恐慌
カシャン、と軽い音が床に散らばる。
その紫水晶の眼差しは、既に離れているイグニスの腕へと向けられていた。割り込んだ森狼は細かく震え続けるユーナを守るように立つ。
だが、彼女自身が、己の悲鳴にも、己の反応にも最も驚いていた。
恐怖から困惑へとその瞳の色が移り変わっていく。
「グラース!」
「聞こえました。すぐアニマリート様も来ます」
扉の影から現れた氷の麗人が室内へ入り、壁まで下がったイグニスの前を抜けてユーナへと躊躇いなく近づく。
行く先を遮るように唸りを上げる森狼へと、グラースは楔を打ち込むように視線を向ける。
「心に癒しを与えるだけです。危害は加えません」
足を止め、ユーナへと伸ばした指先。
そこに、淡く光が灯る。
「降れ静謐の水」
描き出された霊術陣が、ユーナへと解き放たれた。
春を呼び込む雪解け水のように、冷たさの中のあたたかさが胸に広がっていく。
言いようのない、弾けた恐怖が和らぎ、震えが止まった。
その様子を見て、室内に安堵が広がる。
唸るのを止め、森狼はユーナへと向き直り、その頬を舐めた。
初めてのことに、ユーナは呆気に取られてアルタクスを見る。
「精神状態が恐慌となっていましたが、この無節操な男は何をしたんですか?」
グラースは両腕を組み、ちらりと横目でイグニスを見て問う。
イグニスは火の眼差しで彼女を睨みつけた。
「己の見たものが確かか、間近で見たかっただけだ」
「どうだか……何を見たんです?」
すげなく肩を竦めるグラースへ、更に炎が彼女を焼かんばかりに燃え上がる。その強さに彼女も小さく息をつき、いつも通りに淡々と問いを繰り返した。
「森狼の最上位の触媒を見れば、確認せずにはおれぬ」
「最上位?」
イグニスのことばにまず反応したのは、扉の向こうに姿を見せたアニマリートだった。
彼女の視線が室内を飛び回り、ある一点で止まる。
ユーナの足元に落ちた、一対の牙の首飾り。
「森狼王……っ」
彼女の目には、奇跡が映っていた。
誰の手助けもなく、森狼の幼生が仕えることを選んだ命の神の祝福を受けし娘が、従魔使いの道を進む。
不慣れな従魔と共に強敵を倒し、従魔の宝珠を手にテイマーズギルドの闇に触れ、今、己の従魔にふさわしい最高の触媒を見せている。
これを奇跡と言わずして、何を言う。
ふらふらと、アニマリートがユーナに近づく。
そして、彼女の足元から大切そうに首飾りを拾い上げ、差し出した。この上もなくうれしそうな微笑みと、「本当に、ステキな巡り合わせね」という呟きを聞いて、ユーナは受け取りながら尋ねる。
「最上位の触媒? それって、森狼の牙、百本よりもいいってことですか?」
「上位の触媒は、下位すべてを上回るの。しかも、一対だもの。一つは共鳴に使えるわ」
共鳴?
目を輝かせて答えるアニマリートのことばに首を傾げていると、深々と、露骨にグラースが溜息をついた。
「まったく、あなたがたは――本当に、今の状況をわかっていますか?
マスターもですが……あなたもですよ、ユーナ」
指摘を受け、アニマリートはこの上もなく不思議そうにグラースを見る。次いで名が上がり、ユーナはびくりを身を震わせた。呆れているというよりも、心配する声音が続く。
「あなたは、融合召喚よりも己の精神状態にもっと気を払うべきです。本当にイグニスのせいではないとしたら、あなたの中に何らかの呪が燻っている可能性がありますよ。それを取り除かない限り、また恐慌状態に陥るやもしれません。
――発動した鍵は何ですか?」
グラースの眼差しを受け、イグニスが答える。
「私が触れたこと、やもしれぬ」
「え? ユーナに触ったの?」
「い、いや、だから、その首飾りを見ようとしてだな!」
己の所業を振り返るイグニスのことばをそのまま繰り返し問うアニマリートに、慌てて彼も繰り返し事情を話す。どうでもよさそうにグラースは手を振った。
「言い訳は結構です。私が視ていますから、再現してどのような状況なのかを確認しましょう」
彼女の促しに、森狼が唸る。
拒絶を示す彼に、グラースは冷たい視線を向けた。
「もし、従魔の死がユーナに呪いをかけているのだとしたらどうします? 歪んだ恨みが彼女の精神を焦がしていたら、取り返しがつかないのですよ」
「いえ……ヴェールのせいでは、ありません」
気落ちした声で、しかしはっきりと断言するユーナに、グラースが向き直る。
「思い当たる節がおありで?」
頷く彼女は、唇を噛み締めていた。ぱたりと森狼のしっぽが、その足に触れる。肌を撫ぜる、ふわりとした心地よさに、ユーナは口元を緩めた。ことばを続けない様子に、グラースはアニマリートを見る。アニマリートは眉をひそめた。
「命の神の祝福を受けているユーナが、呪いを受けるなんてあり得るの?」
「えっと、その辺はよくわからないんですけど……怖かっただけなので、たぶん、同じようなことさえなければ大丈夫だと思います」
PTSD(心的外傷後ストレス障害)のようなものかもしれない。
幻界の中にまで現実の記憶が尾を引き、このようなフラッシュバックが起こることなど、運営は予測していないだろう。臨床実験がひどく難しいからだ。その程度はユーナにも想像できた。
だが、現実では、このような症状は起こらなかった。
そう考えて、ユーナは己の思考手順を否定する。現実で、イグニスのような男性にはまだ触れられていないのだ。可能性は否定しきれない。
そこまで考えて、ユーナはイグニスを見て、頼んだ。
「あの、ちょっと……お願いできますか?」
同じ状況を生み出し、同じ症状が起こるのか、ユーナも確認したかった。
イグニスはグラースを見る。彼女が頷くのを確認すると、ユーナへと手を伸ばした。今度は、森狼も唸らない。ただ、完全に目が据わっている。
イグニスの手が、ユーナの腕に触れた。やんわりと掴む。
イグニスもユーナも、グラースもアニマリートも、そして森狼もまた、その状況をじっと眺めていた。
眺めていた。
「……大丈夫みたいです」
不思議そうに、ユーナは呟く。
グラースもまた、頷いた。
「特に呪の発動は感知できませんでした。精神状態に変化もありません」
「ふむ」
イグニスはユーナを見、次いで森狼へと視線を向けた。厳しい眼差しが変わらずそこにあった。
そして、覚悟を決めて、彼は動く。
軽く腕を引くと、ユーナは簡単にイグニスのほうへと体勢を崩した。転がり込んできた少女を、彼は鮮やかに抱き上げる。しかし、ユーナは驚きはしているものの、悲鳴をあげたりはしていなかった。紫の目はぱちぱちと瞬きを繰り返し、イグニスを見上げている。
大口を開け、イグニスの足を全力で森狼は食んだ。
さすがの森狼の本気に、炎の名を冠していながらも、彼は呻き声をあげずにいられなかった。
敗北である。




