39話 暗闘1
長らくお待たせしました。
遅ればせながら、これからは不定期更新となります、何卒ご承知下さいませ。
今後ともどうかよろしくお願いします。
京府より早く日が落ちる、東先道の藻塩潟。
今夜は何時にも増して闇の深い新月。
長々と鳴いていた地虫の声が途切れ、風のざわめきが寄せる。
森から抜け出た風に圧され、麦の若芽がささやき、水田の水面が波を生じさせた。
森の中から、うっそりと麦畑や水田を見回す影。
普段であれば、その正体は狼や熊、そして鹿や猿。
彼ら野生の獣は森から突如現れる田畑に驚き、その光景の変わりように不審を抱いて引き返すだけだが、今夜は様子が違っていた。
熊ほども大きくは無く、狼ほども背は低く無い。
鹿や猿にも似付かない、それは正に人影。
ぼそぼそと何か言葉を交わし、人影は静かに、そして大胆に田畑へと割って入る。
その数は実に30を数え、彼らは皆一様に薄汚れて髪や髭は伸びるに任せた八威族風であるが、それにも関わらず何故か古い和族風の貫頭衣を身にまとっている。
その動く先にあるのは、梓弓城柵。
城柵の外壁の所々には篝火が焚かれ、松明を掲げた兵が時折姿を見せるが、全体的に動きは低調だ。
闇に浮く60つの目は、暗い光を湛えてその梓弓城柵をひたと見据えていた。
一方の梓弓城柵。
警戒こそ怠っていないが、田畑まで見張ることは無いと行武が兵を砦まで引かせているので、夜間の見張りは梓弓城柵の手前まで設けられていない。
闇夜に紛れて襲撃してくるような手練れの戦士や兵士が相手では、納税人足上がりの国兵を無駄に死なせてしまうことになるので、行武が余程の理由が無い限りは夜の巡回や田畑の警戒を辞めさせてしまったのだ。
もちろん、猫芝やマリオン、そして揺曳衆の存在が行武にその選択肢を与えたことは言うまでも無い。
その梓弓城柵内に設けられている砦部分の行武の部屋に、烏麻呂が忍んでやって来た。
「……行武様、八威族の狼藉者共がこの砦を窺っております」
「ふむ……数はどの程度じゃ?」
「真佐方から解き放たれた者の一部かと思われますが、夷族の包囲網を破った者達で、数は30ほどです」
烏麻呂の回答に、行武は首を捻る。
「存外少ないのう、囲みを破った者共は軽部麻呂から100はおったと聞いておるのじゃが、後の者は如何した?……とは言え、行く先は知れておるか」
「ご想像のとおりでございます。余の者共は各々(おのおの)の部族に戻りましてございます。ここに来ているのは稀代の乱暴者共と腕に覚えのある者共にて」
「厄介な……」
烏麻呂の言葉に、行武は僅かに顔をしかめる。
闇夜に紛れての襲撃は予想こそしていたが、八威族の乱暴者共が来ているというのは少し行武の予想とは違っていたからだ。
行武はこそ泥や自分や周囲の力の把握も出来ない跳ね返りだけが来ると思っていたのだが、その予想に反してなかなかの実力者が揃っている様子である。
そして、当初より予想されたことではあるが、自分達の部族に戻った者達のことも忘れてはならない。
「厄介なのはそれだけでは無いのう……」
「……はい、近いうちに部族による襲撃があるかと」
彼らは自分の部族にただ戻っただけでは無い。
仲間を連れてくるつもりなのだ。
そしてその目的はもちろん強掠であろう。
そもそも彼らが捕らえられた理由も略奪や盗賊、野盗の類いである。
それを懲りずに今一度、復讐も兼ねてやろうと考えるところは、彼ら八威族が蛮族中の蛮族と呼ばれる所以だ。
「馬を能くする或鐶族や妖術師の多い織茂族と関係のある者もいよう。早々に呼び込まれては面倒じゃな。いまだこの城柵は完成しておらぬ」
行武が小さくつぶやく。
こちらには地の利があり、しっかりとした堀や土塁、城柵が整備されていれば騎兵や馬賊は怖くない。
また野良とは言え陰陽師である猫芝や、西方術士のマリオンが居るので、妖術師が多数来てもある程度の対応は出来るだろう。
