56話 東先道南境の対陣顛末次第
「吾こそは梓弓北鎮軍少将行武なるぞ!いざ尋常に戦し候えい!!」
そう呼ばわった行武は続いて、腰の直刃太刀を抜き放ち、檄を放った。
「さあさっ!掛かりて来よかし!!進めや者共!!」
行武の檄と共にその配下の北鎮兵が一斉に鬨の声を上げる。
「「「鋭!鋭!鋭!」」」
「「「応!応!応!」」」
鉾を力強く掲げ、盾を地で打ち、合わせて右足を踏みしめる。
地響きが平原を不気味に揺らし、その気迫が征討軍を圧倒した。
「あうあうあ……」
「やべえ、やべえよ……」
平彦と千代麻呂は腰を抜かし、盾や矛を構えることすら忘れて北鎮軍の威容に怯える。
最早そこに兵としての2人は無く、腹を空かせた弱い農民の姿だけがあった。
そこかしこで征討軍の国兵達は平彦や千代麻呂と同じ様相を見せており、もはや軍の体を為すことは出来ていなかった。
そう、最初から彼らは軍兵ではなかったのだ。
それを征討軍の兵達は思い出してしまった。
しかし、彼らより早くそれに気付いた者達が居た。
「こ、これが梓弓……戦部の真の末裔。あ、あれ程の軍勢をこうも容易く操り出すとはっ」
驚愕の言葉を吐いた剣持兵部卿に、脇に控えていた貴族達が恐れ戦く。
「へ、兵数が多うございますぞ!」
「ひいい……」
「お、怖ろしや怖ろしや……」
中には歯の根が合わぬほどガタガタ震えている情け無い貴族も居る。
そんな剣持兵部卿らを余所に、行武は順調に軍を前に進めていた。
一糸乱れぬ隊列と歩調。
気迫のこもった鬨の声。
先頭にて気合十分の梓弓行武。
剣持一族とて歴とした戦部の末裔であり、その家系には梓弓に負けず劣らずの名将たちが居た。
しかし彼らは文人貴族化するのが早く、官職こそ兵部省のものを歴任しているが、一家から武の有職故実は失われて久しい。
1万もの兵を率いていれば、定数3000あまりの行武に十分勝てると踏んでいたのだが、それが大きな過ちであった事を悟った剣持兵部卿。
基本中の基本である練度や士気が違いすぎるのだ。
そして行武や兵の意思が、剣持兵部卿を恐れ戦かせた。
このまままともにぶつかれば、負けは必定。
それは正に鎧袖一触。
北鎮軍の威容をこれでもかと言うほど見せ付けられれば、素人でも流石にそれくらいは分かる。
「か、勝てぬわ、こんなもんっ!」
剣持兵部卿は、それだけ吐き捨てる様に言うと、冷や汗を掻きながら馬首を返した。
そして、戦場に背を向けたかと思うと、脱兎の如く駆け出した。
剣持兵部卿が東先道に背を向け逃げ出したのを見て取った貴族達も、相次いで馬首を返すと勢い良く南を目指し、つまりは京府を目指して逃走を図る。
「えっ……お?あ?、あれっ?け、剣持兵部卿っ!?あっ?お歴々っ、どこへ行きなさるっ、これから戦で御座いますぞ!?」
何とか兵達を奮い立たせようとしていた古参の国兵が慌てて声を掛ける。
その時には既に背を向けて馬を走らせていた剣持兵部卿は、声に振り向くことすらせず、突風を食らった凧のように逃げを打った。
剣持兵部卿を始めとする征討軍の将に任じられているはずの貴族達は、北鎮軍の鬨の声を全て聞くことすらせずに、いや、出来ずに馬に乗って逃げたのだ。
「む、無体な!逃げるか臆病者共!」
古参兵の怒りに満ちた罵声を浴びせられるに任せ、逃げ続ける貴族達。
何時もなら身分をひけらかせて兵達を威圧する剣持兵部卿らであったが、事ここに至っては命大事というものだ。
