幻の中でも、生きている
「イヤ」
考えることすら嫌な提案だった。
考えるまでもない答えだった。
提案した本人も壮絶に嫌なのだろう。皓星は心底辛そうに言葉を重ねた。
「わかる。わかるけど、結名に何かあったらって思ったら、みんな気が気じゃないんだよ。買ったばかりの幻界を取り上げられるほうがイヤだろう?」
「それもイヤだけど、キャラデリもイヤ」
「名前をちょっと変えるだけだよ。アイテムも装備もお金も預かるし、今と同じレベルになるまで付き合う。アシュアやシャンレンなら、オレだってフレだし、すぐにフレンドになれるから……」
「それでもイヤ!」
取り付く島もなく首を振り拒否する結名を、母は不思議そうに見た。
「結名がそんなに嫌がるの、ひさしぶりに見たかも」
「うちはしょっちゅうよ。皓星の部屋入ろうとしたらもう……」
伯母は遠い目をして、溜息をつく。
そして、頭を抱えて視線を逸らしたままの皓星を見た。
「皓星だって、同じこと言われたらイヤなんでしょう? 結名ちゃんに無理強いしてどうするの」
「少なくとも、その変な奴に幻界で会ってももうわからなくなるよ」
「その変な奴を避けるために、結名ちゃんが変わらなくちゃいけないの?」
「今ならまだ間に合う。結名は幻界を始めてそんなに経ってないんだから、レベルだって……」
「ダメだってば!」
レベルの問題じゃない。
違うのだ。
いろいろなひとと知り合った。フレンドリストにいる人たちだけではなく、それは、幻界のごく一部に過ぎない数々のNPCと幾度となく言葉を交わして、顔を覚えてもらった。所詮プログラムであることはわかっている。だから、なおさら。
「また最初から、はじめましてなんて、わたし、言えないよ……!」
脳裏に過ぎる出来事は、たった三日のことだとは思えない。
そして、同じ三日を過ごせるとも、思えなかった。
また零れてくる涙を拭う。
「……うん、わかった」
頷いたのは母だった。
「結名の好きにしなさい」
「叔母さん!?」
「うーん、皓君も恭隆さんも、心配なのはわかるんだけど……所詮ゲームじゃないの。結名が楽しめるなら、私はそれでいいの」
価値がわからない母なりの、娘に対する理解だった。
許されて、結名は安堵する。しかし、母は条件を続けた。
「でもね、結名……イヤになったら、やめなさい。
絶対に無理して続けないこと。ゲームなんだから、わかるわよね?」
「――はい」
やるべきことが終わってから、遊ぶ。
睡眠時間を削ってまで遊ばない。
今まで積み重ねてきた、結名の中のけじめに。
もう一つ、母との約束が加わった。
しっかりと頷いて応える結名。その母も少し安堵した様子だった。
ふたりの様子を見ていた皓星に、伯母が問いかける。
「皓星……結名ちゃんのために、もっと他の手段はないの?」
ぐしゃぐしゃと頭を掻き、皓星は結名を見る。未だに揺れているまなざしに、手を膝におき、溜息をついた。言い出したら聞かない従妹……頑固さは恐らく血だろう。
結名がユーナを消去するのであれば、それよりの最善はないと思っていた。
だが、彼女はそれを選ばない。選ばないのであれば、土屋の陰は消えない。
幻界にはまっているという土屋が、本当にPK未遂の連中と同一なのであれば、結名と話したい内容など一つしかない。
皓星は頷いた。
「――うん、ちょっと打てる手、打ってみる」
結名、部屋に行こう。
早速と言わんばかりに、彼は立ち上がって結名を促した。
PCを起動し、映し出したのは幻界の公式サイトだ。
皓星は結名に、自身のアカウントでサインインするように指示した。素直に結名は従う。一方、皓星は自分の携帯を操作している。
「できたけど……」
「通報フォームを開いて」
「通報!?」
「あ、違反者報告のフォームだった」
多くのMMOにおいて、他のプレイヤーの行為によって自身が迷惑を被った場合や、利用規約違反行為を見かけた場合には、迷惑行為・違反行為者ということで運営会社に報告し、調査を申請することが可能である。
皓星が指示したのは、その報告申請画面の表示だった。
何を通報する気なのかと怪訝そうにしながらも、結名はその該当するページを開く。
「じゃあ、ちょっと貸して」
キーボードを横取りし、皓星は片手で携帯電話の画面を見ながら、入力を開始する。
タイトルは……「ゲーム内で脅迫されそうです」!?
