38話 宴の後
招待した文人貴族達が去った後、ゆるゆると、しかし未だ春の面影を残した少し冷たい風が宴の後を通り抜ける。
遣り水と池にさざ波を残し、風が去った広縁。
居残った基家と広家は、縁側で酒を酌み交わしつつ、暗い策謀を練る。
高価で希少な塗の杯を乾し、基家がゆっくりと口を開く。
「広家、これで少なくともあの場に居た文人貴族どもは我らに荷担せざるを得なくなった。このことを大王に漏らしたとて、何も出来ぬ」
「今の大王は登位するまで政にはほとんど参画しておらぬ放蕩者故に……」
基家の言葉に広家がクックックと小さく笑いを漏らしながら応じる。
大王となった大兄王子は、前大王の長子ではあるが、決して優秀なわけでもないし、政治に熱心なわけでもない。
事実、大兄王子の立場で今まで朝廷に出仕した事がほとんどないのだ。
もちろん、そうなるように基家らが仕向けたせいもある。
それ故に、大王になったは良いが味方になる者はおらず、然りとて自分で何かを進められるほど才覚があるわけでもなく、また律令に詳しいわけでもない。
朝議に出ていないため、懇意にしている貴族も無く、また誰がどの様な思惑をもっているのかも理解していない。
馬鹿では無いので、登位してからはそれなりに勉強もしているようだが、文人貴族の思惑やその目的については全く把握しておらず、いたずらに時を費やすだけとなっているのが実情だ。
ただ、常識的ではあるが故に、度々基家の意見や政策に異議を唱えてくるのが、一応の最高権力者であるだけにうっとおしい事この上ない。
万が一、北辺の乱を鎮めた行武が昇進でもして朝廷へ積極的に参画するような事態になれば、大王の意を汲んだ行武が更に邪魔な動きを見せる可能性がある。
政から外された大王が、武力を持つ行武と手を結べば由々しき事態だ。
それはそれで手を打つ予定ではあるが、油断は出来ない。
それよりは自分の意のままになる神取王子を大王の位に就けて自分が政治を専断した方が効率が良いし、何より安心である。
前大王には他にも男子はいるが、全てが庶子であり、継承権を持たずに臣籍降下している。
継承権を保持している直系男子は神取王子のみで、他に小桜姫が継承権を持ってはいるが、母親は文人貴族化した武人貴族の梅塙家の出であり、後ろ盾となり得るほど力をもっていないので政敵には成り得ない。
ただ、嫡流の子ということになれば、聡明との呼び声高い小桜姫を推す者が現れないとも限らないし、それこそ行武辺りが支持を表明すれば、負けないまでも面倒ではある。
それに、小桜姫は梓弓行武を殊の外気に入ってもいた。
「小桜姫が気になるところですが、まあしばらくは放置しておいて構わないでしょう。いざとなれば何の後ろ盾もない小娘故、始末するのは簡単です」
「おお、恐や、いくら小娘とは言え、前大王のご息女であらせられるぞ?」
広家のあけすけな発言に苦笑を漏らしつつ、自分も王女を小娘呼ばわりしながら基家がたしなめる。
ただ、基家としても同意見なのでそれ以上小桜姫に対する思いは無い。
いずれは臣籍降下するか、差し障りの無い貴族に嫁がせるかで始末を付ける他無いだろう。
息子や甥の嫁に迎えて子を産ませ、大王となして外戚となり力を振るうのも良いが、小桜姫は他の王子達と違って幼いながら気概も知恵もある様子。
何より行武の息が掛かっていないとも限らない。
すんなり基家の言う事を聞くとは思えないし、無事に男の子が生まれる保証もない。
しかも、一旦臣下に嫁に行った者から大王を出すというのは、全く適当では無い。
