54話 東先道南境の対陣
皆様、大変お待たせ致し、申し訳ありませんでした。
瀬戸内弁慶様から、望外のレビューを頂きました、感謝しきりです。
この場をお借りしまして厚く御礼を申し上げます。
瑞穂歴512年 夏月16日早朝 京府郊外、元梓弓家人の集落
由羽が京府外へと流れ出る疎水へ籠に入れた野菜を洗いに出たところへ、何者かからのか細い声がかかる。
「由羽……」
「えっ!?」
驚く由羽にその声は姿を現さないまま小声で言葉を続ける。
「静かに、山渦共がうろついている」
「姫様」
由羽はその声の主が小桜姫である事を察すると、それだけ声を掛けて何気ない素振りで疎水の端にしゃがみ込んで、ゆっくり野菜を洗い始めた。
疎水の水端には石で作られた洗い場が何か所か設けられているのだが、その中の一つに小桜姫が水を含んだ服を着たまま座り込んでいる。
何時も綺麗に梳られていた髪は水に濡れてしとしとと水滴を垂らし、かつてあどけない笑顔を湛えていた顔には不敵な笑みがある。
その変わり様に息を呑む思いを持ちつつも表情には露わさず、由羽は静かに話し始める。
「昨夜から内裏周辺はとても慌ただしくなっています。普段は京府に出てこないはずの衛士の姿をした何かが走り回っています」
「それは妾を探し回っている山渦であろ……硯石め、相当な山渦を招き入れておる様子じゃ、この京府に禍津人を呼び込むとは……」
由羽の言葉に一息つきつつも、小桜姫は憤懣やるかたないといった様子で言う。
由羽は周辺の様子を再度窺い、何者も近くに居ないことを見て取ると、野菜を洗う手を止め、小桜姫に向き直って言う。
「姫様、こちらまで衛士は来ておりませぬ、一旦我が家へおいで下さい」
「助かる、その方らだけが頼り、何としても梓弓の爺の元へ行かねばならぬ。それにはまず京府を脱さねばならぬ故、相当の助けが要る。頼まれてくれるか?」
「承知しました。何より殿様のことでもあります、屹度お助け致します。まずは服を替えましょう。それから……大伊津へ使いを遣ります」
由羽の言葉に小桜姫は小さく首を横に振って言う。
「いや、往復の時が惜しい。危険ではあるが、直接大伊津へ向かう」
「姫様……」
「心配せずとも良い、これでも梓弓の爺に遊びを教わった者。手間は取らせぬ」
心配そうな由羽の言葉と表情を見て、小桜姫はふっと笑みを浮かべてそう言うと立ち上がった。
慌てて由羽も野菜を籠に詰め直して立ち上がると、先に立って歩き出す。
「光太は息災か?」
「はい、姫様を見れば飛び上がって驚きましょう」
「ふふ、違いない……」
その答えに笑みを浮かべる小桜姫だったが、其処には寂しさや申し訳なさが含まれていることを感じ取ると、由羽は励ますように小桜姫を振り返って言った。
「大丈夫です、光太もみんなも姫様の味方ですから」
瑞穂歴512年、夏月16日、朝 内裏
「では、お隠れになった大王に代わり、次期大王は神取王子殿下にお願い致す」
左に座る硯石基家の宣言に、それまで脇に控えていた年若い貴人が勢い良く上座に進んだ。
才気煥発と言うには、軽い雰囲気が伴っており、威勢は良いが如何にも頼り無い。
しかし左右に居並ぶ貴族や朝臣達の思いを余所に、その若者は風格を出そうとしてか、どっかりと上座に腰を据えると、溌剌とした雰囲気で口を開く。
「若輩の身ではあるが、謹んで承る!」
「一同、お控えなされよ」
基家の言葉に、貴族達が一斉に上席に向きを変えると、座礼をおくる。
貴族達が頭を上げるのを見計らい、神取王子が言葉を発した。
「先の大王……兄上の葬儀と喪が明けてからわしは即位する故、左様心得よ」
再度座礼をおくり、承諾の意を伝える貴族達を満足げに眺め、神取王子は基家に顔を向ける。
「基家」
「はっ」
「あの、何だったか……」
宙を睨みつつ言葉が出てこない神取王子の様子に、内心を悟られぬよう素知らぬ顔で基家は口を開く。
「……東先道の国司5名の件で御座いましょうか?」
基家の言葉に、神取王子は笑みを浮かべつつうんうんうと頷いて言う。
「おう、それよそれ、先頃訴えのあった東先道の国司達の件は承知した。免訴とする」
「ははっ」
頭を下げながらも、笑みを隠しきれない基家の様子を見もせず、神取王子が再び宙を睨んで言葉を発する。
「加えて……そう、梓弓の爺のことだが、大王の喪が明けてからの討伐ではいかぬか?」
