バレンタイン・デーってどう過ごしますか?
「柊子さんは、バレンタインってどうするんですか?」
「うぇふっ!」
「だ、だいじょうぶですか!?」
学校帰りに寄り道、というのはとても魅力的だ。
中学時代には塾や習い事以外では厳禁とされていたそれも、高校に入った途端、解禁である。公立高校や他の私学に進んだ子は「放課後の寄り道? 一応禁止」という話なので、大っぴらに「帰り道は気をつけて帰りましょう」くらいしか注意のない皇海学園のほうがめずらしいのかもしれない。
結名もまた、後期試験から解放されたという柊子に誘われて、ここ、拓海のバイト先たる喫茶店へと足を運んでいた。なお、当の結名のクラスメイトは愛想よくカウンターやホールを巡り、注文を取ったり、料理や飲み物を運んだりと忙しなく働いている。先ほどはふたりの前にホットのカフェオレと特製パンケーキを並べてくれたのだが、やはり混雑のため、ことばを交わせたのはその時だけで、彼もまた「ゆっくりしていってね」と言い置いたくらいだった。
柊子はハンカチで口元を拭い、改めて水を傾けた。小さく息を吐く様子は、だいぶ楽そうに見える。少し照れたように目を細め、乾いた笑いを浮かべた。
「ふぅ……ん、ごめんね。もうだいじょうぶ。バレンタインねえ……」
その視線が店内へと、具体的にはカウンター周辺へと向く。
頬を染めたうら若き女性が、白シャツに黒ズボン、黒エプロンを身に纏うマスターへと話しかけていた。コーヒーを淹れながら愛想よく応対する様子は、どこか拓海にも似ていた。否、逆だろう。幼少時からこの店に入り浸っていたという彼の話からすると、マスターを見て、拓海があの営業スマイルを身に着けたというほうが正しい。
結名はふと気づいた。店内の混雑具合の、その理由に。
柊子もどこか懐かしそうに笑みを佩く。
「昔はよくもらったわね」
「え、友チョコですか?」
「ああ、うん、そんな感じ?」
微妙にことばを濁す柊子に、結名はなるほどと頷いた。
「結名ちゃんはどうするの? 今年は平日だけど……って、関係ないか」
「うちはいつも母や伯母と買いに行くんです。父のと、伯父さんのと、皓くんのと……あと、おやつに食べる分」
途端、柊子の微笑みがにんまりに変わった。
「へえ、いいわね。確かに、特設会場とか歩いてても誰かにあげちゃうより自分で食べてみたくなるし」
「あ、柊子さん、買いに行っちゃいました?」
「ああ、だいぶ前の話ね。今年はまだよ。いつもこの時期ってテストで疲れてて……実家にも帰らないし。せいぜい裁判傍聴しにいくあたりでゼミの教授に渡すくらいなの」
なお、その教授は五十代の既婚者だそうだ。時期が時期なので、同伴する女子学生全員が持っていくと打ち合わせるので、柊子もまた空気を読むらしい。どうせなら集金してまとめて渡してほしいものだが、そこはそれ、個別にしなければ戻りがないとか。
例年のバレンタインの様子が自分よりも干からびているという話を露骨に聞き、結名は少し迷った。
「えっと」
「でも意外。結名ちゃん、作るほうかなって思ってたわ。ほら、調理スキル取ってたし」
カフェオレのカップを手に指摘され、結名も何となく惹かれるようにカフェオレを口にした。甘くて美味しい。
黒歴史ではあったが、今は何となく軽く話せるような気がした。
「小学生のころ、家で作ってみたことあるんですけど……ガトーショコラに卵の殻入っちゃって、ロシアン・ガトーショコラになっちゃったんですよ。材料とかはみんな計ってもらって、あとは混ぜて焼くだけだったのに、味はいいけどガリッって……あれ以来作っていません……」
「ロシアン・ガトーショコラ……」
