感謝の気持ち
材料は喫茶店の仕入れに混ぜてもらうので安く済む、という話を聞き、そのまま拓海のことばに甘えることにした。精算もさくっと終わり、妙に現実でも商人っぽいと笑ってしまう。だいたい十人分という分担量にも驚いたが、これは失敗する可能性も含めていると言われれば、簡単に納得できた。ラッピング用品もある程度なら用意があるそうだが、そこまで甘えていられないため、購入してからお邪魔することにした。なお、お菓子作り教室会場は、小川家である。
「何で小川くん、お菓子作るの?」
ナチュラルに尋ねる柊子の疑問は、結名にも共通のものだった。バレンタイン前のこの時期に、と思えばより一層気になる。
拓海はその、ふたりのラッピングの買い物が終わったのを見計らい、商店街の出入り口まで迎えにきてくれたのである。二人分のラッピング用の荷物を預かり、彼は苦笑を漏らした。
「そうしておかないと、身が持たないんですよ」
自慢じゃないんですが、と先に断りを入れ、拓海は語った。バレンタイン・デーともなると、やはり、毎年そこそこの贈り物をもらうらしい。ただ、ホワイト・デーに返したくても、都合がつかなかったり、手渡しが難しい相手だったりといろいろ気を遣うそうだ。よって、中学生のころから学習し、渡された瞬間にお返しをするようになったという。
「そんなにたくさんのお菓子、学校に持っていって何も言われなかった?」
「自分が食べる分じゃないからね」
さすがに中学生のころは、堂々と学校でお菓子を食べていたら注意される。しかし、受け渡しをするだけ、という条件付きならば、先生方もお目こぼしをしてくれたそうだ。
「たくさんの、っていうとこは否定しないのね」
「おれだって、多少の量でしたらちゃんとホワイト・デーに返しますよ。あと、お返しをすぐに渡すって言っておくと、ちゃんと手渡しでくれる子、多いんですよね」
以前は机やロッカーの中だけではなく、靴箱があったため、かなり悲劇的なことになっていたそうだ。自分の上靴が出されてチョコレートが詰め込まれていたという話を聞き、そのまま想像した結名は、思いっきり顔をしかめた。
「やだぁ……」
「うん、だから自衛っていうか」
「そこまでされるともう嫌がらせのレベルに感じるんだけど」
「いっそ嫌がらせならよかったんですが、プレゼントなので、いただいたままというわけにもいかず……ですね」
救いようのない話である。
「お邪魔しますー」
「どうぞどうぞ」
よく考えてみると、皓星以外の男子の家に招かれたのは、初めてかもしれない。
結名はマンションといえどもかなり雰囲気の違う小川家の玄関をくぐった。どちらかというと片桐家はシンプルに飾りを配しているのに対して、小川家はさまざまなミニチュアが所狭しと並んでいる。あたたかみのあるインテリアに、自然と結名の表情が和らいだ。
いつも拓海が夕食を整えるというアイランドキッチンは、とても整っていた。ここはモデルルームかと思うほどである。よく考えてみれば、喫茶店でもそれくらいの片づけっぷりだった。アルバイトの経験が生かされているのか、それとも母の指導の賜物なのかと感心する。
後ろの引き戸を動かすと、業務用にも使われるオーブンとオーブンレンジがあった。たった一枚の引き戸がその生活感を覆い隠している。
「火力もあるし、同時に焼けるから」
パントリ―から取り出されたチョコレートや小麦粉などを並べつつ、拓海は用意してあったエプロンをふたりに勧めた。ありがたく借りることにして、身につける。拓海の母のものだろうか。フリルがついていてかわいい。
作るお菓子はチョコレートブラウニーだという。数枚焼いて適度に切り分けてラッピングすれば、数も足りるだろうということだった。
「少し失敗しても、わかりにくいんですよね」
というのは拓海談である。
冷蔵庫から卵が出てきた時、自信たっぷりに結名は自分の胸を叩く。
「卵なら任せて下さい!」
「あ、うん……そうだね」
「結名ちゃんの腕前、見せてもらわなくちゃね」
つい先日、卵尽くしを味わったふたりである。信用されたようで、結名はうれしそうに微笑んだ。
「えーっと、すりきり一杯、ですからね」
「ちょっとくらい甘くったっていいんじゃない? どうせチョコだし」