しかしながら城柵は未だ建造途中であり、そもそもが農地の整備を優先しているので、防御施設の構築は後回しになってしまっているのだ。
加えて、それらを作る人手も足りない。
それに猫芝やマリオンには別の頼み事をしており、今は城柵に居ないと来ている。
「猫芝殿やマリオン殿のお戻りはいつ頃になるのでしょうか?」
「何とも言えぬわい。遣った先が遣った先じゃからの、すぐには戻れまい。此度ばかりは少し読み誤ったようじゃ」
烏麻呂の問に、渋い顔で腕を組んだ行武が答えた。
しばらく思案している様子の行武だったが、ふんと鼻息を一つ吐くと、腕を解く。
「まあ、おらぬものは致し方ない。居る者達で対処する他あるまい……しかし国司共もなかなか嫌な手を使うものよ。この仕打ちは高くつくことになるじゃろうにのう」
「……確かに自分の身に降り掛かり兼ねない悪手ではありまするが、いかな了見でしょうか?形振り構っていられぬということなのでしょうか?」
「ふん、まあもう二度とこの地を訪れることは無いと思い定めておるのじゃろ。大方逃げる算段でも付けおるのじゃろうて、浅はかなことよの」
静かに答えた烏麻呂に、行武は鼻を鳴らして侮蔑の響きをもった声色で答える。
しかし硯石為高らは、行武の想像通りこの地を完全に離れるつもりでおり、その後この地方がどうなろうが関係ないと考えているのだ。
彼ら高位貴族にとって、地方の土地や民がどうなろうとも関係は無い。
彼らが興味を持つのは、その土地では無く、そこから生み出される財貨のみなのだ。
財貨が生まれる過程やそれを作り出している民人に興味を持つことは、無い。
故に盗賊を解き放ち、その盗賊が徒党を組んで舞い戻って来ると言うことについても、全くもって関心も、責任感も無いのだ。
彼ら今の国司が求めるのは、財を無事に京府へ持ち帰ることの出来る環境だけである。
その環境さえ維持されれば、その後先がどうなろうとも、否どうなるという考えさえも持つことは無いのだ。
「大方、自然と米や銭が湧いて出てくるとか、生み出されておるとかでも思っているのじゃろう。そこにどの様な労苦や工夫があり、どの様な者がどの様な土地に住まってそれを為し、生み出して選別し、献上しているのかを知らぬのじゃ。益体もないことよ」
朝廷という極めて閉ざされた場所で政治を行い、そして地方から税を集めるだけ。
そこに農事や工事はなく、人は居ない。
積み上げられた米俵と、農産物の入った叺、銭函が貴族が思うこの国の全てだ。
その申し子たる為高ら文人貴族の国司に、民人を慈しみその生活をより良くしようという意思などあるはずも無い。
民人を単なる財貨を生み出すものとしか認識しておらず、それ故に苛政などと言う結果に至るのだ。
国司は本来その過程を目の前にし、そしてその過程をより良くするためにこそ居る。
その過程こそが民人の営みであり、生活であり、人生である。
過程こそが家庭であり、そしてそれを守り盛んにすることが本当の朝廷のある理由であり意味なのだ。
「曲がり形にも朝廷の統治機関の責任者たる国司の取る手段でも、思うことでも無いわ。何とも情け無い事じゃが、これが今の朝廷よ」
行武が独り言をつぶやく。
その声は余りにも小さかったが、烏麻呂の耳にひっそりと入る。
しかし烏麻呂は、敢えて行武のつぶやきに気付かない風を装って言葉を継いだ。
「こちらを襲おうとしている者共の対処ですが……」
「やむを得まい、ここで討つ。むしろここで討ち果たせば、八威族の一部には伝わらぬ事もあろうしの……ただし異相の術を使われても厄介じゃ。わしが出るわい」
行武の言葉に身じろぎした烏麻呂が、ゆっくりと言う。
「我らで何とか始末を付けまするが……」
しかし行武はその申し出をやんわりと断った。
「相応の犠牲が出よう。それはわしの望むところではない。まあ見ておれ」
森からこぼれるように現れた影が麦畑を駆け、水田を踏み荒らす。
