祝杯
勝利の余韻も冷めやらぬまま、旅行者は街道を急ぐ。そのさなか、レイドボスを体験し、オープンチャットで口々に感想を言い合っている姿も多く見受けられた。攻撃のタイミングや、ターゲットが誰なのかを認識するコツ、攻略組に追いつくなら即ユヌヤに飛ぶか等というコメントまで耳に届く。ざわめきは熱気と共に、暑い季節を更に暑く感じさせた。太陽が眩しい。
我先にと進むPTの背を幾つも見送り、ユーナは散歩程度の歩みでアンファングへと向かっていた。また一つ、追い抜かされていく。その速度でも疲労度が回復しなくなり、彼女は立ち止まった。同じように歩みを進めていた仲間もまた、足を止める。黒の術衣をまとう彼はより一層暑そうに見えた。
「……先に行ってもいいよ?」
「何を言う。姫のおことばは絶対だ」
一瞬の躊躇いもなく、セルウスは言い放った。
そういう彼も、そして、反対側を追従していた彼女の従魔――森狼も、満身創痍である。HPは全快しておらず、装備もボロボロ、疲労度はユーナがダントツ最下位だが、それほど差もなく似たり寄ったりな数値だ。それでも、最も早い回復量でHPが緑に戻ったのがアルタクスである。半歩ほどユーナの斜め前を歩き、初心者向け先制攻撃してこないの魔物をぷちぷちと文字通り踏みつぶしている。爪も要らないようだ。
大きな体になっても、やっていることは変わらない。
以前より、遠く離れてまで倒しにいくことはしないが、今は周りのPTもアンファングへの帰還を最優先にしているため、ほぼこのような雑魚は放置している。時折姿が見える草虫が瞬殺されていくのは、以前と同じだ。
ふと可笑しくなったところで、ユーナは気づいた。
戦利品はどうなっているんだろう。
そう考えた途端、森狼はユーナへと近づいてきた。大きな口を開け、ユーナの顔を丸呑み……するはずもなく、鋭い牙が無数に並んだ顎の中、リスの如くに様々な戦利品を咥えこんでいる様子に、ユーナは今度こそ身を震わせて笑った。どこか痛いが、抑えられない。
森狼が口を開けた瞬間には怯えて身を仰け反らせていたセルウスだったが、視線で中を検めた途端、ユーナと同じく声を上げて笑い出す。
「り、律儀だね……」
「ホントに……ありがと。こっち、もらうね」
道具袋の口を開き、ユーナはアルタクスに促す。不愉快そうに鼻を鳴らしながらも、アルタクスは道具袋の中へ、戦利品を放り込んでいった。器用なものだ。
笑って元気が出たのか、疲労度が少し回復しているのを見て、ユーナはまた歩き始める。ふたりもそれに合わせて歩き出した。もう、後方にPTの集団は見えない。これで自分たちが最後だろう。視界にアンファングの街壁が見えてきたので、誰しも足を速めているのだ。
今、アンファングの門は大きく開かれている。
その街壁の上には、命の神旗が翻っていた。聖騎士が掲げていたものだ。一足先に、アンファングへ入ったのだろう。ひょっとしなくても、もう宴は始まっているかもしれない。
幻界時間にしてみても一日程度しか離れていないはずなのに、ユーナはひどく懐かしい気持ちで門前に立つ。門番は笑顔で旅行者を受け入れているようで、その視界にアルタクスが含まれても、呼び止めることも、声を荒げることもなかった。従魔の印章はこれほどの巨体になっても有効、ということだろう。テイマーズギルドさまさまである。
彼女が予測した通り、町中がお祭り騒ぎになっていた。門に入った端から、ここぞとばかりにNPCが道端に屋台や露店を出している。食べ物から雑貨、武器防具などの装備や……と物珍しげにながめていると、旅行者の戦利品の露店まであった。なかなか商売時を知っている。
「さっきのレア・ドロップもあるかもしれないね」
