かと言っても、今すぐに出来ることは無い。見張りの兵以外はすべからく休ませよ。ただ明日は早い、明日の朝飯はしっかりと、しかし早めに済ませるよう伝えてくれい」
「……分かったぜ」
山下麻呂が立ち去ると、その横に控える雪麻呂が遠慮がちに問う。
「兵を休ませて良いのですか?何時攻めてくるか分かりませんが……」
「大兵になればなる程、指揮には手間が掛かるものじゃ。夜半に地理不案内な状態で、万を超える兵を動かすのは相当に骨が折れるからの。それに東の大海を越えてきたとなれば疲れも相当であろう。ましてや弁国はこの地にわしらが居ることを的確に把握はしておらぬ故、自分の勝ちは動かぬとみておる。そんな者達が無理をする道理がないわい。動くのは十分休んでからとなれば、早くとも明日の朝遅くであろう。であるからして、皆休め」
行武の言葉に、雪麻呂は納得して頷き、マリオン猫芝は笑みを浮かべて下がる。
全員が去った後、行武はもう一度上陸を続けている弁国兵を見つめてつぶやく。
「かつての調練行き届きし我が国兵が手元にあらば、一気呵成の夜襲も可能じゃったろう……むざむざと上陸を許すような真似はさせたくないところじゃが、訓練不十分な兵をもってしては失敗は必定。いたずらに士気を落とす方策は取れぬ。幸いにも兵数はほぼ同等ゆえ、ここは真正面からぶつかる他無いわい」
瑞穂歴512年 初冬月12日早朝 東先道広浜国、藻塩潟、梓弓砦
行武の指示で未だ暗い早朝から炊かれた味噌粥が兵達に振る舞われる。
暖かい湯気を立ち上らせる汁椀が配られ、国兵達は熱いほどにされたそれを舌鼓を打ちつつも手早く掻き込んでいく。
「慌てることはない、腹八分目で良い故に確り食え」
「ぶっ!?」
「うっ、しょ、少将様……!?」
汁椀を抱えるようにして掻き込んでいた、元北伐軍の兵であった平彦と千代麻呂の肩を軽く叩いたのは、今や北伐兵の大恩人と言っても過言ではない梓弓の老少将その人。
「余り食い過ぎると太鼓腹で短甲がきつくなり動作に障りが出る。而して十分でなければ力が出ぬ。故にゆっくり食えば程よい量で腹が満ちる」
「は、はあ」
「し、承知しました……」
まさか落ちぶれたとは言え高位貴族、しかも征討軍の少将という地位にある人物から飯の食い方の手解きを受けるとは思っても見ず、平彦と千代麻呂は目を白黒させながらも何とか応じる。
周囲の兵達も行武と平彦らの遣り取りを見て、目を白黒させている。
そしてその行武の手には、兵達とそう変わらない量の粥が入った漆塗りの汁椀があった。
「さて、少し邪魔するわい」
平彦と千代麻呂が驚く暇も無く、行武は2人の後ろにあった空いた隙間に、板張りの床の堅さも気にすることなくどっかりと腰を下ろし、注目する兵達に汁椀を上げて見せ、不敵な笑みを浮かべながら言った。
「わしも相伴に預かるわ、さあ、確りと食うが良い……戦は厳しいぞ」
同時期、京府、大内裏・朝議の間
高位貴族達が居並ぶ朝議の間。
その上席において、にじり寄ってきた広家の報告を聞いた基家が声を上げる。
「何……大章国と弁国が東先道に攻め寄せたと?」
わなわなと震えるのは秋風の冷たさのせいだけではない。
広家から報告を受けた基家はそう言った後に絶句すると、顔を強張らせる。
ここ40年ほど瑞穂国は善隣外交を貫きつつ、なるべく諸外国との交通や通信を絶って情報を与えないようにし、国軍の半解体状態や国内の乱れ振りを隠して平穏を維持してきた。
交易も最小限度に留め、使者の遣り取りも京府では行わずに出先機関で済ます。
そうして国内外の情報を規制し、国内の統制を強めてきたのだ。
しかし、情報を与えないということは、同時に情報を得ることも出来ず、また情報収集をしてこなかったということであり、その弱点を図らずも露呈させられた形になってしまう。
諸外国、今回は大章国と弁国の動きを全くつかめないまま、いきなりの侵攻を招いてしまったと言う情報がもたらされたのだ。
北にいる梓弓からの知らせという点に大いに疑念があるものの、外国の侵攻が虚偽であり、梓弓の策略であるとも断定出来る情報すら持ち合わせていないのが実情。
広家の求めに応じて暗い内から貴族達を招集したが、思いの外衝撃的な内容に基家の顔が僅かに引きつる。
基家と広家のただならぬ様子に、朝議の間に集まっている貴族達が訝しげな視線を向けてくるが、基家は一瞥すらせずに広家を強く睨み付ける。
若干気圧された雰囲気を出しながら、広家は言葉を続けた。
「梓弓に付けた玄墨久秀から、そういう内容の奏文が届きました」
「何と言うことだ……他には何が記してある?」
「それが……久秀めの奏文に拠れば、梓弓めがこれを撃退したそうです」
広家の言葉に、基家が再び顔を強張らせる。
「……何だと?」
基家は広家から手渡された奏文を読み下す。
それは、大王御親展の脇書きの記された奏文。
本来大王が自らの手で開き、読み下すべき奏文が、何故か既に開かれた上に広家と基家に、本来一臣下に過ぎない2人に読まれてしまっている。
その事の重大さを、貴族達は理解しつつも丁重に無視し、2人の反応を窺う。