「姐さん、お菓子作りは計量が命なんですよ……」
ざっくりあばうとな柊子の手元を、拓海は何とか制御すべく努力する。
そんな計量の仕方から始まり、柊子がチョコレートを湯せんにかけているあいだに、結名は卵と向き合う。
「何だかこの卵、小さいね」
「一応、二Lサイズなんですけど……」
片手にすっぽり収まる卵に、結名は首を傾げる。喫茶店からの横流し品は質も大きさも申し分ない品なのだが、世界が違う上に王都有数の食堂に卸される卵とを、彼女は平気で比べていた。
偉大なるマールテイトの指導のおかげで、二つほど卵をダメにするだけで結名はごく普通に割ることができるようになっていた。やはり、力の入れすぎと、卵の殻の硬さに対する誤解が失敗を招いたようだ。たった二つで済んだあたり、大したものである。
そのさなかにもオーブンをあたため、材料を混ぜていく。くるみは多めにすると美味しい。
スクエア型に入れたあと、なるべく均一に厚さを揃える。
拓海から細かい指示を受けつつ、結名と柊子はお菓子作りに励んだ。
ふと、気付く。
拓海は本などは一切、見ていない。
「小川くん、覚えてるんだね」
「簡単だからね」
少しも簡単に思えないのだが、日常的に家事をしているためか、拓海とは感覚が違うようだ。
「おかげさまで、初めて現実でお菓子作り、成功しそう」
結名がうれしそうに言えば、拓海は苦笑を漏らした。
「光栄、って言っていいのかなあ」
複雑そうな声音に、柊子はふふっと笑う。
「ロシアン・チョコブラウニーにならないみたいだから、誇っていいんじゃない?」
「何ですか、それ」
「と、柊子さん!?」
結名の人差し指が唇に触れ、しぃーっと秘密にとねだる。柊子はそれ以上口にせず、オーブンとオーブンレンジに入れられた生地を見つめた。
「美味しそうね」
「昨日焼いたのがありますよ」
そして、アイランドキッチンのとなりのダイニングテーブルに拓海の淹れたカフェオレと、試食にと拓海お手製チョコレートブラウニーが並ぶ。
その美味しさに唸りながら、結名は詩織にこの状況を何と説明しようかと真面目に悩んでいだ。
「おふたりは、どなたに差し上げるんですか?」
「結名ちゃんは決まってるわよね~」
意味深に言う柊子に、結名は溜息交じりで答えた。
「お父さんと、伯父さんと、皓くんくらいですよ。あとはお母さんと伯母さんとは、家で食べようかなって。あ、詩織ちゃんにはあげてもいいかなあ?」
「え、あ、うん。何で訊くの?」
「小川くんに教わって作ったんだし」
「いや、その下りいらないよね!?」
どうやら師匠のことはナイショらしい。
唇を尖らせてみたものの、全部食べて証拠隠滅しちゃうよと言われると、それも困る。心苦しいが、ここは我慢するしかなさそうだった。
アラームが鳴る。
オーブンを開けると、ダイニングにチョコレートの匂いが広がった。
焼き上がったチョコレートブラウニーの粗熱を取るあいだ、その甘い匂いにむせかえりそうになった。湯せんのチョコレートよりもよほど強烈である。
別の生地の入ったスクエア型と入れ替え、更に焼き続ける。
ケーキクーラーの上に型から外したチョコレートブラウニーを載せ、ラップをかけていく。
「粗熱が取れたら、ちょっとだけ冷凍庫に入れるんです。そのあと包丁をあたためてから切り分けると、崩れにくいんですよ」
「小川くんは何人分作るの?」
「――」
「ごめん、聞かなかったことにして」
柊子の他愛ない問いかけが、いたいけな男子高校生を傷つけたことは明白だった。即座に彼女は謝罪するが、沈痛な表情で拓海は柊子を見る。次いで、結名に視線を向けた。
何となく、縋るように見えるのは気のせいだろうか。
結名は救いの手を差し伸べるつもりで口を開いた。
「と、柊子さんは古賀さんにあげるんですか?」
「はあ?」
「あ、チョコ……」
「え、何でまーくんにあげなくちゃいけないの?」
心底不思議そうに問い返され、結名のほうが困惑する。
途端、拓海は弾かれたように顔を背けた。全身が震えている。笑いを堪えているようだ。
「ふっ……くっ、すみません……っ」
「いいけど……リアルで会う予定もないのよね、別に」
憮然として呟く柊子に、結名は首を傾げた。
「呼べば飛んでくるんじゃないんですか?」
