一刻の師
彼女はユーナに歩み寄ると、両手を広げた。そのまま柔らかく包み込まれ、ユーナは胸に槍を持ったまま身動きを取ることができず、立ち尽くす。
豊かなアニマリートの胸の感触や体のあたたかさが伝わり、それはどこか母を思い出させた。ユーナは目を閉じ、身を任せる。
「……元気でね」
「は、はい! いろいろありがとうございました……!」
耳元で囁かれたことばは、決して別れのことばではなかった。
ユーナは槍を持たない片方の手で、アニマリートの服の端を掴んだ。更に抱き込まれ、さすがに苦しくなってくる。
「アニマリート様」
グラースの呼びかけに、腕が緩む。
ふぅ、とユーナが息を吐く間に、それは離れていってしまった。そして、森狼へと襲い掛かる。しかし、アルタクスは吠えたりしなかった。しっかりと抱きしめられるままになっている。それはほんの一瞬のことで、彼女は身を離した。
赤い残像を残して、一房、髪が揺れる。
「あとは、イグニス、お願いね」
そのまま、アニマリートは振り返らなかった。
グラースが入ってきた本来の扉のほうから出ていく。
氷の美女はユーナを見つめた。その静かな氷山の下に深い海のあたたかさがあることを、ユーナはもう知っている。グラースはゆっくりと優雅に一礼し、アニマリートの後に続いた。静かに扉が閉められる。まったくの無音が、ユーナにより喪失の空虚感をもたらした。
しばらく会えない。
ねえ、それって……どれくらい?
来た時と同じ隠し扉を使い、イグニスもユーナと森狼を誘導する。街壁の向こうへと移るまで、また沈黙を守ることになった。鍵のかけられた扉の向こう、ギルドホールの賑わいを背に、ユーナは訓練場側に移る。
イグニスは門ではなく、訓練場への扉へと向かった。従騎訓練のためだと、ユーナにもわかる。
「では、始めようか」
しかし、イグニスは訓練場に着くとすぐ、ほぼ中央に立った。
そして――焔槍を抜く。
炎を宿す刃が太陽に晒され、灼熱を具現化したように揺らめいた。
彼が何を始めようとしているのかがわからず、ユーナは森狼を見る。彼はわかっているようで、フン、と鼻を鳴らしていた。
焔槍が、唸る。
炎の名を持つ男は、豪快に焔槍を振り回していた。紅蓮と黄金の槍は炎の軌跡を描き、それが舞のような動きに見えて、ユーナは見惚れる。焔槍を構えた形で動きを止め、イグニスは焦ったように言う。
「早く抜け」
「え、って、従騎訓練じゃないんですか!?」
「融合召喚が成功しているのに、その従魔に乗れぬはずがなかろう。それよりも、己の武器を腕のように扱えねば、戦えぬではないか」
呆れたように言われて、ユーナはとりあえず布を解く。
槍にしては幅広の穂先、鉄の煌きはまるで油を塗っているようで、その中央にはめられた赤の宝玉がユーナの胸を昂らせた。白い布はとりあえず、剣帯に巻いて硬く結ぶ。
「森の眷属よ、まずは下がっていろ。すぐに済む」
イグニスのことばを受けても、森狼は動かない。ユーナは彼が巻き込まれないようにと少し訓練場の中央のほうへ歩みを進める。さすがに付いてくることはなく、安堵した。
選んだ短槍、マルドギールの重さは片手で持てる程度ではあったが、素早く振り回したり突くためには両手のほうが確実に思えた。
ユーナはイグニスを真似て、槍を構える。
まず、柄の中ほどを利き手とは逆の手で持つ。そして、利き手で同じ場所からスライドさせるように柄の下のほうを持ち、構えた。
イグニスの口元が笑みを象る。間違っていなかったようだ。
「行くぞ」
掛け声と共に、イグニスは動いた。力強い踏み込みと共に焔槍が伸びたように、ユーナには見えた。避けないとと反応するより早く、その穂先がマルドギールの穂先を打ち落とし、跳ね返ったように動いた。それは、ユーナの首筋近くでぴたりと止まる。
「ほら、死んだ」
しみじみと残念そうに言われて、ユーナは唇を尖らせた。
「わたし、槍スキルないんです……」
「知っている。だが、スキルがあれば戦えるというものでもない」
穂先を引き、イグニスはユーナと並ぶ位置に立つ。
そして、ゆっくりと槍を動かし始めた。
「一通り、動いてみろ。まずは、突き」
左手を支点に、右手で石突を持ち、力を籠める。
イグニスと同じように、ユーナも倣った。
突き、叩く、斬るの基本三種から、柄の持ち方三種での基本三種の確認、下から上へ斬る、突き上げる、足払い、膝から下を斬る、巻き上げ、回す……最後に投げるまで、一通りの型を繰り返した。
滅多に使わない体の部分まで動かしているようで、痛みはなくとも息が上がる。
「ここまでで、一度もスキルなど使っていない。できるだけ早くこの動きを覚えるよう、鍛錬を重ねよ。そうすれば、いずれ、スキルマスタリーの道が開かれる」
「――はい」
「スキルマスタリーの取得可能表示が出ても、槍を扱い続け、鍛錬を重ねることで、いつか、必要スキルポイントがゼロになる。共鳴に要するスキルポイントが八だからな。森の眷属を思うのであれば、そちらを優先してやるがいい」
取得スキルポイント、ゼロ?
