友人
教室に入ると、たくさんの視線が自分へ集中するのがわかった。あれだけの騒ぎになったのだ。当然だろう。
結名は目を合わせるのが怖くて、足早に席へ向かった。後ろで足音が響いた、と思ったが、振り返るよりも早く、別の人影が彼女の前に立ちふさがっていた。
「結名ちゃん!」
嬉しそうな詩織の声に、足が止まる。
半分泣きそうで、半分嬉しそうな彼女がそこにいた。その潤んだ目を見ると、こちらのほうが泣きそうになる。結名に駆け寄り、詩織は手を取って軽く引く。
「詩織ちゃん……」
「よかったー、学校来られたんだね! ホントにもう大丈夫!?」
予想した問いかけに、結名は思わず笑ってしまう。何度も頷くと、呆れたように彼女は息をついた。
「もー、絶対無理してる! 結名ちゃん、イヤなことあったら教えてよー。私、そいつつるしあげるから」
「つ……つるしあげちゃうの?」
「とーぜんでしょ。乙女の力よ」
詩織が断言しているのを繰り返すと、彼女は胸を張って答えた。
すごい力もあったものである。
結名が目を瞬かせていると、詩織の表情が一気に曇った。
「あのバカのことだって……結名ちゃん、あんなに怖がってたのに。私、一人にしちゃって……一緒に帰ろって言えばよかったって、ずっと、ずっと、思ってた……」
ごめんね、と彼女は謝った。
何でみんな、こんなに謝るんだろう。
誰も悪くないのに。
原因は自分にあって、みんなにはないのに。
結名は首を横に振った。あなたが謝る必要なんてどこにもない、もうあんなこと気にしていないと、伝えたかった。それは、詩織だけではない。
今この時も、見つめているだろう、彼にも。
「ありがとう、詩織ちゃん……わたし、ホントに大丈夫だよ。
ね、昨日のノートのことなんだけど、ちょっと訊いていいかなあ?」
優しい手を握り返して、結名は席へと詩織を促す。
零れた涙を拳で拭い、詩織は大きく頷いた。
教室内に、安堵の空気が流れる。
いつもの賑わいを取り戻している様子に、拓海もまた自分の席へと戻った。待っていましたと言わんばかりに友人が寄ってくる。
「小川! 今日の英語の和訳なんだけどさー」
「またやってないの? 八木、写してばっかりだと当てられた時困るよ?」
「えへっ」
「いや、おれを誤魔化してもしょうがないよね?」
呆れ返った口調で返しながら、教科書を出す。八木は軽く礼を言い、かっぱらっていった。三限までに返せよーっとその背中に言い放つ。
席に座り、前を向く。自然と彼女の姿が視界に入った。今日の拓海の時間割は、世界史、国語、英語、数学、体育、化学である。体育以外は、彼女と同じ教室での授業だ。問題ない。あの様子なら、渡辺も気に掛けるだろうから、一人にはしないはずだ。
学生証を端末に押しつけ、登校を証明する。スリープ状態だった端末が目覚め、拓海はディスプレイを開いた。スケジュール管理ソフトウェアで、今日の課題やレポートに関するコメントなどを再度確認する。ウィンドウの端にはメーラーが起動している。拓海は自分の携帯電話と学内端末を同期させて、どちらでもメールチェックができるように設定していた。
そして、失敗した、と気づく。
――まだ、連絡先を聞いていない。
本日の任務、ひとつ追加である。
昼食は詩織と多目的ホールのテーブルを陣取って食べたが、あまりゆっくりはしていられなかった。
学校のカウンセラーとの面談が入っていたからだ。初のアポイントである。これが登校の条件にもなっていたので、結名としては行くしかない。
お弁当は大好きな唐揚げだったのに、味わう余裕があまりなかった。
無言でお弁当を食べきり両手を合わせてごちそうさまをする結名を見て、詩織はまだ半分以上も残っている自分のお弁当を見下ろす。
「あ、詩織ちゃんはゆっくり食べてね! わたし、そこ行かなくちゃだから……」
視線をすぐ傍のドアに向ける。カウンセリング・ルームと掲げられた部屋には、今在室のランプが点灯していた。昼食後にという話だったので、とりあえずこれで行ける。早く終わらせて、自販機のオレンジジュースを飲むつもりだ。飲まないとやってられない。
お昼休みには自由に使える給湯器のお茶をくぴーっと飲み干し、結名は弁当箱を片付ける。紙コップはゴミ箱へ。
「あ、うん、じゃあ、ここで待ってるね?」
「詩織ちゃんが食べ終わる前に戻りたいなぁ」
「ゆ、ゆっくりでいいからね!?」
詩織の念押しに頷き、カウンセリング・ルームのドアをノックする。中からすぐに「どうぞ」という返事があった。結名は覚悟を決めて、ドアを開ける。