「職場でいっぱいもらうでしょ。独身結婚適齢期男性公務員彼女ナシなんて、絶好の物件じゃない。日和が渡すかどうかはともかくとして、ソルちゃんは間違いなく渡すと思うけど。せっかく上手に作れたから、どうしても欲しいんなら、あげてもいいかなぁ……」
「えっと、じゃあ、森沢さん……とか、ラスティンさんとかですか?」
「颯くんにはあげてもいいかもしれないわねー。ちゃんと喜んでくれそうだし。ちなみに、ラスティンはリアルで会ったことないわよ。
まあ、心配しなくても、ちゃあんと渡す相手はいるから、ね?」
思い当たる節を結名なりに並べてみたものの、芳しい返事はなかった。むしろ、柊子が付け加えたことばに、拓海が反応する。
「……いるんですか?」
「んふふ、気になるー?」
目を瞠って驚いたように問う拓海を、揶揄うように柊子は訊き返した。結名は即座に大きく頷いた。
「気になりますっ!」
「とりあえず、結名ちゃんとー」
「えっ」
あっさりと切り返され、頬を染める結名に、柊子は微笑みを深めた。そして、唇に人差し指を乗せて、告げる。
「残りはね、ナイショ」
「本当に、あなたってひとは……」
ハァーッと深々と拓海が溜息を吐く。
結名は逆に両手で拳を作り、断言した。
「わたしもっ、柊子さんにプレゼントします!」
「ありがとー♪」
その時、オーブンレンジ側のアラームも鳴った。
ケーキクーラーのチョコレートブラウニーをラップでもう一度包み直し、今度は冷凍庫に入れる。次いで、オーブンレンジから取り出した品をまたケーキクーラーに乗せ、ラップに包んだ。最後のスクエア型が、オーブンレンジに収められる。
そして、冷凍庫で冷やしている間に、今度は調理器具や調理台を片づけていく。片づけが終わったころには、ちょうど冷凍庫のチョコレートブラウニーが切り分け時になっていた。お湯であたためた包丁で切り分けると、くるみの断面までもが美しい。恐れていた崩れもなく、なかなか見た目はよかった。切れ端をつまみ食いしたが、味も良い。
それを一本ずつ、ハートや英字の模様の入ったワックスペーパーに包んでいく。
「結名ちゃん、できた?」
「はい!」
柊子の手元には白のリボンで包まれた濃紺の小箱が、結名の手にはピンクの箱に赤いリボンの掛けられた箱が揃った。
ふたりは立ち上がり、オーブンの中身を確認している拓海の後ろに立つ。
「……え?」
そして、揃って箱を差し出した。
「はい、ハッピーバレンタイン!」
「もらってくれる? いちばん最初にできたのは、小川くんにって決めてたの。柊子さんと」
「ね」
互いに顔を見合わせて頷き合う。
拓海はあわててエプロンを外し、一個ずつ、きちんと受け取った。やや頬を赤くして、彼は改めて礼を口にする。
「――えっと、ありがとうございます。その、おふたりへのお返しは、ホワイト・デーってことで!」
「え? 小川くんが作ったの、くれないの?」
「今さっき、食べたよね? さすがに同じものをというわけにはいかないよ。お土産にほしいならあげるけど」
「う、でもほら、一応自分でも作ったし……」
すぐにお返し、の中には入らないようだ。
あのしっとりしたチョコレートブラウニーの美味しさに心は惹かれるが、厚かましすぎる。少し残念に思った結名だったが、となりに立つ柊子は違ったらしい。
「い、いらないからね!?」
「そんなこと言わないで下さいよ……」
「いやもう、材料の調達から場所まで借りてるのに、この上お返しとかありえないしっ」
「そこはまあ、ご遠慮なく」
その時、階下の玄関のチャイムが鳴った。
拓海はひとこと断りを入れて、その場を離れていく。
「かえって悪いことしちゃいました?」
「うーん、高校生なんだから無理させたくないんだけどね」
肩を落とす柊子に、結名もまた気が引けてきた。
少し離れたところで、インターフォン用の子機を握り、拓海が声を上げる。
「藤峰さん、お迎え来たよー」
「え?」
「皓星さん。ひょっとして、全部しゃべっちゃった?」
「お母さんには話したから……」
「うわ、それって筒抜け? 急がないと」
すぐに到着するであろう皓星を思ってか、柊子も残りを包み始める。そして、次のアラームが早々と鳴り響き、切り分けとラッピングはより一層忙しさを増したのだった。