見るからに耐久度が激減している盾の代わりを求めているのか、ユーナと共にセルウスも身を乗り出して品物を見ていた。逆に、アルタクスはユーナの背後にぴたりとくっつきそうなほどの近くから、離れようとしない。身を屈めているあいだだけでも日陰になるので、ユーナとしては不満はなかった。多少埃っぽいのはお互い様である。
希少な戦利品の響きに、ユーナも思い出す。自身の道具袋の中身を、まだ見ていない。
『お、来たな。乾杯するらしいから、杯もらえよ』
『すぐ参ります!』
楽しげなフィニア・フィニスの声が耳を打つ。跳ね返るように、セルウスが応えた。
地図では、そのアイコンは広場で点灯している。まさに天幕のあたりだ。合流してから確認しようと、ユーナはレア・ドロップのことは一旦さておき、混雑している大通りをゆっくりと奥へと進んでいった。途中から、森狼を前に歩かせるほうが道が開くと気づき、先を行かせる。先ほどの戦闘のおかげで旅行者間にも知名度が上がったようで、誰も犬呼ばわりしない。結構気にしていたのは、主である自分のほうだったと思い至って笑みが零れた。
広場のほうから、にぎやかな音楽が流れてきた。様々な打楽器や笛の音が中心になった勝利の旋律が、更に気分を高揚させる。
その入口近くでは、何かの果実を真っ二つに割ったような酒杯に並々と麦酒が注がれ、無料で配られていた。底が丸いため、どこかに置くことはできない完全なる使い捨て……もしくは、酒好きのための杯である。昼間から酔っ払いが続出しそうだ。
幻界において飲酒に関する年齢制限はないため、旅行者は誰しも雰囲気で杯を受け取っている。セルウスも笑顔で受け取っていたが、ユーナは丁重に辞退した。ただでさえ体調がおかしいのに、酔ったらまず倒れる。
麦酒の樽の前でコックをひねり、流れるように酒杯を配っていた女性は、手に注いだばかりの麦酒を持ったまま屋台の裏側に声をかけた。すぐに別の女性が姿を見せ、ユーナに同じ杯を差し出す。しかし、中身が違う。甘い匂いのする白い飲み物を受け取ると、恰幅のいいその女性は破顔した。
「こっちはパルマイだよ。酒じゃないからね」
一口飲めば、ひどく喉が渇いていたことに気付いた。まったりとした甘さが喉を伝っていく。ココナッツミルクだ。椰子の木などこの周辺の植生では見なかったが、これもまた違う形なのかもしれない。体が未だに熱いせいか、ぬるいはずのそれも心地よく感じる。礼を言って、そのまま先に進んだ。
街灯から伸びた布が日よけとなり、色とりどりのテントの下に飲食物系の屋台が立ち並んでいる。音楽は、何と神殿前の大階段に腰を下ろした、揃いの神官服を着た楽団が奏でていた。広場の天幕の前だけは直射日光にさらされ、旅行者たちは既に麦酒を傾けながら勝利に酔っている。完全にひとが溢れかえっているその中に、MVPの姿はなかった。
地図で見ると、フィニア・フィニスのアイコンは天幕にほど近い屋台の影にある。テントの裏側に入るようにユーナたちが足を向けると、その軒先でちゃっかりと椅子を拝借したフィニア・フィニスがそこにいた。積み上げられた木箱の前で、ふわふわ金髪巻き毛の美少女が胡坐をかいて古ぼけた椅子の上にちまっと座り、酒杯をちびちび舐めている。
「……苦い……」
ゲーム内であっても、味覚は健在である。そして、味にしろ酩酊感にしろ、よく作りこまれているはずだ。麦酒も同じく、その味わいと共に苦みがあると考えられる。当然飲酒経験などないユーナだったが、ジュースを手に入れることができて正解だったようだ。
フィニア・フィニスは差し出された酒杯を断れなかったのだろう。眉間に皺を寄せている様子を見て、セルウスはすぐさま身を翻した。おそらく、ユーナと同じパルマイを手に入れてくるつもりだ。
