57話 戦の準備
瑞穂歴512年 晩秋月30日 東先道広浜国、藻塩潟、梓弓砦
東先道南境における戦いが刃を交えることなく終わったことで、行武は自身の配下の兵を1人として損なうことなく、一万もの兵を連れ帰った。
逃げ散った東先道征討軍の剣持兵部卿らは東間道の各国の国衙を経由して京府に遁走したようで、残された空腹と疲労に苛まれた兵達はその全てが降伏し、しばらくは国境で静養して飯を食い重ね、体力を戻してから行武の編制を受けて藻塩潟にやって来た。
彼らは故郷の家族に手紙を出すことを許された。また、帰国したい者については、北鎮軍における働きぶりを確認してから許されることになる。
「じいさん、すげえなあ」
「少将様、本当に兵を全て配下に収めてしまったのですね」
山下麻呂と雪麻呂が目を丸くしているのを声を上げて笑い飛ばす行武。
徴兵された後、基本的な訓練を受けてから編制されている元征討軍の国兵達は、行武が若干の修正を施し、対峙した平原で野営陣を敷いて疲労回復と病気治療、慈養に務めた結果、すぐにでも動ける兵となって藻塩潟へとやって来た。
広くなったとは言え、梓弓砦に一万もの兵を収容できる建物は現状存在しないので、一旦は砦内ではあるが、練兵場の脇や空き地に天幕や簡易小屋を建てて養う他無い。
既に諸々の手配は終わっており、藻塩潟にいた国兵達が設営を行っている。
スジクロとツマグロが行武の前に置かれた机の上に、やって来た人数分の白湯を木椀に淹れて配って回る。
行武は配られた木椀に入った白湯を一口飲むと、ゆっくりと口を開いた。
「いずれにしても時が無い。大章国と弁国、それに北の八威族の者共が、程なく押し寄せて来るであろう……その思惑は別々ではあろうが、目指すものは同じじゃ」
大章国と弁国、それから八威族の目的はこの瑞穂国の侵略だが、協力関係にあるわけではなく、互いに互いを利用しようとしているだけだ。
大章国は、瑞穂国北東部の切り取り支配を画策しているが、弁国は略奪のみ。
八威族はもう少し南まで攻め取りたいと考えているだろうが、その主目的は略奪と収奪であろう。
行武は弘光や重光に投降した元征討軍の兵に対する訓練を任せる一方、自分は精力的に周辺諸国の国衙や在庁官人達に手紙を送り合って情報を交換し、また京府に居残った元家人達からの手紙を受け取って情報収集に努めた。
その結果、相次いで京府で発生した政変とその後の情勢が入ってきた。
それは恐るべき事実を予想するに十分なもので、遂に文人貴族はこの瑞穂国を壟断しに掛かったことが理解出来る事態となった。
「嘆かわしくもここに至っていよいよ大王はお飾りとなったわけじゃの……貴族が主体となってこの国を動かす仕組みを基家らは作り出そうとしておるに相違ない」
行武の断定に、座に集まった面々は神妙な面持ちで頷く。
長きに渡りこの国を形式上だけでなく実質上支配してきた大王は権力を奪われ、貴族が主体となってその即位をも操り、貴族が実質上の権力を握って瑞穂国の方針を決め、支配を進める政治体制に移行しようとしているのだ。
ここでこの流れを押し止めなければ、権力は遷ろうものとなり、その時々の強者が、瑞穂国の執権を巡って争うことになるだろう。
そうなれば大王が直接支配する時代よりも、その大王を巡っての争いが頻発することになる上に、意のままにならない大王を廃するにあたってもまた争いが起きる。
権力構造が複雑になるが故に、争いが二重化し更には複雑化するのである。
今まで大王の支配権力の下で諸外国に比べて比較的落ち着いた政情を保ってきた瑞穂国に、争いの火種が振りまかれる。
大王を壟断した貴族は何時しか別のモノに取って代わられることもあるだろう。
何よりも下の者が上の者を意のままに操ると言うことを、意図してかどうか分からないが、貴族が為して先例としてしまうのだ。
貴族の下にいる者達が、何れそれを真似る時が来る。
そうなれば益々大王は権力を失うだろう。
「最早猶予はないの……ここまで急に事を進めるとは、正直に言うが思うておらなんだわい、わしの考えが至らなんだ」
「この事態を予測出来るものは、それこそ誰もいなかったのだぞ、老将」
行武の台詞に、軽部麻呂が窘めるように穏やかに言う。
しかし行武は渋面を隠そうともせずに口を再び開いた。
「またぞろ大王が身罷られたとは穏やかならぬし、その身罷り方も極めて不自然じゃし不審じゃ。硯石基家めに近しい神取王子が後継に立ったということであれば、尚更文人貴族どもの関与を疑う他ないわ」
行武が溜息を吐きつつも言葉を続ける。
「奈梅君は惨いことになったものじゃ、小桜姫の心根も気になるのう……早速のジジイが姫をこちらへ連れ来るとのことじゃから、ひとまず安心とは言え、わしにもう少し力があれば……残っておれば斯様な仕儀には至らなんだものを」
ため息を再び漏らしつつつぶやく行武の肩に、マリオンがそっと手を置く。
「それは言っても詮無きことではありませんか」
「ははは……わしは未だ未練がましく過去に囚われておるわ。とっくに吹っ切れたように思うておったのに、この時勢となって色々な事象が出来致すと、どうしても後悔の念が強くなるものよの」
慰めの言葉に自嘲の笑みを浮かべた行武が応じると、マリオンは優しい笑みを向けつつ首を左右に振って言葉を継いだ。
