58話 小桜姫の亡命
瑞穂歴512年 初冬月10日 東先道広浜国、藻塩潟、梓弓砦
束の間の平和を享受する民衆の姿をにこやかに眺めつつも、行武は鎧兜を身につけて桟橋へと向かう。
周囲には本楯弘光や雪麻呂以下30名ほどの国兵が付き従っており、行武の周囲を固めている。
民人達も常ならば不用心ながらも1人で行動する行武が、兵を率い、しかも全ての装備を身に付けた状態で桟橋に向かうのを不安そうに見ていた。
「心配要らぬは皆の衆。港へちと迎え人に行くだけじゃ」
民人の不安を察した行武がのんびりとした様子で笑みを浮かべつつ声を掛けると、ようやく周囲に居た民人達は安心した様子でそれまでの作業や行動を再開する。
「少将様のお声かけで、皆が即座に安心しましたね」
「大分信頼されてんじゃねえか、じいさん」
雪麻呂と山下麻呂が我が事のように嬉しそうに相次いで言うのを面映ゆく聞きながらも行武は言う。
「何の、雪麻呂や山下麻呂を含めた皆の働きのお陰よ。わしらの行動が民人のためになっておるという証じゃ。わしらは間違っておらぬ、この民人の動きや顔を見れば分かろうというものじゃ」
桟橋には既に早速武銛の大船が接舷しており、屈強な薄着の船員達が桟橋の杭に舫綱を括り付けている姿が目に入る。
「早いのう、ちと後れたわい」
行武は1人そうつぶやくと桟橋へと向かう足を速めた。
やがて、大船から板が渡され、その上を早速銛武と船員達がまず下りてくる。
「おう、梓弓のジジイ!」
「おい、武銛よ、長い付合いじゃがその呼び方は好い加減止めんか?お互い様じゃろ」
「ふん、お互い年を食おうが、止めん!」
武銛のいつもの呼び掛けに少し食傷気味の行武が渋面で言うが、意に介した様子もなく腕を組んでのたまう武銛。
「そうか……」
諦めてそういう行武を見て、にやりと笑みを浮かべる武銛。
にやにやしている武銛には処置無し、流石の行武も苦笑いする他無い。
そこへ涼やかな声が行武に対して発せられた。
「梓弓の爺、久しいな」
慌てて横へ避ける船乗り達。
武銛も笑みを消し、ゆっくりと道を開けながら腕組みを解いて後ろへ下がる。
「これは小桜姫様、大きくなられましたな」
「何の、梓弓の爺の労苦に比べれば何程のこともない。よく頑張ってくれたな、爺」
出迎えた行武に、疲れた様子を見せながらも気丈に笑顔で労いの言葉を与える小桜姫。
その脇には由羽と光太の姿があり、後ろには先程とは打って変わって神妙な顔付きをしている早速銛武が立っている。
行武が由羽と光太に目配せで御礼の意を示すと、2人は心得たもので笑顔で頷く。
この2人も随分と大人びた。
まだ2年と立っていないが、何時の時代も子供の成長ぶりには驚かされる。
そんな感慨を持ちながらも行武はさっと膝を付き、腰から鞘ごと抜いた太刀を目の前に置いた。
行武に続き、弘光の合図で国兵達が一斉に膝を付いて鉾と大盾を地面に下げる。
一糸乱れぬ統制振りを見て取り、小桜姫が笑みを深くして言う。
「良き兵達じゃの、爺」
「勿体ないお言葉、これより梓弓征討軍少将行武めは、小桜姫様をお守り致しまする」
行武の答えを聞いて1つ頷くと、小桜姫は顔を引き締めた。
そして、この場にいる全員に宣言するように言う。
「大王は……兄上は基家めの意を受けた山渦共の手に掛かって果てた。我が母も同じくである」
船乗り達は元より、国兵や周囲に荷運びに来ていた人々が固まる。
この場には藻塩潟の住人や夷族の民人のみならず、交易や荷受けに来ている都人や諸国の者達もいる。
その中での小桜姫の言葉は、決して声は大きくはなかったがさざ波のように人々の中に染み渡った。
「奈梅君様の事は残念でございました、大王様も、さぞ無念であったことでしょう」
「重ねて言うが……爺、大王と我が母上は硯石基家めの意を受けた山渦共に獣のように仕留められてしもうた。私は母上の仇を討ちたい。大王の無念を晴らして差し上げたい」
小桜姫の厳しい言葉に、行武は無言で顔を上げた。
波打ちの音が数度した後、潮風が船をきしませる。
じっと自分を見つめてくる小桜姫から視線を逸らす事なく、行武は静かな佇まいのまま、潮風に吹かれるままになっていた。
しわぶき1つなく、周囲から声は発せられない。
更に数度、波の音がしたところで小桜姫が静かに口を開いた。
「爺、力を貸してくれ」
「……これは大変なことになり申したのう」
唸るように言う行武に、小桜姫は言葉を重ねた。
「仇を討つのは可能か?」
「そうですな、それはまあ、可能ではありましょうが。まだ時が満ちておりませぬ」
行武は身体を起こすと、それまで地面に付けていた手を端座した膝に置いて言う。
そしてゆっくりと置いてあった直刃太刀を取る行武に、小桜姫が重ねて問い掛けた。
「では、時が満ちるのは何時なのだ?」
「間もなくで御座います……あれをご覧になりませい」
