恐怖
熊なんて、動物園で見たことくらい、誰にだってあるだろう。
だが、寝そべっていたり、のそのそ歩いていたり……その姿には愛嬌しか感じないものだ。その眼差しにいちいち敵意の有無を読み取ることはしないし、分厚く頑丈なガラスや檻に囲われている熊に恐怖を感じるものなど、せいぜい乳幼児くらいである。
今、目の前にいる名前付きの熊は、違う。
動物園にいる熊よりも余程大きい体躯と、旅行者に見せつけられている膂力は、明らかに魔獣そのものだった。
ユーナは、悟っていた。
剣先が震えていたり、弓を引けずにいたり、術式すら唱えられずにいる旅行者の心中にあるもの。
それは、魔獣に対する恐怖だけではなく、そもそもの戦闘経験の無さによる怯えだ。
エネロでは、例外的に別荘クエストでボス戦があった。だが、多くの旅行者はそれを回避したため、おそらく、アンテステリオンで初のボス戦を体験しているはずだ。しかし、それらはある程度、既に解明されているものばかり。どのように攻撃すればいいのか、回避すればいいのか、防御すればいいのか、行動パターンはネット上を漁ればいくらでも出てくる。どういった装備を準備すればいいのかも、多くアドバイスされているはずだ。
この名を持つ熊は、未だに討伐情報がない。対策以前に死に戻りの話しか聞いたことがなければ、殆ど初めて対峙するレイドモンスター同然だ。対策の立てられていない魔獣に、どのように対処していくのか。本来ならば盾職が前に立ち、回復支援職が盾職を護ることで時間を稼ぎ、中衛と後衛が交互に攻撃を繰り返し、有効打を確認していく手順が最も望ましい。
しかし、ただ立っているだけで、手も足も出せないでいる旅行者の多くは、圧倒的な力を……死を、目の当たりにしてしまったがために、己の手すらも封じられたような感覚に陥っているように見えた。
ユーナはショートスピアを構えた。
ヒットアンドアウェイ、それ以外の攻撃手段はない。こちらに背を向けた瞬間に攻撃に入り、素早く退く。タイミングは、次にフィニア・フィニスの矢が撃ち込まれ、意識がこちらから逸れた時。できれば、連続する攻撃の合間に打ち込みたい。
誰か、いないだろうか。
同じような呼吸で、戦闘に挑める……仲間が。
「疾風駆矢!」
「グァゥッ!」
フィニア・フィニスの矢が解き放たれ、先ほどの倍以上の速さで宙を裂く。また一本、熊の体に深々と刺さった。ヴェールは痛みに吠え、アルタクスの墜ちた森の奥から、フィニア・フィニスのほうへと頭を向ける。
完全に背を晒したタイミングで駆け寄り、ユーナはショートスピアを全体重を込めて熊へと突き立てた。ヴェールの振り返りざまの攻撃を予測し、ショートスピアはそのままに、手を放す。
が。
ユーナの切実な願いは、思いがけず叶えられた。
「――風の矢!」
「ヴァァァァァガァゥッ!」
セルウスの風魔術が、フィニア・フィニスの矢を更に体内へと押し込む。
肉を抉られる感覚に、名を持つ熊は吠え、その場でのたうち回った。既に、ユーナのことは意識から飛んでいる。すぐさま熊から距離を取り、彼女はショートソードの柄に手をかけ……すぐに手放す。仔狼のために回復薬を扱うなら、今は抜かないほうが良い。
「ありがとう」
取り急ぎ、PTチャットで感謝を伝えれば、セルウスの顔がこちらを向き、微かに盾が揺れた。
誇らしげなその表情に、ユーナも笑みを返す。
「マズイな……まだ、動かないのかよ」
やや呼吸も荒く、フィニア・フィニスが呟いた。
どちらかというと周りの旅行者は、戦闘に参加しているというよりも、遠目で状況を眺めている状態である。ざわめきは止まないが、どうにも手が出せずにいるようだ。
この隙を利用して、フィニア・フィニスもセルウスも、回復薬を口にしていた。かなり早いスピードで、HPバーが回復し始める。
「最初に突撃したかったひとたちは、聖騎士に近いところにいるのかもしれませんよ。かなり列は長くなっていたので、戻るのにもまだ時間がかかるでしょう」
「だよなあ。ちょっと……キツいな!」
全力で暴れたために、熊に突き立っていたショートスピアの柄が折れて飛んでいく。
動きの邪魔になるものが減ったからか、ヴェールは痛みを堪え、四つ足で起き上がる。途端、フィニア・フィニスの矢がまた一本、その身を抉った。痛みは感じているようだが、まだまだHPを大幅に削っているようには見えない。この、動きが取れないタイミングが最大の追撃チャンスなのだが、後ろの旅行者は手出しをしてこなかった。
森から、影が走った。
仔狼である。
なんと、仔狼のHPは全快ではないが、いつのまにか緑に戻っていた。それに首を傾げる暇もなく、彼は体当たりで熊の体勢を崩す。そしてその勢いのまま、ユーナの足元へと帰ってきた。
慌てて道具袋から回復薬を出し、全身に振りまく。瞬く間に仔狼のHPは全快表示になった。ユーナがステータスバーを見て安堵していると、仔狼はヴェールを睨みつけ、唸り始めた。
先ほどまで、フィニア・フィニスに意識を向けていた名を持つ熊が、仔狼へと狙いを定め、その漆黒の目に狂気の炎を宿す。ユーナはショートソードを抜き放った。
その時、ざわめきを切り裂くように、確かな馬蹄の音がユーナの耳に届いた。
「待たせたな、勇敢なる友よ! 聖騎士マリス、参る!」
拡声器を使い、大音量で聖騎士は登場を叫ぶ。しかし、まだその姿は遠い。遠巻きにしている旅行者が、行く手を阻んでいるのだ。
そして、ヴェールは、ユーナが他に意識を向けた隙を見逃さなかった。
三度、熊と仔狼が交錯する。
仔狼は体に爪を受け、地面に叩きつけられながらも身を起こした。その視線の先は、ただ一人の主に向けられている。
叩きつけた腕側の背がガラ空きになっていた。
ユーナはとっさに駆け寄り、ショートソードを振り上げた。
《システムが異常を検知しました。
カウントダウン後、強制ログアウトいたします。
カウントダウン開始、十・九・八……》
瞬時に、視界に靄がかかる。浮かび上がった文字と、耳を打った音声が、彼女を混乱させた。振り上げた腕を下ろす前に、熊の腕が元の形に戻る動きで彼女の体を打ち払い、木の根元へとその身を叩きつける。ヒュッ、と口から呼吸が漏れた。
熊は、四つ足のまま、ユーナに向かって駆ける。
《五・四……》
その顎が、彼女の頭部へとかかる直前、仔狼は再度体当たりでヴェールの体勢を崩した。
「アルタクス……っ」
《二・一・零。強制ログアウトいたします》
そして、ユーナの姿は掻き消すようにその場から消え失せ、その心は現実世界へと還された。