「そうではありません。ユキタケが過去の政争で完全に敗れ落ち、命を失っていたならば、今この時はないのです。今この地で救われている人々はいないのですよ?小桜姫も逃れ出る場もなく、京府で朽ち果てたことでしょう。それを思えば、ユキタケにはまだ挽回の余地はあります。後悔だけが強まるという事はないはずです」
「そうよの、和主のお陰で救われておる者は吾を含めてとても多い。軽部麻呂ら夷族の連中も和主には深い感謝を向けておろう。そう卑下するものではない」
ぬるりと部屋の影から現れた猫芝が深く被った頭巾で彼の上半分を隠したまま、口元だけを笑みの形に歪めてみせて言う。
おっかなびっくり雪麻呂が手渡してきた白湯の椀を嬉しそうに受け取り、猫芝はごくごくと喉を鳴らして飲み干す。
それを見ていた行武は厳しい表情を少し和らげた。
「何とも優しい者共よ、その言葉だけでわしは大いに救われるわい」
それまでの沈痛な表情を消し、いつも通りのひょうげた顔付きで行武が答えた。
既に藻塩潟の周辺のみならず、東先道から東間道に至る田畑は秋の収穫を完全に終えており、刈田狼藉の心配は無い。
収穫量も豊作とは行かないが、それなりであった。
反乱が収まったことで農民達が田畑の世話に戻り、また新規の開墾地や荒れ地の整備が進んで農地そのものがかなり増えたこと、また、天候は決して良くなかったが、芋や蕎麦を救荒作物として各地で育てたことで、収穫量は十分。
それに加えて、東先道内の大川内信彦らに代表される武民や大農民の所領を的確に把握した上で、低減させてはいるが徴税を適切に行ったことも大きい。
また、反乱を終えて自宅に戻った東先道各地の農民や夷族達から、献納と称する米や麦、蕎麦などの穀物、野菜や山菜、団栗、栗、栃に胡桃等の堅果類、狩猟物である猪肉や鹿肉、河魚や海魚に小鯨、鮑、蛤などの干物が藻塩潟へ大量に送られてきた。
東先道全体の生産量が微増したところへ、帳簿上は倍増した生産高に見合った収入が一気に得られたのである。
「民人には感謝の念しか無い。数年間は課税出来ぬと思うておったところへ、かくも豪勢な贈り物を頂けるとは夢にも思わぬことよ……誠に赤心ありがたいことじゃ」
「これも殿様が善政を敷いているからこそで御座いましょう」
「少将様が民人を思えばこそ、民人もそれに答えてくれたのですね」
行武が深く感じ入り、頭を下げるのを見て取った財部是安がほくほく顔で言うと、畦造少彦もほのかな笑みを浮かべて言う。
養う兵は増えたが、民人からの贈り物のお陰で食料や費えに不安はない。
「兵らには良く養生させよ。糧秣はケチらずともよい。腹一杯食わせてやってくれい」
行武の言葉に、少彦と是安が笑みと共に頷く。
そして次ぎに機会を見計らっていた久秀が進み出た。
「奏文は出来ている、何時でも送れるが、本当にこの内容で良いのか?少将」
「確かに未だ大章国や弁国はおろか、海賊や蛮族も攻めて来てはおらんからな。これは些かと言わずとも先走りではないか?朝廷に虚偽の報告を為す事になるぞ」
玄墨久秀が何時もの無表情で上白紙に包まれた紙束を見せながら説明すると、薬研和人もそれに続いて心配そうに言う。
行武は征討軍を下す前、久秀に大王へ提出する報告書であるところの奏文の作成を依頼していたが、その内容は未だ開戦もしていない大章国と弁国に対する討伐完了というもので、おまけに北の蛮族の大規模な襲撃についても記載されている。
しかし、行武がやったのは剣持兵部卿ら梓弓征討軍の司令官や上級幹部である文人貴族を脅かして追っ払い、兵を丸ごとそっくり奪っただけで、外国勢力の侵攻を防いだわけでも蛮族の襲撃を跳ね返したわけでもない。
奏文はかなり先走った内容になってしまっているどころか、征討軍を実質的に崩壊させてしまったことは一切記述しておらず、外国勢力の打ち払いと蛮族撃滅といった上げてもいない功績がつらつらと書き連ねられているのだ。
行武は久秀と和人の心配そうな面持ちを眺めてふっと一旦不敵な笑みを浮かべてから、真剣な面持ちで久秀と和人に頷きながら口を開く。
「それで良い。残念ながらあまり時間が無い」
「時間じゃと……何の時間じゃ?」
和人が行武の言葉の真意を測りかねて眉をひそめると、久秀が無表情ながらも腑に落ちない様子で問う。
「……何か深慮があるのか?」
「深慮とまで言えるかどうか分からぬが、あるわい。影響はすぐに出ぬが、奏文を送り付けるのも策の一環と考えてくれ。朝廷からの反応自体は、久秀が練り上げてくれた奏文が京府に到着すれば、直ぐにでもあるだろうからの」
「まあ、お主がそう言うのならば敢えてそうしよう。わしらは何れにしても一蓮托生じゃからな」
「まあ、そうだが……分かった」
行武の言葉を理解出来たわけではないが、信用するという和人の言葉に久秀も頷き、未だ為されぬ功績を上奏する文書が京府に送られることになった。
何れにしても勝てば真実となるし、負ければ皆死んでしまうのだから、虚事の文書を出したとて罪に問われることはないだろう。
2人が使者を立てるべく部屋から出ると、行武はゆっくりと立ち上がって言った。
「空き田に水も引き込み、防備は土塁や堀などで固めた。港には乱杭と逆茂木を置いた。投降兵や国兵の稽古鍛錬も順調じゃ。後は……来襲を待つのみよ」