小桜姫が行武がついっと上げた人差し指を追って、その示した藻塩潟の沖合に目をやると、小さな粒が沢山水平線に見えた。
「あれは……?」
「間もなく帆が見えて参りましょう。大章国と弁国の水軍で御座います」
「何っ!?」
「……ジジイよ、俺達はもう離れて良いか?」
小桜姫の驚きの声に被せるようにして早速銛武が仏頂面で問うと、行武はうむと一つ頷いてから承諾の声を発する。
「おう、構わぬ。小桜姫様を無事ここまで送り届けてくれたこと、礼を申す」
「いや、それは、まあ礼には及ばん」
そう答えると、銛武はあっとこの豪放な男に似付かわしくない溜息を吐いた。
そして腕組みをとくと、ばつが悪そうな表情で頭をガシガシと掻く。
「以前の水軍だった頃の俺達ならいざ知らず、今は只のしがない船乗りなんでな。すまねえが、正規軍でしかも大軍には全く敵わねえ。さっさと逃げさせて貰うぜ……おう!」
武銛の合図で船乗り達が慌てて自分達の船に駆け戻る。
桟橋は一瞬で蜂の巣を叩いたような騒ぎとなり、荷を大急ぎで下ろして梓弓砦へ運ぶ者や、逆に砦からの荷を積み込む者達でごった返す。
行武は素早く兵を立たせて小桜姫の周囲を取り巻くと、自身が再び先頭に立って足早に歩き始める。
桟橋を過ぎ、藻塩潟の港を抜けて梓弓砦へと向かう一行。
稲が刈り取られた後にも関わらず、水が引かれた田をぼんやりと眺める小桜姫。
「……このような北の地でも稲が育つのじゃな」
「ははは、人の営みは京府であろうが東先道であろうが、然程変わりませぬわい。畑や田で作物を育て、牛や馬や鶏を飼い、森や林で果実を集め、漁労で魚介を得る。親は子を育て、巡り会いを経て子は親となり……美味い物を食い、酒を飲んで憂さを晴らし、語らって人の道を問う、何も変わりませぬわい」
そう言うと行武は沖合にいよいよ大きく帆を並べ始めた大船の群れを厳しい眼差しで見てから小桜姫に声を掛ける。
「何れにしてもわしらは姫様を歓迎致しますわい、北の辺地へようこそおいで下さった。すべからく快適にとは言えぬまでも、手厚くもてなしましょうぞ……まあ、今しばらくは大戦になります故、辛抱願わねばなりませんがの」
「……た、頼む」
前を歩く行武の鎧の上に巻かれた倭文織の帯を小さなか細い右手で確りと掴み、涙をはらはらと落とす小桜姫。
行武は自分に触れる手に気付いて歩みを緩める。
行武の行動を訝しんだ雪麻呂が小桜姫を見ると、その小さな手が小さく震えているのに気付いた。
「少将様」
雪麻呂が小声で声を掛けると、行武は小桜姫の手を取って自分の前に引き出すと、彼女が驚くのを余所にすっと尻から片腕で掬い上げるようにして抱き上げて立ち止まった。
「じ、爺?」
「安心なされませ、ここにはもう姫様の味方しか居りませぬぞ」
涙を気取られまいと目を擦っていた小桜姫。
しかし、行武の優しい声に釣られて周囲を見回すその目には、自分を気遣わしげに見る雪麻呂や山下麻呂達国兵と和族や夷族の民人が居る。
そしてその後方に目を向ければ、ここまで一緒に付いて来てくれた光太や由羽といった行武の元の家人達の優しい目がある。
「北の地は冬は寒うございますのじゃ。しかしその分人の心根は暖かくなるようでしてのう……ゆっくりと心と体を癒やしなさるが良い。後は万事わしらにお任せあれい」
朗らかにそう言うと、小桜姫の背中を優しく撫でる行武。
それに合わせて周囲の者達が皆小桜姫に笑顔を向ける。
周囲の暖かい目や行武の優しい言葉に、それまで耐えに耐えていた感情が小桜姫の小さな身体の中から溢れ出す。
それは涙となって少しこけた頬を伝い、冷たくなり始めた北の地に吸い込まれる。
わあわあと、年相応に泣きじゃくる小桜姫を慰めながら、行武は歩みを再開し、意を強くしてつぶやく。
「この大戦は……何が何でも勝たねばならぬわい。引き分けではいかぬ」
小桜姫を腕に抱いたまま、行武は周囲の者達に矢継ぎ早に指示を出していく。
慌ただしく国兵を集める使いが走り、大川内信彦らに出動の指示を出す使者が早馬を鞭打って駆けていく。
各地の国衙に急を知らせる使者が立つのを目にしつつ、行武は梓弓の砦へと向かった。
発石車や弩の準備が進められ、国兵が壁の内側に集結する。
誰もがこれから始まる容赦の無い戦に、ぶるりと武者震いを止められずにいる。
これから始まる戦は、本物の戦。
行武が昨今繰り広げてきたような、子供じみたまやかしのものではない。
それはまごう事なき殺し合い。
殺さねば殺される、正に修羅の時間、それが間もなく始まろうとしている。
「果たして何人が生き残れるかの……」
僅かな期間とは言え、せっかく打ち立てた北の地の平和を無に帰す殺戮と暴力の嵐が海から吹き付けてくる。
それを再び目の当たりにし、行武は砦の建物の中へと向かうのだった。




