第〇話 プロローグ
日本が異世界に転移してからちょうど二十三年目。
北方大陸東南部沿岸地域日本国首都――新東京にある首相官邸。その中の内閣総理大臣の執務室内はおそろしい位に静かだ。戦の音に溢れて返っている外とは違って。
「……」
内閣総理大臣、町田誠吾は見るに立派な椅子に深く腰掛けていた。頬は痩せこけて目もとには濃いクマができあがり瞳には殺気が溢れていた。そして表情は苦悶に歪んでいた。
ドアを数回ノックする音が聞こえていた。それに気づくのに遅れてしまった。町田総理は一週間以上に渡って一日二、三時間程度の睡眠でありとても短かった。また精神が昂っているせいなのか深くは眠れていない。そのせいで今の意識は途切れ途切れで本人自身もかなりまずいなと思う程の状態だ。
「入れ」
慌てて入室を許可する。秘書官が入ってきた。
「上陸した救援部隊から報告です。『各師団、順調に進軍中』」
「そうか……」
「総理、そろそろ仮眠をとった方がよろしいのでは?」
「うむ。だが陥落の危機のなかでまとも眠ることができない。また起きる」
町田総理は秘書官に対し断固たる口調で言う。同時に、敵がほぼ間近にいるなかでぐっすりと眠ることなんてできる筈がないと内心で呟いた。
今現在――新東京は、突如地球系国家の勢力圏や同盟国に侵攻してきたヒト族、エルフ族、ドワーフ族、獣人族、鳥人族など複数の異世界系種族の連合軍の包囲下に置かれていた。他の都市も同様である。一部の都市は完全に孤立しながらも、都市に立て籠もって今まで抗戦を継続し敵におびただしい出血を強要させた。
本来、日本の防衛組織の自衛隊が全力を出すことができる状態であればこんな敵など簡単にひねり潰せた筈だ。しかし、元本土である日本本土で継続的に発生している大災害、シーレーンが突如現れた海獣によって脅かされ、南方大陸の同盟国の支援など様々な悪条件のせいで敵に対し全力を出すにいた。
また、侵攻の兆候がいくつか存在していたのに無視してきた前政権の油断も大きかった。前総理の慢心し切った顔をふと思い出し町田総理は罵りたくなる衝動に駆られた。
救援部隊は上陸に成功し敵を殲滅するべく進軍を続けているが包囲下にある都市群の危機的状況は改善されてはいない。
錯綜している情報によると一部の都市では敵が市街地に侵入し激しい市街戦が行われているようだ。もしかすると陥落するかもしれないと町田総理は覚悟していた。
「……どうしてこうなったのだろうな?」
秘書官を退出させ再び一人となった町田総理はそんなことを呟く。今彼はひとりここちだ。
(そもそもこの大陸に進出したのが過ちだったのか? いやそうしなければ同盟国の輸入だけでは賄えない資源を得ることは困難だった。現地人を追いだして無理に土地を得ようとしたのが反感を呼んだのか? いやそうしなければ本土から次々と移住する国民が住む土地が足りなくなっていた。それに、現地人であっても、日本国民になろうとしているもの、この地で生きていくための支援を行ったものには可能な限り対等に扱い、差別的な行為は徹底的に戒めていた……)
疑問が次々と湧き上がってきた。それらのなかで、一体どこでこの国は選択を間違えたのだろうか? という疑問が心の中に大きく残った。どのみち恨まれるのは避けられなかったとすぐに結論を出した。
(旧本土、日本列島を含め転移した土地が沈み続けているのだ。全てが消え去ったとき、一億以上の地球系人類はどこに住めばいいのだ? 海の底など論外だ……)
睨んだ先には、ボロボロとなった故郷の姿があった。少し前までの様子を示していた地図に描かれている日本列島は、関東地方と北海道の左半分は消え去り、フォッサマグナを軸として東西に分断されている。今現在では新たに更新されていた。東北地方の大半が海と孔に呑まれて消え去っていたのだ。
この地図も遠くない未来に新しい地図に張り替えられるだろう。その未来が存在した場合の話だが……。