「……通常であればそうあるべきでしょうが、既に先の大王の名により発せられておりまする討伐令に御座いますれば、戦端も間もなく開かれる頃かと思う次第にて、このまま継続致すが宜しいかと」
舌打ちでもしそうな表情に豹変しつつも頭を上げないまま、基家がゆっくりと答えると、神取王子はほーんと軽く相づちを打つ。
「ふうむ、そういうものか。であれば良いが……あの爺が乱をのう」
「逼塞していた老いぼれ武人貴族で御座います。望外の兵と権限を持って野心が芽生えたものかと……誠に残念で御座いますな」
「ああ!至極残念だ!あれは中々に話面白き爺であったのだが。では委細は任せた」
「はっ」
ちらちらとこちらでの遣り取りを盗み見る貴族達を余所に、神取王子は入ってきた時と同様の軽薄な雰囲気のまま、朝議の間を後にするべく立ち上がる。
盗み見をしていた貴族達が慌てて頭を深く下げる中、何を満足したのかよく分からないが満足した様子を隠しもせずに、神取王子が足音高く退出する。
高位貴族達はその様子を呆れつつもほっとした様子で見送ると、一斉に硯石基家に視線を移す。
その視線を受けた基家は、それでも一切表情を動かさず静かに口を開いた。
「方針は変わらぬ」
「はっ」
神取王子に対するよりも機敏に、しかも一斉に揃った動きで座礼をおくる文人貴族達。
その様子を冷たい目で見下ろしつつ、座を立とうとうする基家に下座から声がかかる。
「ほう、早いな。朝議はもう仕舞いか?」
朝議の間の出入り口廊下に、悠然と立つ旅装の貴族。
年の頃50ばかりのがっちりとした体格で、目は鋭く、額には薄く刀傷と思しき跡がある。
基家の顔に不快の色が僅かに浮かび、消える。
そして素知らぬ様子ですっと頭を下げてから言葉を発した。
「これは田那上王殿下、鎮西府から何時お戻りに?」
基家の言葉に、鎮西の統治を任されている鎮西帥の地位にある田那上王は、朝議の間に入ることなく腕を組んで応じる。
「先程よ。先だっての兄上に続いて大王となった甥が急逝したと聞いては、じっとしてはおれぬ。如何に継承権無き元王族とは言え、こうも身内の死が立て続いては不審も覚えるわ」
田那上王は一度強い視線を基家に送ってからふむと頷くと、近くに居た貴族の手元に置かれていた奏文の写しを見て、鼻を鳴らす。
固唾をのんで田那上王と基家の遣り取りを見守っていた貴族達は、慌てて奏文の写しを隠し始めたが、それを気にする様子もなく田那上王は嫌味な笑みを浮かべて言う。
「次代は神取に決まりか?まあ高位の者の推挙賛同があれば問題はあるまいが……ちと早計に過ぎぬか?彼の者の軽薄の気性に乗じたか?」
「……既に朝議は終わりました故、結果は何れ官報や高札で布告致します」
田那上王の質問にはっきり答えず、既に朝議は終わったと切り返した基家は、逆に質問を返す。
「それよりも、鎮西は如何致しましたか?」
その言葉に、再び鼻を鳴らした田那上王は、不満さを隠そうともせずに言った。
「鎮西大弐の打方武暁がそつなくやってくれておる。梓弓の爺が討伐してから、隼人や熊襲は元より西方も大人しいからな。大事はない」
「左様ですか……」
「何、遠方に居ったゆえに、直に京府の様子も知りたかったのだ、他意は無い……ただこう相次いで大王が代わられると、世情も騒がしくなる。民心を安んじる為にも為政に力を貸そうかと思うたのだがな?」
「それは有り難きこと、しかし中央京府のことは我らにお任せあれ。何も問題はありませぬ」
「北方もか?」
「……」
間髪入れずに発せられた田那上王の言葉に、思わず黙り込む基家。
しかし、しばらく沈黙した後、基家はにたりと不気味極まりない笑みを浮かべる。
「……ぬう?」
自分の表情を見て僅かに怯む田那上王の姿を見て、基家は笑みを深める。
そして余裕を取り戻し、基家は笑みを浮かべたまま頭を再び下げて言う。
「これは勿体ない言葉、ご忠告、精々肝に銘じる事にいたしまする」
「う、うむ……」
「先々代大王は偉大な御方で御座いました。その末弟君である田那上王殿下のお心を騒がせるとは申し訳なきこと。しかし懸念には及びませぬぞ。我らが確りと新たな大王をお支え致す」
「ほ、ほう、そうか。東先道で非道を働いた国司を赦免するのを新大王の初の仕事とするとは、なかなか洒落が効いておるな」
精一杯虚勢を張ったかのように言う田那上王。
しかし腰が退けているのは基家でなくとも分かるほどで、先程までの不敵な感じは既にない。
