Most Valuable Player
瀕死のはずの熊だったが、その眼差しから光は消えない。
熊は咆哮をあげながら、喉に食らいついたアルタクスを振り払う。肉ごと引き剥がされ、森狼は地面へと叩き落とされた。足場を完全に失ったユーナは、名を持つ熊の眉間に突き刺さった短剣だけを手掛かりに、宙に浮く。更に熊は吠えた。その眼差しがユーナを捕らえる。危険を察し、短剣を手放したが、遅かった。熊の巨大な手が彼女の胴を掴み、力を籠める。爪が深々と食い込んでいく。
「ぃぁっ」
体が軋む。背に突き刺さる爪による激痛で叫ぶこともできない。ゲームの中であるにも関わらず、肺が、胃が、内臓が圧迫されて、何かが出てきそうな気持ちの悪さも重なる。「はっ」と短く吐く。まともに息を吸い込むことができない。視界が明滅する。
熊の咆哮は止まない。
耳鳴りがひどい。
『ユーナ!』
自身を掴んだ腕が、更に内側へと強まる。
抗えない。
呼ぶ声がしても、応えようもなかった。
握り、潰される……!?
「疾風駆矢!」
フィニア・フィニスの、風を味方につけた矢が放たれた。
食い破られた喉元を頸椎から貫き通し、小さな先端がユーナの視界にまで届いた時。
唐突に、ユーナを貫いていた爪も、掴んでいた腕も消え、彼女自身は重力に従い落下する。そして、戦闘により剥き出しになった地面に、何のクッションもないまま激突した。詰まった呼吸。解放されたはずの体は、墜落の更なる痛みで大地にくずおれた。全身が弛緩する。
光が、満ちた。
砕け散る間際の光が膨らみ、場を占め、空へと舞い上がり広がっていく。
閉じることもできない、うっすらと開かれた目で、ユーナは不思議な光景を見上げていた。
複数のレベルアップ音が耳に届く中、そこに、文字が浮かぶ。
――Congratulations, you defeated the boss.
The MVP is given honor.
Bless to all.
視界を流れていく幻界文字。
そして、視界の端で、光の柱が空に向かって立つ。
光の奔流は一瞬、舞い上がっていた光がゆっくりと大地へ還っていく。
小さな光の欠片が、彼女の真上にも落ちてきた。手を差し出して受け止めることも、今はできない。
死出の道に旅立つ者を見守っていたはずの沈黙は破られ、勝利の喜びが周囲からほとばしり、歓声に変わった。その中に、叫びが聞こえた。
指先すらも動かせない、とユーナは気づいた。
意識すれば、自身のHPバーが拡大表示される。ほぼ完全な赤だ。しかも、じわりとHPは削られていく。
――死。
きらきらと降り注ぐ光の中で、口惜しさが重苦しくのしかかる。
その一瞬に、己の未熟さの数々が脳裏を過ぎった。
戻れない過去を思いながら、ゼロに近づく命を見守るしかなかった。
何か、やわらかいものが剥き出しの手を掠めた。それが、唸る。
「どきなさい、従魔! あなたのご主人様を助けるのよ!」
神官の声が、ユーナに希望を与えてくれた。
彼女なら。
「アル……」
微かに、ほんの微かに声が出た。それだけで、彼はわかってくれた。
森狼は唸るのをやめ、僅かに身を離す。
人影が自身に重なる。
胸元に手が置かれ、掲げられた法杖が、煌いた。
「命の神よ、わが手に宿れ癒しの奇跡!!!!!」
神の名を冠し、全力で唱えられた神術は法杖を媒介にして発動した。
歪んでいた法杖が、無残に砕け散り光と化す。術者である神官の体を中心に光は渦巻き、癒しの神術陣を描き出した。
アシュアの手により、ユーナと重なったそれが収束していく。
目の前には、歯を食いしばった神官の姿があった。蒼い眼差しはまっすぐユーナを射抜く。だが、彼女が見つめている先はユーナでありながら、その奥にあった。
消えかけた命の輝きを呼び戻すための、神術。
彼女の決意に目元が熱くなる。零れ落ちる。
――ああ、わたしは……
赤から橙へ、橙から黄へ、黄から薄い緑へ。
見る見るうちにHPバーが回復していく。
痛みが薄れて、遠くへ消えていく。
