43話 東先道平定3
地方官人達の処置を終えた行武は、早速手力彦に問う。
「さて、この国衙には東先道の国司達がおるはずじゃが、どこか?」
「国司様方はこの国衙の奥殿に籠もっておられます」
「……やれやれ、往生際の悪い事じゃ」
自分の問いに淀みなく為された手力彦の回答を聞いて、行武はため息を漏らす。
この場にいないことを見て取り、最悪は地方官人達の手で弑逆されてしまったものと思っていたが、そうでは無かったようだ。
彼らはこの期に及んで往生際の極めて悪いことに、国衙の奥殿に立て籠もっているらしい。
「少将様、国司様方の用意された書状がこちらにございますが、如何なさいますか?」
手力彦は、奥に進もうとした行武に対しそう声を掛け、4名の地方官人達と共におもむろに5つの文箱を差し出す。
「何じゃこれは?」
訝る行武に、手力彦は自嘲の笑みを浮かべて言う。
「委任状と分国の譲り渡し状にございます」
「なるほどのう……そういうところは良く頭が回るものじゃな」
呆れ半分、感心半分の行武に、軽部麻呂が問い掛けた。
「爺よ、これは何だ?」
「まずは見てみるとしようかの。雪麻呂よ、広浜守の文箱を開けよ」
「はい」
行武の指示で雪麻呂が手力彦から豪奢な漆塗りの文箱を受け取り、その閉め紐を解いて蓋を開き、行武に跪いて差し出した。
雪麻呂の開いた文箱の中に入っていた数通の書状を取り出すと、行武は静かにその文章を読み下す。
そして行武はふっと笑みを浮かべてから手力彦にその書状を示して問う。
「他の国司の書いた物も同じ内容じゃろう?」
「はっ、そのとおりにございます」
回答を聞き、納得した様子で頷く行武は、書状を雪麻呂の持つ文箱へ戻して言う。
「東先道5か国の国司は、分国の政を征討軍に委ねてその職を辞し、全ての事象をわしの行動において解決するように申し送って来おった……責任放棄とは正にこのことよ」
東先道5か国の国司達は、朝廷から預けられた国司としての統治権や付随する権限を全て征討軍少将、則ち梓弓行武に委ねる代わりに、今まで自分達の赴任地で起こった数々の混乱の解決を押しつけ、そしてその責任を全て行武に被せたのである。
要するに、役目を引き継いだ以上はどうなろうとその者の責任だという言い分だ。
この場合、夷族の反乱という問題が解決出来なくとも、その責は全て行武にあるという内容となる。
「まあ、お主らにこの書状を預けたと言うことは、自分達は逃げ去るつもりでおったのじゃろうのう……」
行武の言葉と視線を受け、手力彦は黙って頭を下げる。
その手力彦の行動が、行武の想像が正しいものであることを意味していた。
「む、無茶苦茶ですっ!」
見ていた雪麻呂が思わず文箱の中身をのぞき込み、叫ぶように言う。
あまりにも酷いその内容。
そもそも反乱を誘発した苛政悪政を乱発し、その結果起こった反乱の発生を隠し、悪手を打って事態を混乱させた上に悪化させ、ようやく行った報告は嘘で塗り固めたもの。
しかも権力者と繋がってその責任を免れたばかりか、事態収拾にやって来た者へ全ての責任と咎を押しつけて自分達は逃げだそうと企んでいたのである。
「国司共め……相変わらずの腐れ共だ。一体誰のせいでここまで拗れたと思っているっ!」
軽部麻呂も怒りの表情を隠そうともせずに怒声を発した。
そもそも重税を課して民人の生活を困窮に追い込み、更にはそれを口実に人狩りをしたのみならず、静かに抗議するべく逃散した者達の村を焼き、逃げ遅れた者を捕らえて見せしめに殺戮したのが、今回の夷族の大規模反乱の発端だ。
責任は全てその指揮を執った国司に帰せられるのが道理で、征討軍としてやって来た行武に責任は当然無い上に、責任を負わせられる理由も無い。
しかし、書状では全て行武が承認したかのような文言が並び、そして勝手に完結しているどころか、ご丁寧に公式な署名と公印の押捺がされており、この文書が正式に国司の権限で発せられた事を証明していた。
「承知したも何も、わしはこの書状自体見るのが初めてじゃしな、わしが承諾の署名を行う場所も無い」
つまり東先道の国司達は、行武に対して一方的に責任を押しつけたのである。
「申し訳もございませぬ」