「こ、皓くん?」
「んー?」
素晴らしい速さでリズミカルに入力していく。
昨日、学校で「幻界をしているだろう」と同級生に尋ねられました。答えずにいると、話があると引きずられ、何とか助けを得て、軽傷で済みましたが、暴行事件に発展しました。警察へは暴行の被害届を提出している状況です。
相手は、私のキャラクターが私自身であると確信しているようです。今もなお、執拗に話がしたいと繰り返しています。幻界において思い当たる節は、先日PKを仕掛けられた際、PTで返り討ちにしたことくらいです。このままでは幻界でも追いかけてきそうなので、どのように対処すればよいか、教えていただけると助かります。
なお、加害者の名前は土屋大輝、PK未遂をした相手は複数いるので、全て列挙しておきます……
皓星は、自身に送られてきた幻界内のメール画面を見ながら、PK未遂PTの全キャラクター名とIDを打ち込んでいる。
「最初、一応ペルソナに聞いてみたんだけど、さすがに頭に血が上ってたのか、殺る相手に興味なかったんだか、PK未遂の連中の記録を取ってなくて……アシュアはああいうやつだし、セルヴァもオレも、PK仕掛ける奴は倒せばいいや的感覚だったから、全然覚えてなくて。で、念のためって訊いてみたら、シャンレンがメモっててさ」
何と、名前とIDだけではなく、見た目で判断した職業まで付随したメモである。
ボス部屋の扉の前で、と結名も思い至った。きっと、アシュアはシリウスたちに連絡を取り、シャンレンはあの連中について記録していたのだろう。
一通り打ち終わって、皓星はディスプレイの文字を叩いた。
グランド。
「『土』屋」を連想させる名前には、商人と書かれていた。
皓星は結名に向き直り、問いかける。
「結名は、ゲーム好きだってクラスでバレていいのか?」
「え?」
「休み時間にからかわれたって言ってただろう?」
もし、結名がどこかの掲示板で晒されるようなことがあれば、そして、それを結名自身が知ることになれば、書かれた内容が真実であろうとなかろうと、気持ちを乱されることになるだろう。今は落ち着いているが、いざ土屋の仕業だと予測がついてしまったり、ゲーム内で絡まれたりして、結名に極端な影響が出ることを皓星は恐れていた。だからこそ、ゲーム好きであることが晒される程度で本人が気にするのであれば、皓星は恨まれようともキャラクターを削除するつもりでいる。
公式サイトに結名自身がサインインしている今、それが可能だったからだ。
皓星が返事を待つ中、結名は首を傾げていた。
「うーん? あれはすっごくいじわるな言い方だったから、返事したくなかったんだけど……しかも、みんな発表のことに意識が向いてるのに、ゲームの話なんてし出すからびっくりしたんだよね。わたし、上手に発表できて、結構浮かれてたから余計かも。しかも話の途中から睨まれてたし」
その時はひたすらどうしようと思っていたけれど、救いがあった。
「小川くんがね、あ、クラスメイトなんだけど……からかってきた子、注意してくれて、幻界してるって言っててね。わたしもしてるんだよーって気軽に言えたら、一緒に遊べたのかもなんだけど、逆に釘刺されちゃった。現実とゲームでのことは、区別したほうがいいって。土屋のこと考えたら、確かにそうなんだよね……」
ひきずられた時も、小川くんが助けてくれたんだよ、と続ける。
そこで、ふと、結名は気づいた。
皓星の顔が怖い。
眼鏡のレンズが室内灯に反射し、目が見えない。口角が上がっているような気もするが、何だか……。
「そうかそうか。まあ、確かに友達がいたら楽しいよな。わかる。うん」
棒読みに聞こえる言葉が羅列される。
「じゃあ、気にしないんだな?」
「わたしがタイピング早いの、ゲームのおかげなんだよ? ……まあ、もう、自分から言いたいとは思わないけど。土屋いるし」
結名の返事に頷き、皓星はもう一度フォームに入力した文面を読むように言う。言われるがままに目を通す。それを待つあいだ、皓星はテキスト形式で文面を別途保存していた。
作業しながら、彼は説明した。
「この文面を送れば、運営が動き出す可能性がある。その方法として、ユーナの行動が追跡される可能性が一番高い」
脅迫行為が実在するかどうか、確認するためである。
だからこそ、ユーナ自身に何か違反行為があれば、すぐさま処罰を受ける可能性もあるという、この手段は諸刃の剣だった。それでもいいかという確認を取る。
もちろん、結名は頷いた。彼女の潔白は、彼女自身がよく知っている。
そして、結名というプレイヤーがどのような人間なのかを、皓星も知っていた。
ガチなゲーム好きだ。
いつだって、その場における最善を選び取る努力を怠らないプレイヤーだ。
隣り合って幾度となく戦い、勝利してきた。それを誇りに思うほどの相手である。
文面を確認し、迷いなく、彼女は送信ボタンをクリックした。