与えられた情報に疲れが重なり、ユーナの思考が止まる。
武器スキルは、扱いたいと思う武器を持ち、実際に敵を倒すなどして使い続けることでスキルマスタリーが取得可能となる。武器のスキルマスタリーは必要スキルポイント一だが、そこから様々な攻撃用アクティブスキルの取得が可能となるのだ。たかが一ポイント、されど一ポイント。ユーナにとってそれは朗報だった。そう言えば、伝承スキルでの従魔回復と従魔支援、スクロールでの初級精霊術の取得もスキルポイントが必要なかった。レベルがあがらなければ手に入らないスキルポイントの節約……おそらく、ギルドランクが五まで上がっている者はそういないだろう。これは、とんでもない情報ではなかろうかと、ようやくユーナも思い至った。
イグニスはユーナの内心がわかるのか、楽しそうに口元を緩めた。同じ動きをしているはずなのに、汗のひとつも掻いていない。彼女が肩で息をしているのを見て、イグニスはひとり、訓練場の端に並べられた木偶人形へと向かう。三メートルほど手前で足を止め、口を開いた。
「技のひとつも、見知っておけ。いつか目覚める日が来るやもしれぬ……」
炎の軌跡が、確かに見えた。
イグニスは焔槍を片手で右手下方に構え、左上方へと振り上げた。無造作にも見えるほど力が込められているようには見えない穂先が木偶人形を抉る。左上方から真横へ、木偶人形の首が飛んでいく。右上から左下へ穂先が叩きつけられ、木偶人形の体がたわんだ。両手で掴んだ焔槍が、全力でその木偶人形の胴を貫く。衝撃に木偶人形は訓練場の壁まで叩きつけられる。胴には既に大きな穴が開いているにも関わらず、そのままぐるりと柄が回され、穂先が更に胴を両断する。無残に砕け散った木偶人形は、破片となって風に融けた。
「炎円舞、五連続攻撃だ。この程度なら、すぐにでもこなせるようになってもらわないとな」
開いた口が塞がらない、とはこのことだろう。
いろいろツッコミどころ満載の発言だったが、とりあえず確認すべきことは、事実の確認である。
ユーナは恐る恐る口を開いた。
「……今のを、ですか?」
「ゆっくり撃ったから、見えただろう? 本来はこうなる」
瞬時に、隣にあったはずの木偶人形が粉砕される。
しかも、イグニスが踏み込んだタイミングも声でしか判断できなかった。
いつ、槍は振られたのか。軌跡すら見えない。
ユーナは全力で首を横に振った。
「む、無理です……っ」
「鍛錬あるのみ、だな」
聞く耳を持たず、イグニスはにこやかに言った。
そして、森狼のほうを向く。
「ほら、次は従騎訓練だ。乗ったまま戦るぞ」
「え、えええええっ!?」
訓練場の空に、ユーナの最後の悪足掻きが響き渡る。
森狼は起き上がり、楽しげにユーナへと歩き出した。その歩みが駆け足になるのに、時間は要らなかった。
「ま、ちょっと、待ってぇっ!?」
少しも待たずに、森狼はユーナの傍に駆け寄り、首元をくわえる。ユーナはいろいろ覚悟した。空が回り、自分も重力に反して回る。咄嗟に槍の穂先を、何とか森狼に当てることだけは避けられた。
森狼の背中に落ちる、と。
まるで、そこはクッションか何かかと思うほど、容易くユーナを受け入れた。
太ももに殆ど力を入れなくても、ちゃんと座っていられるのだ。ゆっくりと森狼の毛皮を掴んでいた槍を持つほうの手を、まず離す。上半身を起こしても、身体がぶれない。鐙もないのに、どこか森狼の腹部にひっかかって、足を固定できている。気分としては、メリーゴーランドの馬にでも乗っているような感覚だ。
「そら、問題なかろう」
片手だけで従騎しているユーナを見て、誇らしげにイグニスは笑む。
驚くままに、今の従騎スキルっていくつなの?とユーナの脳裏に疑問がよぎる。それにはウィンドウが答えてくれた。スキルウィンドウには「従騎スキル レベル五」の文字が燦然と輝いている。
「融合召喚で己の半身となった身体だ。乗る程度で不自由はすまい」
融合召喚の恩恵と思うと、かなり複雑な心境になる。
今アルタクスに乗っている自分が主なのか、自分はアルタクスの付属物なのか、あやふやになりそうな気がするからだ。
だが、まったく森狼は意に介さず、訓練場を駆け始める。そのスピードに毛並みに置く左手に力が入った。風を切って走り回る姿は、とても楽しそうだった。
「ユーナ、遊んでないで来い」
あきれた口調で促すイグニスに、悲鳴めいた声をユーナは返した。
「あ、遊んでいませんよっ!?
従騎訓練も槍で行うってことですか……?」
バターにでもなるのではなかろうかと思うほどの速度は、どんどん加速していく。すると、アルタクスは踵を返した。急激な方向転換に体がずり落ちそうになるものの、ユーナは何とか堪えて槍を構える。
アルタクスの進路が、イグニスと重なる。
ユーナは片手で槍を握った。イグニスのすぐ傍を駆け抜けながら、彼女はその胸元に狙いを定め、振り上げ、槍を突き出した……!