手力彦は、自分の責任ではないにせよ、その国司に仕えていた者として恥ずかしさと申し訳なさ、更には情けなさを感じて謝罪の言葉を口にする。
それは他の地方官人達も同様で、嫌々従っていたとは言え、さすがにこの内容を聞いては頭を下げる他無い。
「まあ良いわ、既に朝廷から東先道はわしに任された旨の承諾もある事じゃしの、かしこまって承ってやるわい」
「はっ?」
しかしあっさりとその全てを引き受けた行武に、思わず手力彦を筆頭に、地方官人達が間抜けな声を上げる。
確かに、朝廷から行武に対し、東先道の反乱鎮圧とその後の行政については一任する旨の承諾が軍監である久秀と和人経由で為されてはいる。
しかしながら、正式な権限を持つ国司の待遇について朝廷の態度は曖昧なままであり、解任するとも、征討軍がその上位に立つとも言ってきていない。
あわよくば現任の国司をそのままにして行武の行動を阻害するのが目的かも知れず、その処遇については本来細心の注意が必要だ。
行武は一旦東先道を朝廷に支配の行き届かない土地として認定させ、新たに国造を任命したが、これはまだ行武の領分である。
逃亡した国司を罷免するつもりではいるが、国司の任命権限は朝廷にあり、行武には無いのは明白で、その人選や処遇を奏上することは可能であるが、朝廷が奏上を受け入れるかどうかは分からない。
反乱を惹起した上に逃亡した者など、罷免どころか罪科に問われるのが当たり前だが、そうはいかないのが現在の文人貴族の牛耳る朝廷。
現に罪を犯した者を罪科に問うべく捕縛は出来るだろうが、その懲罰の可否や量刑の判断は朝廷が下すべきものであるから、下手をすればお咎め無しとなることもあり得る。
それでも、行武の心に迷いは無かった。
「全く、度し難い者共よ」
行武は自分の文箱を開けると、携帯用の筆と墨壺を取り出す。
そして、手力彦が持参して来た文箱から書状を取り出して開き、内容を確かめつつ無理矢理空いた紙面に次々と署名を施していった。
「何とも書きにくいのう……為高め」
書状の端や脇にぐりぐりと擦り付けるようなこれ見よがしの署名を施しつつ、行武はこぼしながら周囲を見る。
「何じゃ?」
「え、その……何をなさっておいでなのかと思いまして」
眉を訝しげに跳ね上げて問う行武に、雪麻呂が遠慮がちに答える。
それを聞いた行武は、ふふんと鼻で笑いながら次の書状に目を落とし、署名する余白を探しながら言った。
「決まっておろう、国司共めがわしに承認すらさせぬのは業腹ゆえ、承認の署名をしてやっておるのじゃ」
呆れる軽部麻呂や、目を見開いて驚く地方官人達。
「少将様はこの無茶苦茶な委任や責任転嫁を承諾するのでございますか?」
「勿論じゃ。良く考えてもみよ、逆にこれがあれば大手を振って東先道の権限を掌握出来るというわけじゃぞ。何せ現任の国司殿らの書状故にのう」
全ての書状に承諾の署名を終えた行武は、問いを発した大熊手力彦に不敵な笑みを向けて言う。
そして、署名を終えた書状の合間に滲まないよう別の紙を挟み込み、折りたたんでから文箱に戻すと、それぞれを持ってきた官人に手渡す。
「何を呆けておるのじゃ、その書状を持ってわしに付いて参れ」
そう言うと行武が憤りを抑え切れていない様子の軽部麻呂ら夷族の戦士長たちと雪麻呂を伴い奥殿へと向かうのを見て、地方官人達が慌ててその後を追った。
「少将様!本当にこの書状を受け取るのでございますかっ!?」
「受け取るも何も、その書状はわしにこの東先道の全てを任せるという内容が一方的に書いてあるだけじゃ……まあそのお陰でわしは朝廷の承諾を得たばかりで無く、正式に国司から委任された者として朝廷支配下に戻った後も此の地の統治を左右しうるわい」
手力彦らは怒り心頭でこの書状を破り捨てるとばかり思っていた行武が、無理矢理に署名を施して受け取ったのみならず、それを統治の根拠の1つとして捉えたことに驚く。
「とんでもない爺だ……」
「要はモノは考えようという事じゃ……既にこの東先道の反乱は収まったに等しいのじゃからな、ここをまた今の朝廷の恣にされぬようにするには、何でも利用出来るものは利用してやるわい。例えば、わしがこの書状を受け取ったのは反乱が収まる前にしておけば良いのじゃ、さすれば後々この書状が生きてこようぞ」