一流の武人、しかも王族に連なる者とて自分の今の権勢には逆らえぬのだ。
基家は梓弓行武と言う老人の特異性を改めて知ると共に、自信を深める。
「何かご不明の点でも?」
「いや、何も……ない。山渦共に踏み込まれても面白うない。気にするな、好きにやれば良い……わしは鎮西に戻る。先程も言うたが、好きにすれば良い」
それだけ言うと慌ただしく踵を返して去る田那上王。
額に冷や汗が浮かんでいたのを見逃さず、基家は再び頭を下げながら暗い笑みを浮かべる。
頭を上げ、田那上王の後ろ姿をじっとりとしためで見つめる基家に、そっと背後から近寄った広家が囁いた。
「消しまするか?」
「いや、不要だ……鎮西の要といえども胆力は梓弓に比ぶべくもない。それに、あれで西の抑えには役立っておる、放っておけば良い」
瑞穂歴512年 晩秋月10日早朝 東間道、広平国・耶麻郡 東先道との国境
耶麻郡の郡衙にほど近い原野には、ようやく征討軍となった剣持兵部卿率いる約1万の兵が野営していた。
しかし野営と言えば聞こえは良いが、実態は野宿。
陣幕や天幕もなく、めいめいが好き勝手な場所で自分の盾や手持ちの敷布にくるまって眠るだけ。
既に北の地の入り口に差し掛かっている東先道の最北地、晩秋ともなると朝夕の寒さが堪える。
しかも、数日前には雨が降り、地面はじんわりと湿ってもいた。
「……食い物が無いな」
「ああ、ここへ来るまでも酷かったけどよ、ここ数日は特に酷いぜ」
近坂国で徴兵された農民の千代麻呂と平彦は、隣同士で自分の盾を地面に置きながらひそひそと話す。
見れば、周囲では似たような雰囲気でひそひそと話す徴兵された農民達が居る。
駅は役に立たず、国司はどこの者も兵糧の供出を拒み、荒れ果てた街道は荷駄の道行きのみならず兵の足をも絡め取る。
雨が降れば整備されていない街道は泥濘と化し、泥水が豆の潰れた足に染み苛む。
夜半には蚊や虻がまとわりつき、睡眠を妨げる。
暖を取るどころか、飯を炊く薪にも事欠く有様。
小川大河に拘らず橋は朽ち果てて使えず、その度に兵や荷駄は顎まで水に浸かっての渡河を余儀なくされ、体力を消耗した。
おまけに深夜には盗賊が荷駄を襲って貴重な糧秣を奪っていく。
その結果、飢えと怪我、そして病が兵を責め立て、無能な上級指揮者達はそれに対処する術を持っていない。
1万の軍兵とは聞こえは良いが、内実は飢えた貧民と代わらない状態に陥っていたのだった。
ようやく明日は東先道にたどり着くが、この征討軍の全てが東先道への到着を目的にしてしまっており、そこから百戦錬磨の梓弓行武と戦うということはすっかり頭の中から消え去っていた。
ただただ、目的に向かって死人のような群れが向かう。
付近農民達の目は冷たく、忌み嫌われているのはそれを見るだけで分かる。
兵達もかつては農民だったのだ。
もし自分達が遠くから戦乱を起こすためにやって来た兵達を日常で目の当たりにすれば、同じ目をしたことだろう。
今まで一度も戦いを経験したことがない故に、未だ農民としての心を持ち続けている兵達は、自分達のことを客観的に見ることが辛うじて出来ていたのだった。
「帰りてえな……」
「……ああ」
平彦の心からの言葉に、千代麻呂は心の底から同意した。
その瞬間。
「敵襲ううううぅううう!!!!!敵襲だっっ!!」
先頭にいた兵が絶叫した。
慌てながらも力なく頭を起こした平彦と千代麻呂の見た先。
東先道の境目から左手に樫盾を持ち、右手に短い鉾を持った短甲装備の軍団が現れた。
それは正に軍団。
自分達とは全く別のもののように平彦には感じられた。
整然と並んだ隊列に、一糸乱れぬ矛先。
時折掛かる号令に応じる鬨の声も悠々と平野を圧してびりびりと響き渡る。
その先頭に経つのは、一本雉尾羽の兜を被った老齢の将軍。
その姿こそ誠の武人の佇まい。
将軍が止まると同時に足音が揃って止まる。
訪れる静寂に剣持兵部卿はおそれのあまり顔を蒼白にし、今にも逃げ出しそうな風情。
お付きの貴族達も既に逃げ腰で、何かあれば途端に逃げ散りそうな勢いだ。
そしてその将軍が悠然と手を上げる。
一目見て誰もが彼の者を将軍と理解出来る威を湛え、征討軍に大声を放つ。
「吾こそは梓弓北鎮軍少将行武なるぞ!いざ尋常に戦し候えい!!」
その声は戦場となる平野を圧して朗々と響き渡った。