貴族達の様子を探りながら、緊張に顔を強張らせている広家に基家が言う。
「これが真実か否か誰も分からぬ」
「……しかし」
「剣持兵部卿の征討軍に調査をさせよ。万が一にもこの知らせが真なるならば、剣持兵部卿とその征討軍を防衛に宛てようぞ。梓弓は瑞穂国のためには何でもやる、おそらく剣持兵部卿と協力しようとするだろう。合わせれば1万5千には届かぬが、それなりの兵数だ。後は、業腹ではあるが梓弓に任せれば良い、その腕はある……諸外国が撤退した後に、騙し討ちでも何でもして梓弓を討てば良かろう。知らせを直ぐに出せ」
「剣持兵部卿らならば、先だって1万の兵を全て失い逃げ帰って参りました。既に敵前逃亡の罪で謹慎を命じております」
「何?わしは聞いておらぬぞ……どう言うことだ広家」
久秀の奏文を開いたまま手に持ったまま絶句する基家に広家がうっすらと笑みを浮かべて言う。
「久秀の奏文を信じるのですか?これは虚偽の報告でしょう」
「それはどう言う意味だ?」
基家の問いに広家は得意げに言葉を継ぐ。
「未だ弁国から私に連絡は来ておりませぬ。東先道侵攻が成功するか否かに関わらず、今回の件については私に連絡が来ることになっております故に……未だ弁国から連絡が無いと言うことは、戦いはまだ始まっておりません」
広家の言葉に、基家は一瞬顔の色を失った。
しかし、次の瞬間に自分の後継者と目している甥が恐るべき手段に手を染めたことを理解し、眦がつり上がった。
「広家……お主、外国を引き入れたのかっ!」
基家が激高して立ち上がる。
基家の言葉を聞き、その様子を見ていた貴族達がざわめき始めた。
思わず立ち上がってしまったばかりか怒りにまかせて大声を出してしまったことを後悔する基家を余所に、広家は涼しい顔でぬけぬけと言い放った。
「今更何を仰いますか……弁国や大章国を無価値な北の儚い地に引き入れるぐらいは宜しいでしょう?何程のこともありますまい」
「北の辺地と雖も我が瑞穂国の一部ぞ!あ奴らはこの作物豊かで民人健やかな瑞穂国全体を古来より狙い続けておるのだ。帰化人ならばともかく、外国をそのままの形で引き入れるのは、瑞穂国を滅ぼす災いを屹度呼ぶことになる。直ぐに止めるのだ」
「西は梓弓の征伐以来友好的で、動きませなんだが、東の弁国は話に乗りました。梓弓の一族には怨恨があるとのことでしたな。何でも1000年前の東征で梓弓音武麻呂に散々に撃ち破られた怨みを累代にも重ねておるそうで、梓弓の後裔を差し出すと伝えると、一も二も無く乗って参りました……執念深く、粘着質な気質でありますな」
「広家、わしの言葉が聞こえぬか」
しかしそれでも基家の怒りは収まらない。
静かに青筋を立て、低いながらも怒気を十分含ませた声で怒りを滲み出させるようにして表現する基家に、広家は少し怖気を振るいながらも表面上は涼しい顔をして答える。
「叔父上、既に我らは恐れ多くも大王を弑しているのですよ」
広家が満を持したと言わんばかりの表情で耳打ちするのをにらみ据える基家。
切り札とも言うべき台詞が全く効果を発揮しないことに、広家は内心狼狽を極める。
そんな広家の心情を知ってか知らずしてか、基家はゆっくりと口を開いた。
「違いが分からぬとはよくよく救いようの無い事よな。才有りと見込んで目を掛けてきたが、わしの見込み違いであったか……」
「な、何を仰いますか。私は……」
基家の怒りながらも呆れを多分に含んだ言葉に、広家が自尊心を汚されたと感じて反射的に反論しようとするが、基家のため息と冷たい視線に言葉を失う。
基家はそんな広家をじっと冷ややかな目で見つめながら徐に口を開いた。
「わしが何をしようがあくまでも我が瑞穂国の内のこと。国の本質や形は変わらぬし、変えぬ。第一それを変えさせぬ為に、我が国の本質を守らんが為に、もっと謂わば国を守るためにしていることぞ。しかし外国の奴原はそうではない。奴らは我が国を滅ぼし果たし、その性情を己が為に変質せしめ、全てを同化させる。否、もっと悪ければ我が国そのものを隷属せしめることが目的ぞ。たとえ国が残ったとしても、その形は全く一切残らぬわ」
そう言い終えると、基家は刑罰を司る刑部卿に視線を移した。
「外患誘発及び騒乱企図の疑いにより硯石広家、その方を役職停止にて閉門を申し付ける。名和刑部卿、硯石広家を邸宅に送致致し、監視せよ」
「お、叔父上!?」
「速やかに弁国との遣り取りについて詳らかに記せ。減刑を一考する」
「そ、そんな無体なっ!」
取りすがろうとする広家の鼻を笏で打ち据えると、基家は刑部省の役人に取り押さえられる広家から視線を外し、朝議の再開を宣言するとなおも助けを求めて叫ぶ広家を完全に無視して言った。
「では、速やかに北に使者と物見を派遣することとする……兵は集めはするが、先頃も征討軍で1万もの兵を集めたばかりではそう直ぐに集まるまい」
大王を弑したことを貴族達の何人かは聞いていたはずだが、彼らが何の反応も示さないことに乗じて基家はそれをおくびにも出さず、北の変事に対する朝議を再開するのだった。