風とは違うざわめきが麦畑に落ち、しめやかな波を立てていた水田の水面が乱雑な波紋と跳ねた泥に汚される。
驚いた蛙や蝗が稲や麦の間から飛び出し、オタマジャクシやフナの子が泥だらけになった水田を逃げ惑う。
田畑の区域を抜けると、梓弓城柵との間に設けられた空地にでる。
人影は少しその空濶地に戸惑った様子を見せるが、城柵の見張りが薄く、またその壁が間近である事を見て取って再び走り出そうとする。
しかし、その足はすんでの所で止まった。
人影達に僅かながら動揺の波が走る。
「はて、斯様な新月の夜に畑や水田を駆けるとは、ご苦労なことじゃの。まあ、なかなかの業前ではある。目が良くて身の軽い童共でも、その方らの様には行かぬ、駆け抜けるのはなかなかに難しかろう」
その声が終わると同時に、2つの影が吹き飛んだ。
やや遅れて更に2つの影が、水田の泥を跳ね上げて倒れ込む
とっさに伏せる影達、しかし間に合わなかった2つが更に不自然な倒れ方をした。
先頭を走っていた影が、間近に倒れた影の身体を無言でまさぐる。
そして、その手が目当てのものを探し当て、安堵の溜息を吐いた。
妖術や占術の類いでは無い。
矢だ。
柄から矢羽根、鏃に至るまで真っ黒に塗られた矢が、影の額に突き立っている。
しかし、突き立っているという表現が適当なのだろうか?
矢は頭蓋骨を撃ち破り、矢羽根の根元まで額に埋まり、そしてその鏃は犠牲者の頭と地面を縫い付けてしまっている。
そして更に2人。
背中を矢で貫かれてしまったのだ。
貫かれた影はうめき声を上げて身を捩り、逃れようともがくが、胸骨を貫通してしっかりと地面にまで達した矢がそれを許さない。
やがて大きな動きが止まり、びくり、びくりと小さく跳ねる様な動きも途絶え、息が止まる。
「さてさて、斯様な深夜に尋ね来るとは尋常にあらず。しかし、よからぬ輩は成敗致すことこそがわしの役目、面目躍如なり」
漆黒の闇の中にありながら、一番近くにいる人影に真っ向から話しかける1人の人物。
闇夜になれた影の目には、それが老人でありながら、しっかりと短甲を身に付け、被っている衝角付兜の正面には、一本雉尾羽が付されている事を正確に見て取る。
和族知識のあまり無い影達にも、それが高位の者が身に付ける物であろう事は察せられる。
そしてその老人の手には、大弓と2本の矢。
正に漆黒の矢。
夜目が利き、それでいて暗闇に目の慣れた影達にもようやく見えるほど、闇と矢は同化していた。
その老人こと行武は、影達が伏せている場所から50歩程の位置で立ち止まり、更に言葉を重ねる。
「民人が苦心して整えた田畑を踏み荒らすとは許せぬのう。更にはこの梓弓城柵に新月の夜に押し入ろうとは穏やかならず。その方ら何者じゃ?」
行武の誰何に、影達は全くの無言で応じる。
そして起き上がりざまに1人の影が礫を放った。
流れるような動作で矢が大弓に番えられ、弓弦の音も鋭く、それでいて無造作に放たれた漆黒の矢は、礫をかすめて行武の身体から逸らし、僅かに軌道を変えた矢は礫を放った影の左胸に突き立った。
どん、という低い音と共に、心臓に矢を受けた影が声も無く仰向けに倒れる。
ばしゃりと泥が跳ね、断末魔の痙攣によって水面に波が立てられた。
そして、もう1人、行武の背後で影が倒れる。
礫を放った隙に挟み撃ちで襲い掛かろうとしていた影の片割れが、行武の矢を額に受けて倒れたのだ。
「……イツノマニ」
再びどこからともなく行武の手の中に現れた2本の漆黒の矢を畏怖と驚愕の目で見ていた先頭の影が、思わず漏らす。
その特徴のある訛りを聞いて、行武は頷きながら口を開いた。
「わしの矢筒よ、決まっておろう。しかしまあ、ようやく話すか……八威族のようじゃの」
そしてその際に再び矢が放たれ、最後尾で腹ばいのまま後ずさりで逃げようとしていた影の脳天に矢がすこっと音を立て吸い込まれる。
それを察した先頭の影が、ぎりぎりと歯ぎしりしてから、低い声で行武を恫喝する。
「オイボレ、シヌ」




