従魔の印章
すばやく契約書がグラースの手で回収され、アニマリートの手元に、彼女のてのひらよりよほど大きい水晶が残される。例の、記録水晶だ。早速登録しなければならないらしい。ユーナが差し出されたそれに手を置くと一瞬だけ、水晶の中が渦巻くように揺れて凪いだ。これで完了だそうだ。
水晶も回収され、次は宝珠が残された。薄い黄色の宝珠は水晶よりは小さく、手に載るほどのサイズである。中に、何かの記号が見える。
「こっちは、君に覚悟を訊かなくちゃね」
立ち上がり、アニマリートは宝珠を手に仔狼の前へと進む。アルタクスは後ずさることもなく、腰を落としたまま、静かに彼女を見上げていた。アニマリートはアルタクスの目線に近づくべく、膝を落とす。そして、宝珠を仔狼へと見せた。
「従魔の印章は、テイマーズギルドの子飼いである証。主を選ぶことはできても、主が選んだことから逃れられないのが従魔の運命……それは、自由から遠ざかる道でしかない。それでも、君はこの軛を願うの? 主が望む以上、一生従魔の印章は君につきまとうことになるよ。それでもいいの?」
問いかけのことばはひどく厳しいものなのに、口調はとても柔らかく聞こえた。まだ、選べるよと確認する行為に思えた。
彼女の問いに対し、仔狼は立ち上がる。
従魔の印章の重さを、ギルドマスターであるアニマリートは確かにわかっている。
ユーナはそれを感じ取り、己が如何に考えず、アルタクスへそれを強いようとしていたのかを知り、唇を噛んだ。
仔狼は、一切、ユーナのほうは見なかった。迷いなどないと、彼女に示すかのように。
ただ、彼は前に進み……その黒々とした鼻先を、宝珠へと一瞬、くっつける。
途端、アニマリートの目が緩み、滂沱の涙が流れる。ぼたぼたと床に滴るほどで、こちらのほうが驚いて、仔狼もさすがに怯む。その隙を見逃さず、アニマリートは両手を広げて仔狼を捕らえた。さりげなく前足を完全に封じ、首と肩で仔狼の頭を封じ、全力で抱きしめている。
「ぅがぅっ!」
「君、ほんっとイイ子だね~~~~~っ」
あー……いいなぁ……。
ユーナはその様子を見て、同じように抱きしめてみたいと思った。否、できれば仔狼の了承の下に、ぎゅーっとしてみたい。さすがにすぐは無理だろうから、最初はなでなででもいい。
前途多難な道のりを感じる。
あれ、宝珠、ポイされてる……。
ころころと転がっていく宝珠を、グラースが拾い上げた。そして、頬に手をあて、深く溜息をつく。
「すみません、いつものことなのでお許しを」
「問答無用につければいいものを……」
イグニスも合わせて溜息をついていた。
が。
抱きしめるだけではなく頬ずりまで始めているのを見て、舌打ちする。
完全に悦に入っているアニマリートの隣へ進み、グラースは宝珠を差し出した。
「ギルドマスター、お仕事を」
「はぅぅぅぅ……カワイイ♪」
「アニマリート様」
グラースの声音が極寒の冬を招いた。
一瞬だったが、物理的に空気が凍てついた気がする。
吐いた息が白く見えて、ユーナは再度息をつく。白くならなかった。あれ、気のせい?
アニマリートはグラースの迫力にすごすごと仔狼から身を離し、宝珠を受け取っていた。
キリッと顔つきが変わる。
宝珠を仔狼へと向け、彼女は言い放つ。
「なれば、この証を受けよ、従魔! 従魔刻印!!」
宝珠が砕け散り、内に秘めた刻印陣を中空に描く。アルファベットのVに似た、翼のようにも見える紋章が広がる。舞い降りた刻印陣が仔狼の全身を包むと、集約し、頭の上で弾けた。
アルタクスの名の前に、黄色の紋章が輝く。
「……これで、テイマーズギルドがこの狼の後ろ盾になれるから、何かあったら遠慮なく言ってね?」
ゆっくりと手を下ろしたアニマリートのその声は、ひどく寂しげにユーナの中で響いていた。
名を与えられ、在る場所すら選べず、印を刻まれ、それでも仔狼は彼女に向き直る。
従魔使いとして、どのように彼の隣に立てばいいのか。
ユーナは、白い靄の中を歩いているような、そんな不確かさを抱えて仔狼を見返した。
「命の神の祝福を受けし、旅の者よ」
低い、火の名を持つ男性が、ユーナを呼ぶ。
そのことばは、まさに道しるべのひとつだった。
「そなたと異なり、従魔は一度きりの命しか持たぬ。それは幻界の理だ。そして、従魔は命を賭してそなたを護り、援けるだろう……心せよ。この世界に生を受けし者は、本来、一つ限りの命を精一杯生きているのだ。そなたらのものさしで測ることはできぬ」
ゲームの中なんだから、簡単にリトライできるよね?
死んじゃっても、すぐに蘇生魔法で生き返るんでしょう?
お迎えは、同じ神殿でいいのかな?
安易に考えていた。
この世界の住人だからこそ、旅行者に忠告できる内容だった。
急に、左側に表示されているステータスバーが気になり始める。今は緑色で、まさにオールグリーン。これが、仔狼の命、そのものなのだ。
左側に視線を向けたまま、黙ってしまったユーナの足元へ、仔狼が近づく。
その身が、ほんのわずかに、足元に触れた。
柔らかな毛並みの感触に、目を瞠る。
「従魔にとって、心を通わせる主のために死力を尽くすのは当然です。むしろ、己が生き延び、主を失うことになれば発狂するでしょう。ですから、あなたが気にするべきなのは、従魔の命ではありません。おわかりですね?」
グレースの淡々とした口調が、とてもやさしいものに聞こえた。
あたたかい。
わずかに触れた場所のぬくもりが、ひどくうれしかった。
頷くユーナに、仔狼は一声吠えた。
きっと、自分を叱ってるんだろうな、という気がする。
少しだけ、ほんの少しだけ。
ゆっくりとその場に身を屈める。
蒼の双眸が、ユーナを射抜くように見ている中。
そっと彼女は手を伸ばした。
指先が毛並みに届く。
まだ、吠えない。
てのひらが、毛並みを包む。
やさしく首筋を撫ぜると、僅かに仔狼は目を細めた。
ユーナの目尻から、いろいろな感情を混ぜた一粒が零れ落ち……僅かに緑の感じる毛皮の上で、弾けて消えていく。アルタクスは無言のまま、それを受け止めていた。