いくら基家の威に服している文人貴族達とは言え、臣下の家から大王を出すとなれば、相当の反発や反感を覚悟しなければならない。
基家は小桜姫を大王に据えて政治を牛耳る事も考えたが、かの王女が成長するにつれて学問に秀でている事が知れてくると、この考えを捨てた。
「下手に大王に据えて、親政を復活させられても堪らぬからな」
「ことのほか律令の研究に熱心なご様子。我らの足下をすくおうと狙っておるやも知れません……考え過ぎであれば良いですが」
「……まあ、未だ力の無い小娘だが、王女は王女。しかもまだ童、どう化けるか分からぬし、どんな力を持つか分からんからの」
広家の言葉に応じながら酒を塗の杯で呷り、基家は酒臭い息を漏らす。
「それに、北の反乱は何としても押さえ込まねばならぬ」
「大王の申し様の通り、援軍を送るのですか?」
意外だと言わんばかりの様子で広家が言うと、苦笑しながら基家は言葉を継いだ。
「いや、それは出来ぬ……国庫に余裕がないのは空事ではない。このまま行武めに気張って貰う他無い。忌々しい事だが、あやつ以外に叛徒を押さえ込める者はおらぬ。武の有職故実など、失われたも同然の物を持っておるのはあやつしかおらぬからな。全く忌々しい。実に忌々しい、祈祷だけではどうにもならぬ」
その基家の言葉に、広家が含み笑いを漏らす。
武人貴族排斥を父親から引き継いで推し進めてきた硯石基家だが、その武人貴族の力を暗に認めたような発言に矛盾を感じたのだ。
基家とて一廉の政治家ではある。
武力の効能を知らないわけでは無いが、それを忌み嫌っているのも確かだ。
長年展開してきた諸外国との善隣外交によって、瑞穂国を表立って脅かす外国勢力は今のところいない。
反乱さえ無ければ、基家の構想通りに国軍を解体してしまう事も可能だった。
それによって生じる余剰費用は、全て貴族達に分配される予定だったのだ。
基家は再び酒を呷りつつ、憮然とした様子で広家に言葉を発した。
「……何がおかしいのだ?」
「いえ、忌々しげではありますが、蔑みながらもあの梓弓の老少将の技量は信頼しておいでのようで、それがおかしかったのです」
広家の回答に、基家は苦い物でも飲んだかのような顔で酒を三度呷り、ぶはっと息を漏らしてから外を見た。
そこには贅と技術の粋を尽くした庭園がある。
遣水を通して給水される大池には、堅牢で雅な石橋が渡されており、2つの中島を経由して奥の築山へと続いている。
新緑を芽吹かせた木々は、夜にも関わらず青々とした雰囲気を保ち、初夏の微風に葉をゆらゆらと揺らしていた。
時折、強めの風が吹いて大池の水面を波立たせ、木の葉を奏でる。
空には星々がきらめき、その光が大池の水面を飾り付けていた。
瑞穂国において権勢並ぶ物の無い硯石基家の邸宅。
しかしここもかつては武人貴族、梓弓家の本家が居を構えていた場所だった。
彼らを追い出し、この地に居を構えたのは基家の父の代だ。
それまでの武人貴族の反発は凄まじく、幾度となく命の危険を感じた。
父に従い、怖ろしい思いをしながら何故ここまで武人貴族の排除を目指すのか、疑問にも思ったが、今はあの時の父の気持ちが良く分かる。
武力は、全てを解決するが、全てを破壊する。
道理も、正義も、律令も、命も、財も、全てを破壊して物事を解決する。
それは怖ろしい時代だった。
剣一つでカタが付く。
そう脅されて縮み上がる思いをしながら、堂々と武人貴族と対峙する父親の背中に怖気を隠し、彼らを排除してきたのだ。
もう朝議で剣を帯びるものは無く、それを振りかざして抗議をする者もおらず、軍兵を率いて屋敷を取り囲むものも居ない。