吐息が漏れた。
身体が、動く。
やさしい神官の手が、ユーナの前髪を払った。
「……私の目の前で死ぬなんて、許さないわよ」
口元をほころばせた彼女と目が合う。
ユーナの閉じた眦から、また、雫が流れた。
途端、ユーナの周囲に闇が下りた。
無造作に外套が降ってきたのだ。
「着ろ」
頭ごと覆った黒い外套を持ち上げ、その隙間から胸元を見ると、酷いありさまだった。
穴開きだらけでボロボロになった術衣の隙間から、赤黒い肌が見える。傷痕だろう。血は止まっている。ユーナはあわてて外套を胸に抱きしめた。
――背中も何だか地面を感じているし、風通しがいい気が……。
ユーナは腕を地につき、身を起こした。アシュアが軽く手で支えてくれる。
疲労度は黄色のままで回復しそうにないし、体も相当怠い気がするが、生きている。
自分の姿を見直して、それから神官に向き直った。
「助かりました、アシュアさん。ありがとうございます。……杖、本当にごめんなさい」
「ふふ、間に合ってよかったわー。ま、命には代えられないでしょ」
両手を広げ、彼女は軽く返してくれる。ユーナは首を振った。
「新しい杖、弁償しますから」
「いいのよ、気にしなくて」
「でも」
ことばを交わしていると、森狼が、吠えた。
その声に目を向ける。
やや離れたところから、駆け寄るPTMの姿が見えた。いつの間にか他の旅行者に取り囲まれていたようで、姿が見えていなかったのだ。
「オマエ、何もかもムチャクチャすぎるぞ!」
「姫、すっごく心配してたんだよ。ほら、ユーナも生きてたし、せっかくMVP取れたんだから喜びましょうよ」
フィニア・フィニスの怒鳴り声と、セルウスのことばに、ユーナは息を呑んだ。
――MVP!?
Most Valuable Player――最優秀選手を示す略語である。幻界では、レイドモンスターを初討伐する際、最も貢献度の高い者に与えられるという。それは栄誉と、特別な戦利品だ。もっとも、貢献度の高い者の上位数名にも、それよりは格が落ちるが希少な戦利品が与えられる。レイド参加者にも、等しく戦利品が全員に提供されるという大盤振る舞いだ。初討伐が終わってしまっても、次回討伐以降にもMVPには希少な戦利品が与えられる上、レイド参加者にも初戦よりはやや格が落ちるが戦利品は出る。レイドモンスターの場合、戦利品を地面に落とすと争奪戦にしかならないので、報酬は直接、道具袋に入れられるのだ。
そして、先ほどの光景とつながった。光の柱は、フィニア・フィニスに立ったのだ、と。
鼻を鳴らしながら怒っているフィニア・フィニスは、ユーナの隣に腰を落とす神官を見て表情を変え、すぐに頭を下げた。
「ありがとう。あなたのおかげでメンバーが助かった」
「あら、ユーナちゃんのお友達なのね。MVPのPTなんて、やるじゃない!」
ぽんと軽く背中を叩かれただけでも、本気で息が詰まった。何だか体の感覚がおかしい。死にかけていたのだから、当然だが。
ユーナの様子を見て、アシュアは道具袋を漁り始める。あわてて彼女は首を振り、自分の道具袋から使おうと思っていた回復薬を出した。併用可能な、高級品である。一口で飲み干すと、喉も潤い、HPも疲労度も少し回復した。
「重傷なのを無理やり回復した分、ペナルティ的に不自由が多少あると思うわ。時間が経過すれば完治するから、せめて今日一日は安静にしてね」
アシュアのことばに頷く。
すると、フィニア・フィニスが彼女へ何かを差し出した。
両手でなければ持てないほどで、ユーナが知っているものと大きさは全く違うが、そのモノには見覚えがある。
ユーナは沈黙のまま差し出された宝珠を見入った。今は片翼となった従魔の印章が刻まれた、宝珠だった。
「命の対価なら、これくらいは要るよな」
「姫ぇぇぇ!?」
「ボクがリーダーだ」
MVPの特別な戦利品。
フィニア・フィニスが躊躇いなく差し出した対価を見て、ユーナは絶句した。
フィニア・フィニスにも見えていたのだ。
アシュアの法杖が砕け散る、瞬間が。