その罵声を聞いた周辺の兵士が呆気にとられる中、程なくして征討軍の将官は残らず逃げ散ってしまった。
悲鳴すら上げられず、恐怖で涙と鼻水とよだれを垂れ流し、小便を漏らさんばかりにして逃げ出す貴族達を見て、国兵達はただただ呆気にとられる。
「な、なんてこった……」
地面にへたり込んだまま立てずにいた国兵達から、貴族達が馬で逃げる様子はよく見えており、それを見た征討軍の兵士達は全く戦意を喪失してしまった。
元々空腹や疲労であるとも言えないほどの一掬いの戦意さえも、逃げ散る剣持兵部卿らの姿が霧消させてしまったのである。
土地勘もない寒風吹き始めた北の地に、僅かな訓練のみを施されて送り込まれ、兵糧も十分与えられないまま、強敵にぶつけられた国兵達は、この瞬間全てを諦めた。
鉾や盾を投げ捨て、兜を放り出してへたり込む兵達。
平彦や千代麻呂に至ってはそもそも盾を敷いて座ったままである。
「おれたちゃ終わったな……」
「ああ……こんな場所でなあ……」
故郷の近坂国に残してきた家族を想うと、申し訳ない気持ちこそあるが、疲れと空腹がまともな感情を芽生えさせない。
有り体に言えば、どうでも良い。
これから殺されるというのに、不思議と恐怖は生まれてこないのだ。
それより、この苦しみからようやく解放されるという気持ちの方が強い。
「もう、どうにでもしてくれ」
「殺すなら殺せば良いやな」
手元に引き寄せかけていた鉾を放り出し、大盾の上に大の字で寝転がる平彦と千代麻呂。
そんな光景は、征討軍のあちこちで繰り返されていくのだった。
「あ~、あの、あれはどう言うことでしょうか?」
征討軍の兵達が立ち上がるでもなく、また陣を組み替えるでもなく、はたまた慌てふためくでもなく、ごろごろと地面に寝転がり始めたのを見て本楯弘光が戸惑いの声を上げると、行武はそれまでの気迫を余所に、大笑した。
「あーっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは」
行武の指揮下にある北鎮軍の国兵達も、目の前の光景を信じられない思いで見つめ、また行武の大笑いにそれまでの殺気を戸惑いの気配に変えた。
北鎮軍の兵は一糸乱れず行武の数歩分後ろに停止する。
その兵達にくるりと向き直ると、行武は直刃太刀を鞘にすとんと収めてから両手を広げて天を仰いだ。
「見たか!これぞ我が有職故実の極意じゃ!」
高らかに宣言すると、行武は兵達に命じた。
「用心しつつ全員を捕虜にせよ!殺すこと勿れ。征討軍の兵は我が方にて扱うべし!」
行武の命令一下、油断することなくじりじりと征討軍の兵士達に近付く北鎮の兵士達。
しかし遂に抵抗や反抗は一度もなく、寝転がる兵士達は敢えなく捕虜となった。
平彦と千代麻呂も、既に鉾は手放しており、大盾を地面に敷いてその上に寝転がっていたので、特に手荒な真似もされずに捕虜となる。
縄も打たれずに連れて来られた先には、北鎮軍の糧秣を積んだ荷駄が有り、そこではいくつもの大鍋が用意され、既に準備が始められていた。
大きな鉈のような包丁を使って食材を切り、笊に放り込む者。
その笊を大鍋に持っていって投入する者。
周囲の石を集めて作った簡素なかまどで火の番をする者。
大きな木のしゃもじで煮立った汁物をかき混ぜ、額に汗を浮かせる者達。
乾燥させた蕨や薇、令法の葉や椎茸、干した猪肉がふんだんに入れられ、玉葱や牛蒡、人参や芋と相まって確りとした出汁が作られてゆく。