行武は軽部麻呂と雪麻呂に加えて手力彦を従え、奥殿へと進む。
どこまでも荒れ果てた廊下。
豪奢な浮き彫りが施された重厚な奥殿の扉は固く閉ざされているものの、ほころびや破損が目立ち、しかもかなり酷く汚れている。
本来は重要な式典を行う際に使用される朝廷を象徴する場であるというのに、いくら反乱に政務が混乱を極めていたとはいえ、清掃や修繕が全く為されていないことが窺えた。
行武はその有様に情け無いという思いを抱きつつも、その扉へ手を掛けると、躊躇なく一気に開いた。
「ひいっ!?」
「あひゃああ!」
「た、助けてっ!」
「ど、どうか命ばかりはお助けを!」
「お、終わりじゃあっ!」
派手な音が響き、突然現れた完全武装の兵を引き連れた行武を見た国司達が、無様な甲高い悲鳴を上げて逃げ惑う。
誰もが旅装束を身に纏い、外からも分かるほど銭を詰め込んだ袋を肩に掛けている。
首魁とも言うべき硯石為高などは、腰を抜かした挙げ句、銭の重さに立ち上がることが出来ずに床面でもがいていた。
その光景を見た行武は、げんなりとした表情でしばらく狂乱している国司達を落ち着くまでと辛抱強く見ていたが、一向に落ち着く気配の無い国司達に対し、次第に怒りが湧いてきたのか、かっと目を見開くと一喝。
「静まられい!」
気迫のこもった行武の大声に、国司達がびくりと身体を一際大きく震わせてから動きを止める。
そして、恐る恐る行武を振り返ると、全員がその場にへなへなとくずおれた。
妻子や妾と思われる者達もいるが、行武は厳しく全員を見回すと、雪麻呂に命じる。
「雪麻呂、兵に命じて妻子共を連れ出せ。無体はせぬ事だが、逃がしてはならぬ」
「はいっ」
国司の妻子達を連行するべく、雪麻呂が仲間でもある、かつての納税人足である国兵達を率いて奥殿の中へと入る。
「皆さん、立って下さい」
「無礼者!」
「夷族風情が国司……いや、朝廷の貴族に手を触れるか!」
雪麻呂の優しい呼びかけに、悪態をつく為高やその妻子達。
「臭い!近寄るな!」
「下賤の者がようも我らに口をきけるものよ!離れよ!」
「あっちいけ!」
それまで枯れた花のようになっていた者達が、突如見せた狂態に、雪麻呂を始めとした国兵が戸惑い、軽部麻呂が口をへの字に曲げる。
妻子といっても、いわゆる妾というもので、為高らの正妻ではない。
彼女らも夷族に縁のある、ここ広浜国の者達である。
それでも、貴族に取り入り良い目を見て、自分達が他の者とは違う身分であると勘違いしてしまうのだ。
そして、為高らも自分の自尊心を満たすために、彼女らの傲慢極まりない行動を唆してきたのである。
為高ら貴族からすれば、現地の卑しい女と関係を持ったということにはしたくないので、彼女らが夷族に縁のある者では無く、京府や貴族に縁のある者にしておいた方が、何かと都合が良いのだ。
しかし、現実は異なる。
「おい、おめえ、鮎川村のタキじゃねえか.……何偉そうに言ってんだ?」
「あっ、作蔵……あんたなんで……」
「確か、あんた桑沢村のもんだよな?おれ、隣の真畑村の立彦なんだが、覚えてねえか?」
「……覚えてるよ」
国兵達が戸惑ったように声を掛けた相手は、顔面蒼白となって口をつぐみ、下を向く。
さすがに見知った者に国司の妾になっていることを知られてしまい、どうして良いか分からなくなったようだ。
それを見ていた他の者達も黙り込み、やがて場は静まった。
行武は、為高の所行に対する怒りを堪えつつ、虚勢を張る他無かった妾達の姿に哀れさを感じながら、それをごまかすかのようにまじめくさった顔で厳かに告げる。
「各々事情はあったにせよ、ここにいる元国司どもは既に咎人である。咎人の係累縁者とあれば、調べを
せぬ訳にはいかぬゆえ、別所で待っておるのじゃ……連れて行けい」
その言葉を聞き、国兵達が国司の妻子達を促すと、全員が大人しくそれに従って立ち上がり、奥殿の外へと向かい始める。
妻子達にも去られ、文字通り孤立無援となった国司達が床の上を這いずってまで自分から離れようとするのを見て、行武の額に青筋が浮かぶ。
「やれ、情け無し!」