広々としたカウンセリング・ルームは、昨日の検査で回った心療内科の診察室を彷彿とさせた。ゆったりとした応接セットが中央に置かれ、少し離れたところに机がある。その椅子に、カウンセラーの先生が座っていた。椅子を回し、こちらへ向いてにこりと笑う。少しふっくらとした印象の、若い女性だった。
「失礼します。一年二組、藤峰結名です」
「はい、お待ちしていましたよ。どうぞ」
促され、結名は応接セットに向かう。
そこには、陶器のティーセットが既に並んでいた。個包装のクッキーがお菓子入れに山盛りになっている。ティーポットにはティーコゼーがかけられていて、既に客を待っているようだった。
「紅茶は平気?」
「は、はい」
ティーコゼーを外し、カウンセラーは紅茶を入れる。ティーストレーナーはなかったが、色合い的にはちょうどよさそうだった。いつから入れていたのだろうか。しっかりと湯気が立っていた。
「お砂糖はいくつ?」
「えっと、ひとつ……」
「ふふ」
楽しそうに、彼女は紅茶にザラメ砂糖を一匙分落とし、結名にティーソーサーごと差し出した。礼を言って受け取る。スプーンでくるりと中身を混ぜ、一口含むと、アッサムの香りが広がった。
まさか、ここで紅茶をもらえるとは思わなかった。
喉を通るあたたかさがうれしい。
「さて、申し遅れました。私は臨床心理士の葉月実と申します」
カウンセラーは胸元のIDカードを裏返し、結名に見せた。臨床心理士資格登録証明書とある。表側は皇海学園職員証だったので、普段はそちらだけを見せているのだろう。
やわらかな笑みを浮かべて、彼女は結名に問う。
「暴行を受けた、と伺っていますが、体の具合は如何ですか?」
暴行。
そのことばを受けて、結名の表情が強張った。
「痛みは全然……もう、指の痕も殆どわからないくらいなんです」
「そうなんですね。
――その時のこと、聞かせてもらっても?」
結名の様子を見つめながら、カウンセラーは過去を思い出させる。
揺れる紅茶の水面を見下ろし、結名は一つ溜息をついた。
思い出したくない。
だが、思い出したくないと思うことこそが恐れの表れだと、結名も気付いていた。
カウンセラーは人差し指を立たせて、結名の前で振った。
綺麗に磨かれた指先に驚く。
「EMDRっていう手法です。これを見ながら、おはなししてみて?」
リズミカルに動く指先を追いながら、話をする?
難易度が高いと思いながら、結名は口を開いた。
始まりは、国語の発表。そのあとの授業中の視線、終礼、放課後の中庭への入り口で……。
結名が一連の流れを口にし終わった時、それがどれほど簡単に言い表せてしまえるものなのかを痛感して、せつなくなった。だが、一方で指先を追いながらの話はたいへん難しかった。
結論。
話の中身を振り返るどころではなかった。腕を掴まれた感触や叩かれた手のことが、ただの事実になって表現できた気がする。
カウンセラーは手を膝の上に置き、結名に紅茶を勧める。少し冷めてしまったそれが、喉にやさしかった。
「藤峰さんのお話、私にもよくわかりました。
たくさん話して、今日は疲れたでしょう。またゴールデンウィーク明けにも一度、よかったらおしゃべりしませんか?」
そう言って、彼女は次のカウンセリングを結名に予約を促した。
不思議と、嫌ではなかった。
カウンセラーの先生の面差しも、穏やかな笑みも、紅茶も好ましく思えて、結名はまた頷いたのだった。
「……やっぱり、怪我してるんだね……」
体操服に着替えると、腕の湿布が丸見えになってしまった。ネットで留められている分、包帯ぐるぐる巻きよりは目立たないかなと安易に結名は考えたが、詩織には衝撃を与えてしまったようだ。
結名は体育のために髪を黒ゴムでまとめながら、痛々しいと言わんばかりに呟く詩織を見る。
「もう痛みはないんだけどね。ちょっとだけ痕がついてて……」
「そんなに!?」
「もう殆ど消えてるから」
周囲で着替えている女子たちも、耳を澄ませて自分たちの会話を聞き入っているようだった。黙々として着替える様子がいっそ怖い。
「春でよかったね。半袖なの、体操服だけだし」
「皇海学園は授業なら何を着ててもいいから、その点ありがたいかも」
制服のバリエーションが多い上、私服登校も認められている。大事なのは学園章を身につけ、学生証を携行することなのだ。現に、詩織が着てくる制服と結名のそれとはデザインが異なる。同じ制服を着てくる生徒もいれば、家庭が裕福なのか毎日デザインが異なるものを着る生徒もいて、見た目には楽しい。唯一、体操服だけは指定の学園章が入ったものを着用しなければならないことになっている。