よき時代がもう少しで訪れようとしているのだ。
しかし、時勢というものを読み誤っては、全てが失われてしまうだろう。
今まで築いてきた文人貴族優位の世の中が崩れ、武人貴族が再び幅を利かせる殺伐とした世の中に戻ってしまう。
「しばらく国兵は解散させられん」
「尤も、国司共は勝手に解散させたりしているようですが?」
「それは別段悪い事ではない。浮いた軍費が我らの物になるならな……」
広家の言葉にそう応じながら、基家は手にしていた土器を置く。
「この国に必要なのは最早武備では無い、平和な世に武力は必要ない……いたずらに世を騒がし、争乱の種を撒くのはいつも武力を持った者だ。故に、貴族はすべからく武力から切り離さねばならぬ」
そう言うと、基家は置いていた肴が入った土器の上に拳を振り落とした。
鈍い破砕音と共に粉々に砕ける土器と、飛び散る肴。
思わぬ伯父の乱暴な所作に、酒の入った杯を口に運ぼうとしていた広家が眉をしかめる。
それを見て、基家はにやりと笑みを浮かべて言う。
「武力とは不快な物だ……たとえそれが自分に向けられた物で無くとも、見ているだけで人を不快にさせる」
「……時と場合によるのではありませんか?」
「ほほほ、そのとおりだ。そしてその時と場合は我々が決めなければならぬ」
広家が呆れたような顔で酒を呷るのを見て、基家はそう言うと拳に着いた土器の破片を振り払った。
そして、基家はぼんやりと庭を眺めてからゆっくりと口を開く。
「我らが不快にならぬもの以外の武力は、認めぬ」
広家がその視線の先を追うと、大池から鯉が跳ね上がり、波紋が水面に広がった。
歪な波紋が池の縁で跳ね返ったところで、別の鯉が跳ね、地面へと落ちる。
びちびちと勢い良く跳ねる真っ黒な鯉。
夜闇の中でも目立つほど、くっきりとした見事な艶のある黒色だ。
基家はその鯉を見て、歪んだ笑みを浮かべると、席を立つ。
「……鯉は如何します?家人に拾わせますか?」
「捨て置け、身の程知らずの間抜けは、自分の所行がどう言う結果になるのか思い知らせる他無い……北に向かった糞爺と同じだ」
「……そうですか」
基家は広家の反応に少し何かを考えていた様子だったが、跳ねる勢いが早くも衰え始めた鯉を目にしてふっと鼻で笑うと、言葉を継いだ。
「わしは休むが、酒が欲しくばしばらく飲んでいて構わんぞ」
そのまま広家を置いて去る基家。
基家が立ち去った後も、静かに庭を眺めて考え事をしていた広家は、やがて先程までしていた鯉の跳ねる音がいつの間にかしなくなっている事に気付いた。
「……おや?」
死んでしまったかと思って鯉の跳ね上がった場所を見る広家。
しかしそこに鯉の姿は無く、軽く濡れた地面と池の縁から始まったと思われる波紋が広がっているばかりだった。
恐らく鯉は力を振り絞って池へと跳ね戻ったのだろう。
その光景をしばらく呆然と眺めていた広家は、やがて残っていた酒を飲み干した。
「油断は出来ませんね……」
そうつぶやき、基家そっくりの歪な笑みを浮かべた広家の目の前、濡れ縁の外に黒装束の者達がいつの間にか這いつくばるようにして控えていた。
「……お呼びでございましょうか」
金属を擦り合わせるような気味の悪い声で応じる黒装束達。
その異様な集団に、広家は酒瓶と土器を投げ与える。
「ふふふ、良く来たな。今回は大仕事だ、しくじるなよ?」
「……ははっ」
「……お任せ下され」
「我らが……しくじりなど、致しませぬ」
広家の言葉に、低い声や奇妙な声色で次々に応じると、黒装束達は与えられた酒を分け合い、円座になって飲み始めるのだった。