ひっと震え上がった国司達の面前で、行武は腰から鞘ごと剣を抜き、その鞘の切っ先を床に落としてドンと音を立てると、ぶるぶると怖気を振るって言葉も無い国司達をギロリとにらみ据えて叱責の言葉を叩き付けた。
「どこまでも情け無い振る舞いをするでないわっ!しゃきっとせんか!」
行武の叱声に、ひっとすくみ上がった国司達のどこまでも情け無い姿を見て、軽部麻呂がつぶやく。
「こいつらのような無様な者達が我らを苦しめていた元凶か……こんな連中にいいようにされていたのは、誠に情けないことだ……」
軽部麻呂の声色にはどうしようも無い憤りとやるせなさ、そして後悔の念が含まれていたが、行武は為高らから目を離さず静かに応じる。
「それが権威というものじゃ……権威権勢に逆らうのはそれを持っておらぬ者達、つまり民人にとってとても難しいものなのじゃ。つまらぬことじゃがな、人は集団に依存する故、仕方ない部分もあるということじゃ」
そう言い置くと、行武は剣を右手に持ちかえて為高の元へ歩み寄る。
どかどかと大股で近付く行武の姿を見た為高は、慌てて近くにいた畠造家長の背に隠れようとするが、家長にそれを阻まれたばかりか、反対側にいた大木戸雅望の手で押し出されてしまう。
「ひいえっ?」
再度悲鳴を上げた為高だったが、いきなり懐から小刀を抜くと行武の胸元へ突き込んだ。
「じいさん!?」
「少将様!!」
軽部麻呂や周囲の兵が驚愕の声を上げるが、行武は冷静に為高の悪あがきを眺める。
鋭い金属音が響き、為高が小刀を取り落とした。
「あがががが、手がああ……」
しびれる右手を左手で抱え込み、床を転げ回る為高。
行武は拵えの良い小刀を拾い上げると、片眉を上げた。
次いで為高の腰を踏みつけて留めると、びくりと身体を震わせて空恐る恐る振り返る為高に行武は静かに言葉を発する。
「鎧のある胸を突いたところで何をするつもりだったのじゃ?悪あがきも頭を使わねばただの間抜けぞ」
そして、小刀を放り投げてから手にしていた剣をすらりと抜き放った。
行武の行動を見た為高は顔を一気に青ざめさせる。
「あ、あ、梓弓の少将!血迷ったか?」
「血迷うたのはお主じゃ、硯石の国司、夷族を追い詰め反乱を誘発させるなど、おおよそ国司の風上にも置けぬ失政よ、死んで詫びよ」
「ま、待て!お主にこのわしの全財産の半分をやる!だから助けてくれ!」
「要らん!」
「な、何だと!?」
即答した行武に、為高が逆に驚く。
硯石為高の全財産ともなれば、分国を2つ3つそっくり買い取れるほどの莫大なものである。
為高としても本気では無い、ただの時間稼ぎのために発した言葉とは言え、全く迷う素振りを見せなかった行武に、頭が真っ白になる。
他の国司達も、2人のやりとの異常さに固唾を呑んで見守る。
「なんじゃ、ついさっきわしの命を狙っておきながらその言は?お主らのその様な言動が民人を迷わすのじゃ、どこまで腐り果てたか、卑怯者ここに極まれりじゃ」
「何を言うか!わしは貴族ぞ!硯石の一族ぞ!わしに逆らえば族滅ぞ!」
「それがどうしたんじゃ?わしにその様な脅しが利くか、虚仮が。アホウも休み休み言えい、疲れるわい」
「な、何だと!?」
再び頭が真っ白になる為高。
まさか、今の朝廷で権勢を恣にしている硯石の一族の名を出しても、逡巡する様子すら見せずに即答する行武に、為高は心の底から震えた。
このジジイは全くもって自分達とは違う価値観で動いている。
その事を直感で悟った為高は、自分の命脈が絶たれることを悟った。
「い、嫌だあああ!」
「す、硯石殿……?」
為高が床を這いずって行武から逃れようとするが、腰を踏みつけられているためにそれを果たせない。
「ひ、ひいい~」
ぎらりと光る行武の剣を見て悲鳴を上げ、腰を抜かしたままじたばたと暴れる為高。
その姿を見て行武は眉をしかめる。
「情けないのう、それでも貴族か?」
しかし格下と思っている行武の言葉を嘲りの物と感じたのか、為高は最後の気位を総動員して反駁する。
「お、お前らのような汚らわしい武人と一緒にするな、わしは文人貴族だ!」
「ふむ、なるほど……官人貴族とは直接手を下さずに人を殺す者共の事であるのか?なるほど、官人貴族とは民草を虐げて飢え死にさせたり、苛税でもって反乱を誘発させて軍に人を弑させるのか、なるほど」