大鍋をかき混ぜるのは、雪麻呂の指示を受けるツマグロやスジクロなど、かつて浮塵子と呼ばれた子供達だ。
白い湯気と芳しい汁物の匂いが湯気と共に立ちこめ、征討軍の兵であった捕虜達の鼻腔と胃の腑を攻め立てる。
やがて荷車から降ろされた俵が開かれ、米と大麦が升で大笊に取り分けられると、子供達が集まってこれまた大きなたらいに入れられた清水で研ぐ。
そして十分に水を切ったそれらを、一気に煮立った鍋に注ぎ込んだ。
多めの湯で固めに煮られた米と麦の表面から真っ白な湯気が立ち上る。
一方の汁物にはいよいよ味噌が投入され、香ばしさがいや増す。
「征討軍の虜囚の者共よ、振る舞い飯じゃ。下賜椀を持って並べ」
瑞穂国では遠征に出る兵には同じ大きさの塗りの椀を1つ持たせ、兵糧の配布に使用させるのだが、行武はそれを持って並べと呼びかけたのである。
「汚している者は盥で洗え」
行武の近くに付いている山下麻呂が盥や桶に汲み置いた清水を指で示して言う。
武具を取り上げられて捕らえられ、並べて座らされていた剣持兵部卿の連れてきた征討軍の兵達は戸惑うが、ずっと鼻をくすぐる香りに耐えかねたように、1人また1人と椀を持ってのろのろと並び始めた。
恐る恐る最初の兵、平彦が椀を差し出すと、雪麻呂が米と麦の固粥をよそい、その上からツマグロが汁を掛ける。
しかしその量は決して多くは無く、椀に半分程度とむしろ少なめだ。
平彦が不満そうな顔を向けると、後ろでその様子を見ていた行武が口を開く。
「空きっ腹にいきなり沢山食うものではない、胃の腑がしびれて死ぬやも知れぬからの」
その真に迫った物言いに、平彦は慌ててコクコクと黙ったまま頷くと、鍋の前を離れた。
続く千代麻呂にも椀の半分ほどの汁掛け粥が与えられ、2人は揃って離れた地面に腰を下ろす。
そして徐に自分の手元を見ると、そこには暖かい湯気をゆっくりと立ち上らせる、何とも美味そうな汁掛け粥があった。
装具の中に入っている箸を取り出す。
しかし、2人はものも言わずに箸を使うことなく与えられた汁掛け粥を椀ごと口にし、その中に導き入れた。
鼻腔を上がる味噌の風味と滋味ある野菜の香り。
続いて滋味のあるその味噌と、基礎となった野菜や肉の旨味が暖かく舌を撫でる。
優しく軟らかく煮られた米と麦は慈養のある汁を程よく吸い、その淡泊な味を深い塩気と旨味で覆っていた。
「慌てるな、ゆっくり良く噛んで食うのじゃ。胃の腑を驚かすでない」
再度発せられた行武の注意をどこか遠い場所での声色のように聞きながら、平彦と千代麻呂はゆっくりと汁掛け粥を味わう。
玉葱や人参は噛むまでもなく溶けるほどよく煮込まれており、山菜と猪肉は柔らかい汁掛け粥の中で確りとした歯ごたえを出していた。
胃の腑に静かに、優しく落ちていく汁を感じながら、平彦と千代麻呂はほう溜息を吐いた。
そして、互いの顔を見合わせると笑い声を上げる。
「なんだあ、お前、その顔。蕩けちまってるぜ?」
「それはこっちの言うことだ」
それだけ言うと、再び笑い声を上げる2人。
しかしそれは2人だけではない。
見れば、周囲に居た征討軍の兵士達のほとんどが笑い声を上げている。
「こんなうめえもんがこの世に在ったとはなあ……」
「ああ、一生忘れられねえ。ただの汁掛け粥が……こんなにもうめえなんてなあ」
しばらく無言で椀を抱え込む2人だったが、しばらくしてからふと気付く。
「俺達は何やってんだろうな?」