気が利く下僕を視線だけで見送り、フィニア・フィニスはふぅーっと溜息をつく。そこに酒香を感じ、そんなに飲んでいなくても酔っているのではとユーナは思った。そんな彼女の視線を受けて、フィニア・フィニスはにやりと笑む。
「結構使えるだろ?」
眼差しにまで色がついているような気がするので、本格的に危険域ではなかろうか。
PTチャットではなく、オープンでの呟きに、ユーナもオープンに返した。
「腕がいい魔術師だったんじゃないかな。風、使ってたよね」
「ボクの矢とも相性抜群だった。いい拾いもんしたよ」
機嫌よく返していたとろけるような空色の目が、そのことばを発して澄んでいく。そして、揺らぐことなくユーナに問うた。
「そのへんの魔術師でも、加護まで扱えるやつなんてそういない。ボクはこのあと、アレと一緒にアンテステリオンに行くつもりだ。――ユーナはどうする?」
アンテステリオン。
エネロの向こう、第三の街。
ユーナは、返事を躊躇った。
視界に映るステータスは異常をきたしている。このまま行くことはできない。
口ごもったユーナに、軽くフィニア・フィニスは鼻を鳴らす。
「全員綺麗にレベルアップしてるんだから、これ以上足踏みすることはないからな。でもまあ、アンタはちょっと休まなきゃいけないから……先に、行ってる」
最後の台詞は、ユーナから視線を泳がせた先に、小さく付け加えられた。
通常、MMOではその場限りでPTを組むことが多い。これを野良とか、野良PTという。
同じ目的であるボスを倒したり、クエストをクリアすれば解散する。
力さえあれば、どこででも、誰とでも戦っていける。
まだこの幻界では、その境地にたどりつく者が少ない。
だからこそ、フィニア・フィニスはPTを続けていこうと誘ってくれているのだ。
つたない誘いに、それでもユーナは快く頷いた。見た目は元気系美少女だが、フィニア・フィニスは立派にPTリーダーとしていい判断を下してきた。もうしばらく道を共にするのは悪くない。
「うん……追いかけるね」
「あれに乗ればすぐだしな。エネロからアンテステリオンまで歩いて一日だから」
フィニア・フィニスが顎で指したのは、もうすっかり成長しきってテントに入れない従魔である。外からの視線から隠すように、テントの端をその巨体で塞いでいた。おかげでせっかくの日陰でも風が抜けにくいようで、少し暑苦しい。
従騎スキルがあっても、鞍もない状態で乗り続けるのは相当困難に思えるが、フィニア・フィニスの指摘には一理あった。アンテステリオンの適正レベルの十五を越えている以上、たとえフィニア・フィニスがソロであっても道行きの難易度は高くない。アルタクスを乗りこなすことができるのなら、先にフィニア・フィニスたちに旅立ってもらうほうが、ユーナの旅程は短く済む。テイマーズギルドに身を寄せ、体を休めてから森狼の騎乗を含めた訓練を考えていたユーナにとって、鍛錬と前進を組み合わせられる時短プランだった。
多少値が張ることもあるが、アンテステリオンの転送門を使うという手は選びたくなかった。
転送石の存在が、その不用意な使用を躊躇わせる。一度歩いた場所でなければ転送石は使えない。いざという時のために、全てのフィールドは回っておきたい。
今選べる最善だと、思う。
森狼を見つめていたユーナの鼻先に、巨大な宝珠が差し出された。
見違えることのない、MVPの特別な戦利品である。左手に酒杯を持ったままなので、反対側の手で持っているにも関わらず、上手にバランスを取っていた。
「この中にある紋章と、アイツの名前のとこのってさ。似てるよな」
共に歩いていたためだろう。
短い時間であったとしても、フィニア・フィニスの目にも従魔の印章は刻まれていた。
片翼となった従魔の印章が示す意味。
「あれも、前は従魔だったのかもな」
面白くなさげに、フィニア・フィニスは宝珠をユーナに押しつける。片手では持ち切れず、ユーナはその重さを胸に抱えた。危うくパルマイを零すところだ。