怒りを噛み締めた声を発する行武に、味方であるはずの軽部麻呂の背筋が寒くなる。
国司の妾達を拘束して戻ってきた雪麻呂も、その光景に固まっていた。
「ひえええ!?」
丸々と太った為高の襟髪をぐいっと掴み上げ、布冠が落ちるのも構わずじたばたと抵抗続けるその顔面を睨み付ける行武。
「はぐうっ?無体な!無礼な!」
必死の抵抗を見せる為高に、行武は歯を剥いて獰猛な笑顔を向ける。
「大王の意向に背いて重税を国の民草に課して反乱を誘発させたのみならず、その事実を3年間も隠し続けた罪は重い、詫びよ。大王と民草に詫びるのじゃ」
他の国司達も、ようやくこれから何が起こるのかを察して絶句したまま顔を青くしていたが、阻止しようとする者はいない。
「い、嫌じゃあ!死にたくない!助けてくれ!」
「無理じゃな」
石床に為高を放り投げた行武は、一瞬後這って逃げようとする為高の首を無造作に抜いた長剣の横腹で背後から叩いた。
がくりと落ちる為高の首。
だらしなく白目を剥き、舌を出して泡を吹きながら気絶する為高。
「責を負う覚悟もなしに上に立つものではないわ……反吐がでる顔じゃ」
為高の情け無い気絶顔を見た行武が吐き捨てる様に言うと同時に、力の抜けた為高の尻から勢い良く糞尿飛び出し、周囲に異臭が立ちこめる。
「ぎゃひいいいい!」
「ひぃいい!」
「た、た、助けてくれい!後生じゃ!」
「あばばばばば……」
それを見ていた国司達が一斉に悲鳴を上げるが、行武は少しばかり顔をしかめただけで国兵達を振り返った。
「全員捕らえてわしの前に連れて来るのじゃ……順番に気絶するまで打ち据えてくれる」
「嫌だああああ!……おげえ」
「少将殿!少将殿おおおおお!……うぎい」
「後生じゃああ!命だけはっ、命だけは!……ぎゃああ」
「た、助けて……助け……ああああああっ」
奥殿の叫喚が消え、静寂が残った。
「梓弓少将……凄まじいな」
「貴族の処罰はまあ、一応貴族のわしがやらねばのう……たとえ打罰とは言え平民にやらせては、それだけで問題視されてしまうわい」
どういう技なのか、糞尿を撒き散らして暴れ回る5人の国司を直接打ち据えたというのに、行武は跳ね返りをほとんど浴びていない。
しかし、少し疲れた様子で剣を拭きながら言う。
「今まで数多の民人を苦しめておりながら、このような処罰しか与えられぬとは情け無い」
「いや、奴らの名誉は大いに損なわれただろう?恐らく東先道に此度の国司共の醜聞が駆け巡る」
行武の言葉に、軽部麻呂が呆れた様子で言う。
しかし、行武は首を左右に振って言葉を継いだ。
「朝廷が正常ならば、京府に送ってより辛い刑罰を与えてやれたのじゃが、今の朝廷では全員無罪放免となりかねんわ。無念じゃ」
「しかし、それでは少将様のお立場が……」
雪麻呂が心配そうに言うと、行武はようやく少し笑みを浮かべて答える。
「何、わしの任務は反乱鎮圧じゃから心配は要らん。反乱を誘発したのみならず、その報告を怠り朝廷に叛しておった不良国司共を成敗するのに何の差し障りもないわい」
それから行武は国司達を運んでいる国兵達を見送る。
この後弾劾文を添え、国司を成敗した事実をその身柄と共に都へ送って報告しなければならない。
本来ならば軍監の和人や久秀に国司の捕縛を事前に相談しなければならなかったが、それをした場合、和人らが捕縛に反対しても賛成しても、彼の立場は悪くなる。
行武としては反対されたとしても、国司の捕縛は強行するつもりであったからだ。
しかし硯石氏は大族。
井立光政、笠栄乙戸麻呂畠造家長、大木戸雅望の各家にも、理由を報告しなければならない。
恐らく納得することはないので、行武は硯石ら5つの貴族を敵に回すことになる。
下手をすれば行武が処刑される恐れもあるのだが、それについては全く恐れていない。
最早老耄した落魄貴族の命である、これ程軽い物は無い。
「……この地の良き行く末に若干なりとも寄与出来るとあらば、わしの命など安いものだわい」
行武のつぶやきは、異様な臭気を含んだ風がさらい、誰にも聞かれることは無かったのだった。