「ああ、確かに……何だか良く分らねえな?」
「……なんで俺達は敵に貰った飯食ってんだろうなあ?」
「本当は敵じゃなかったんじゃネエかな?」
千代麻呂の放った最後の言葉に、平彦は呆れたような顔で言う。
「おいおい……」
「でもよ、誰も死んでねえしな?戦いにもなってねえ……剣持何某は色々言ってたが、少将様が庶民にも優しい良い人だってのは、俺らの近坂国にも聞こえて来てたろう?」
「……そうだけどよ」
千代麻呂の熱の入った言葉に平彦も徴兵された時のことを思い出した。
あの少将様が反乱を起こしたと聞いた時は驚いたものだ。
平彦が考え出したのを見て取り、千代麻呂が意を強くして言葉を続ける。
「そんなお人がわざわざ北へ行って反乱を起こすかね?実際、俺達だって1人も死なずにここでこうしてる。飯を食わせて貰ってる……剣持のおっさんが満足に飯の用意も出来なかったのによ」
そして、その噂はさざ波のように征討軍の兵士達に広がっていった。
既にその様な会話を抑える者、すなわち貴族達は逃げてしまってこの場には居ない。
はるばる京府からこの地へ攻め寄せて来たはずが、糧秣の不足と疲労で士気を喪失し、挙げ句の果てに捕虜となった。
しかしながら一切の死傷者を出さないまま、縄を打たれるでも拷問を加えられるでもなく、今正に与えられた食事が行武の意思を示している。
「なあ……」
「うん、そうだな」
平彦の言葉にその意を汲んだ千代麻呂が頷きながら応じる。
そして、元征討軍の兵士達が意思を統一するのに、それ程時間は掛からなかった。
「少将様!東先道征討軍の兵ら1万名全てが少将様に帰伏致しますそうですが……?」
「ほう、早かったの」
驚愕の表情も露わに報告する弘光であったが、その言葉はあまり驚きを示していない行武の表情に尻切れとなる。
そして、その真意を見て取り、更なる驚愕に彩られた弘光の様子に、行武は不敵な笑みを浮かべて応じる。
「上級の貴族共が全て逃げ散っておるからのう、まず寝返りや埋伏はあり得ぬ。信用しても良かろう」
その言葉を聞いた弘光の顔が更に驚きを深める。
「……これは、織り込み済みですか?」
「まあ、満足に飯も食わせて貰えず斯様な北の僻地まで引き摺られてこられたのじゃ。飯を食わせて優しくすれば、簡単に転ぼうともいうものよ……元より無理に徴兵された者共じゃしの、加えてわしの名は京府近郊では聞こえておる。これでも庶民には慕われておるのじゃ……京府近郊で兵を徴しておったのが幸いしたわ……まあ、それこそ心攻め、武の極意よの」
行武はそう言うと、ツマグロとスジグロが近寄ってくるのを見て取る。
「少将様、米とか麦はまたここへ運ぶ手配がついた様子です」
「まあ、次は3日分くらいだそうだぜ」
「おう、ご苦労じゃの……とは言っても、藻塩潟に留め置いた物を運ぶだけじゃがの」
行武が2人の報告に満足そうに応じると、弘光も言葉を継ぐ。
「申し遅れましたが、天幕の方はほぼ張り終えました。後は傷病者の治療や糧秣の配布を改めて行います」
弘光の報告に行武が鷹揚に応じる。
「うむ、征討軍の兵達は体力が回復し次第、わしの配下といたす。和人には直ぐにここへ参り兵らの治療を行うよう依頼せよ」
「少将様の言っていた虫さされや傷薬はこの為だったんだ……」
羨望の眼差しを向けてくるスジグロとツマグロに、行武は悪戯っぽい笑みを浮かべて答えた。
「斯くてわしは硯石基家から1万の兵を掠め取ったりというわけじゃな」