予鈴が響く。
慌てて結名たちは更衣室から飛び出していった。
その姿を、既に着替えが終わった男子生徒がひとり、遠目から見つめていることにも気づかず。
体育の授業は、着替えの時間を考慮して五分前には解散してくれる。
次の授業もあるらしく、ネットはそのままにバレーボールだけを片付けるとすぐ整列の号令がかかった。挨拶を終え、再び更衣室に駆け込む。ゆったりした女子更衣室の奥にはシャワールームもあるが、この狭間時間で浴びようという勇者はいない。
元陸上部の杵柄か、着替えるのが早い結名は、黒ゴムを外し補助カバンを肩に掛けながら、まだシャツのボタンを留めている詩織に振り向いた。
「ちょっとトイレ行くから、先に出るねー」
「はーい」
体育館は体育棟の三階にある。
その二階にある女子更衣室から女子トイレに寄り、渡り廊下を使う。一足早く出た結名は、脳裏に教室へのルートをぼんやり思い浮かべながら急いだ。
だから、驚いた。
トイレから出てきて、目の前に彼がいたことに。
「……一人はダメだよ」
苦笑しながら言う拓海に、結名の顔が赤くなる。
よりにもよってトイレの前での待ち伏せやめて。
歩き出さない結名に、拓海は凭れていた壁から身体を起こし、自身も補助カバンを片手に先を促す。
「いこっか」
拒否するわけにもいかず、結名は拓海の隣を歩き出す。
後ろで、黄色い声が聞こえた気がした。特に詩織の。
ああ、どうしよう、いろいろマズイ……。
そもそも、男子はグラウンドでサッカーだったはずだ。着替えは同じ体育棟だが、一階の男子更衣室を使う。
どれくらい急いだのだろう。
結名はちらり拓海を見る。
首にタオルをかけたままで、少し前髪が濡れていた。
――うわ、カッコイイ。
見るんじゃなかったと結名は心から後悔した。また頬が紅潮してしまう。
渡り廊下から外へと視線を泳がせていると、風がちょうど吹き抜けていった。助かった。
廊下を渡り、教室棟に入ってすぐ。
拓海は立ち止まり、結名を見る。改まった姿勢に結名が首を傾げたところへ、彼は意を決したように口を開いた。
「藤峰さん、今日の帰りって予定ある?」
「えっ、おか……母が、迎えに来ることになってて」
「そっか。じゃあ、一緒に待つから」
「へ?」
聞き返しているあいだに、半分に折りたたまれたメモが突きつけられた。思わず受け取る。
拓海は満面の笑みを浮かべた。
「おれのアドレス。
一応、メールと携帯の番号とSSのを書いておいたから、どれでも使って」
「……え?」
更に聞き返す結名の背に、ぽん、と軽く手が置かれた。
反射的に振り返ると、超絶にやけ顔の詩織がいた。乙女こわい。
「結名ちゃん、ちょーっとお話が♪」
「渡辺さん、あとよろしく」
「はーい♪」
何故か通じ合っている二人に、結名の背筋が寒くなる。
まるでバトンタッチしたとばかりに、拓海は教室の中へ消えていった。結名の手元にはアドレスが当然残っている。
使って、って?
「んふふふ、そういえば言い忘れてたんだけどぉ」
結名の肩を抱き、廊下の壁側にこっちこっちと引きずっていく。
周囲には聞こえないように、小声で詩織は耳打ちした。
「菊池先生に頼まれててね、私と小川君がしばらく結名ちゃんを一人にしないってことになってるの。私、トイレの前で待ってるつもりだったんだけど、先越されちゃったぁ」
「な!?」
「ほら、私って美術選択じゃない? 結名ちゃん音楽選択だから、明日の授業とか教室別だし。今日は私がべったりくっついていようって思ってたんだけど、小川君、律儀だよね」
楽し気に言う詩織を見る。そんな面倒なことを、彼女にまで強いてしまっているとは思わなくて、結名の表情が曇る。
彼女はこつんと額を結名の肩にくっつけた。
「これくらいなら、何でもないから。
結名ちゃんといるの楽しいし、小川君カッコイイし、役得だよ?」
おどけて続ける詩織に、結名も頭をくっつける。詩織はぎゅっと結名の肩を抱きしめた。「んふふふふ、これも役得役得~♪」と彼女は笑う。
「――ありがと」
結名の呟きを受けて、詩織は唐突に体を離す。そして、少し赤い顔で言った。
「ヤバい、結名ちゃん。次、化学室移動だった!」
「えええっ!?」
慌てて二人は特別教室棟へ駆け出す。
タイムリミットまで、あと三分だった。
フィクションです。(念押し