「テイマーズギルドいくんだろ? アンタ、ほとんど丸腰状態だし、例の商人に話つけてさ、何か装備見繕ってもらえよ。で、ついでにそれ、鑑定してもらっといて。アンタなら安く済むだろ」
容易く高価なものを預けようとするフィニア・フィニスに呆気に取られる。
確かに、シャンレンならば鑑定も可能だろう。
そして、ユーナはこの宝珠を、できればアニマリートに見せたかった。彼女なら、きっと名を持つ森熊の主のことも知っていると思ったからだ。
「何か新規クエスト発生しそうなら、知らせてくれればいいよ。とりあえず、考えなしに売るつもりもないから、持っといて」
その意図まで含めて、フィニア・フィニスは預けてくれるという。
「フィニも一緒に行けばいいじゃない」
「あの商人に会ってタダで済むわけないじゃん。ボクがアンタらに喧嘩売ったの忘れたのかよ……」
げんなりと心底嫌そうな顔をする。
自分に関しては忘れていなかったが水に流していたユーナは、あの商人ならば絶対に水に流さないと気づき、視線を逸らして杯の中身を一口飲んだ。その様子にいろいろ悟ったフィニア・フィニスは更に言い募る。
「たぶん、今は時間を惜しむほうがいいんだ。討伐隊が解散したら、アンファングやエネロあたりで足踏みしてた連中が、一気にアンテステリオンに向かい始める。戦利品で片付くクエストとか、また値上がりするんじゃないか?」
一足先に行って、クエストに必要な戦利品を押さえるつもりのようだ。民族大移動状態で旅行者が動けば、市場に流れているクエストクリア用戦利品の絶対量が減る。戦闘してクリアを目指す者もいるが、足踏みしているあいだに稼いだ金を使うことも何らおかしくはない。攻略最前線でも同じことは起こっているが、そもそも最前線では市場に流す余裕が旅行者側にないので値上がりしているのだ。第二波ともいうべき今回の動きに、今ならまだ、そこまで先読みしている商人も少ないだろう。もちろん、結果的に自力で数を集めるのなら、早めに向かうほうがいいのもわかる。
片付けろよ、と促されて、確かに値がつけられないものを手元に持っているのもこわいので、素直に道具袋に収納した。
「お、お待たせしました!」
「ん」
ちょうどタイミングよく、息切れしたセルウスが駆け戻り、フィニア・フィニスへと新しい杯を捧げた。麦酒が入ったほうを彼に突き出し、反対側の手でパルマイの杯を受け取る。
まだ中身が思いっきり残っている杯を拝領し、セルウスは感動のあまり打ち震えていた。
え、それ渡しちゃっていいの?
ユーナはいろいろ問題を感じながら、フィニア・フィニスと下僕の間に視線を彷徨わせる。セルウスは杯を両手に持ち、頬を好調させて夢の世界へ旅立っていた。
その時、音楽が不意に消える。
「勇猛果敢なる、命の神の祝福を受けし者たちよ!」
とんでもない大音量が周囲に響き渡り、アルタクスが咄嗟に身構えた。そのふさふさのしっぽが、無情にセルウスの手元を払う。拝領した側の杯が重力に従い地面に落下し、テントの外へと転がっていった。
こうして、セルウスの至福の時は終わった。
――ひとが絶望した時って、こういう顔になるんだ。
ユーナはまた一つ、人生を学ぶ。
森狼が動いたことで、テントの中からも外が見えるようになった。当然、逆もまた見えているだろう。だが、周囲の旅行者の視線は、今、神殿前に集中している。
声は音量を少し下げて、続く。聖騎士の朗々と詠うような声音は、役者に向いていると思った。少々前置きが長いが。
「……無事に任務を完了し、帰還できたことを誇りに思う! すべての命に祝福あれ! ――乾杯!!」
そして、広場に集う旅行者は、己の杯を天に掲げて唱和した。
『乾杯!!!!!』