再びドアのノックする音が聞こえてきた。今回はすぐに反応することができた。
「包囲している敵に動きが見えました」
「……総攻撃か? ついにおしまいか」
いよいよ最後のときがきたと思った町田総理は、自害するなら毒薬かピストルどっちが死にやすくて楽に死ねるのかというのを無意識に考えてしまった。
「いえ。敵が撤退を開始しました」
「本当か!?」
その報告に町田総理は目を剥いた。敵が撤退、信じられない。前の攻撃を退けた我々には次の攻撃を抗える力はないことは敵も分かっていた筈だ。
「はい。元来た進路に沿って移動しています」
「なぜ?」
「新海南に包囲していた敵が中華警察軍の決死の反撃により壊走したという情報がただ今入りました。それが全体に知れ渡り限界を悟ったのでは?」
今のところは分からないということか。こんなことは後で考えればいい。敵の撤退に対する対応は自衛隊に任せればいい。確実に敵を徹底的に叩き潰す筈だ。外交官と政治家の仕事である後始末のやるのはこの戦争の帰趨が決定した頃である。今町田総理はすることは――。
「……これから寝る」
疲弊した精神と肉体を癒すことだ。そう結論付けてとりあえず寝ることにした。緊張の糸が一気に切れてしまったのか意識が急速に薄れてきた。これから気持ちよく眠れそうだ。そう思いながら町田総理は意識を手放した。
彼は夢を見た。日本が転移した当初。今から二三年前のこと、日本中が異世界転移という驚天動地の出来事に天と地がひっくり返したように大騒ぎしていたときのことを。
◇
日本が転移してから一日目。
転移の現象自体は静かに発生したのに対してその後は混乱が日本中で渦巻いていた。転移前、今までは当たり前に繋がっていた海外からの通信がごく一部を除き突如途絶し、衛星からの連絡が午前〇時を境にして探知できなくなり、夜空の星々が変化するなどの怪現象が発生していたのだ。混乱しない方がおかしかった。
それに対し日本国政府は冷静であった。混乱が表面化し始めると、対処は起きてからでは遅い起きる前に徹底的に行わなければならないと言わんばかりに、非常事態宣言を発令させ、暴動に備えて自衛隊と警察を総動員させそれ以上の騒擾を抑えようとした。
そのせいか政府閣僚は元の世界から切り離されたという残酷な事実を真っ先に認識することになった。その証拠となるものが自衛隊から報告として届いたからだ。それは、大空を舞う本物のドラゴンの群れの映像であった。
この映像はすぐに記者会見によって日本全国に発表された。別世界に転移したことを日本にいた全ての人々が実感した瞬間であった。そのときから、地球と共に刻んできた時の流れとあの世界で最も使われていた西暦から切り離され、転移してから何日、何年目という転移に巻き込まれた日本だけに意味がある時間が流れることとなった。
同時に異世界――この世界となったこの地に日本は生き抜くために全力を尽くすことを強いられることとなる。所謂サバイバルの始まりであった。
異常が確認されてから日本周辺の情報を得るために、航空自衛隊と海上自衛隊の航空基地からRF-4E、RF-4EJ、RF-15J偵察機、P-3C、P-1哨戒機が発進していた。それら機体は得た情報を逐一本土に届けていた。
日本政府、ましてや日本中にいる人々は気づいていなかったが、ある場所であることが発生していた。
それは起きたのは夜。場所はかつて二〇〇世代も住んでいたが主要産業である林業の衰退により徐々に人口が現象していき約三〇前に無人となってしまったある廃村であった。残されている人の形跡は人の管理から離れた自然に呑まれて朽ちるに任せていた。
何が起きたのか村が消えたのだ。より詳しく説明すると突如地面に孔が空いて村全体がそれに呑まれてしまった。その後はできた底が見えない孔は不気味に開いたままであった。
これは場所のせいかすぐに気づかれることはなかった。起きてから三か月後に気づかれることになった。これは日本の存亡に関わっているとはこの当時知る由もなかった。