恐ろしい話を聞いてしまった、と言わんばかりに柊子はその恐怖の単語を繰り返すと、カフェオレをもう一口傾ける。誤魔化すように笑って、結名はスフレパンケーキにナイフを入れた。ふわふわのスフレパンケーキは、ここに初めて来た時からほぼ毎回食べている。今日のはマスターが焼いてくれたようで、やはりふわふわ感がすごい。拓海のよりも、ふわふわ感にプラス、オーブンで焼いた縁のカリッと感があり、これはこれでまた絶妙な食感だった。
「幻界でもあるみたいですよ。聖誕節のミロの実みたいな感じで」
「割とこのテのイベント、幻界も押さえてくるわよね。リアルに合わせるためだから、あっちだとだいたい一ヶ月もあるけど」
幻界ではそのまま『恋人たちの季節』という。以前、聖誕節の折にユーナは、収穫祭と聖誕節、そして新年の祝祭という流れを意識していた。しかし、マールテイトから聞いた話によると、「村ならそういうやつもいるかもしれんが、街でそこまで早く進むわけがないだろ!」とのことだった。いろいろと身分があってややこしいらしい。
秋の収穫祭に出逢い、聖誕節を共に過ごす。このあたりで互いの意思を確認する下りになるそうだ。だが、結婚の申し込みよりも先に、新年の祝祭で互いの両親に会わせるという手順が実は入るらしい。そして、恋人たちの季節で最愛のひとに感謝を捧げ、春の寿節で結婚式を行なう。
それでも半年のスピード婚だよね、とユーナはこっそり思ったのだった。
その恋人たちの季節において食されるのが、ハート型の果物……名を、コールディスという。マールテイトが持ってきてくれたものは、見た目は苺、味は梨だった。
昨今の王都では最愛のひとだけではなく、お世話になった相手にもコールディスを贈ることもあるらしい。義理チョコならぬ義理コールディスである。
「マールさんから話だけは聞いたんですけど、まだデザートの作り方は教わってないので、今度作ってみようかなって」
「いいわね。楽しそう」
「え、バレンタイン、何か作るんですか?」
妙なタイミングで話を聞いたのか、拓海が食器を引き上げながら立ち止まる。
「幻界の話よ」
「ああ、そういえばマールテイトがコールディスをたくさん仕入れておくって言ってましたね」
柊子が答えると、納得したように頷く。特にバレンタインは優雅に過ごせそうな彼に、結名は唇を尖らせた。
「小川くんはたくさんもらえるからいいよね」
心底うらやましい話である。拓海ならば持ち帰れないほどのチョコレートを手渡されるのではと思ったわけだが、すると、拓海はそのまま表情をすとんと取り落とした。
どうしたのだろう、と首を傾げると、柊子はコホンと咳払いをした。
「結名ちゃん、小川くんがたくさんチョコレートもらうのって、イヤ?」
「? いいえ? うらやましいです、けど」
拓海がたくさんチョコをもらうのは、モテるからだ。その事実はイヤでも何でもない。それに伴って、たくさんのスイーツをプレゼントされることがうらやましいと思うだけで。
素直に答えた途端、拓海は複雑そうに苦笑を洩らした。
「ですって。分けてあげたら?」
「え、えーっと、さすがに分けるのは失礼なので、アレですけど……よかったら、週末にお菓子作りするので、ご一緒しませんか?」
後半部分は声を潜め、ふたりだけに聞こえるように身を寄せてそっと囁かれた。結名は慌てて問い返す。
「え、って、それって!?」
「しー」
空いた手のほうで唇を押さえ、次いで拓海はレジのほうを見る。ちょうど客が支払いのために移動を始めたところだった。
「詳しくはまたあとで。連絡します」
そう断りを入れて、拓海は一旦食器をカウンターの裏側へと置きに急ぎ、レジへと向かって行った。
結名は、柊子と顔を見合わせた。
「……柊子さん、週末って暇ですよね?」
「えっと、幻界に……」
「暇ですよねっ!?」
「――ハイ……」
つい先ほど「よーやくテストが終わったわー、私春休みー♪」といううらやまけしからん話を聞かされたばかりである。裁判傍聴も平日にしかない。
結名は両手で拳を作り、力をこめた。
「わたし、これでロシアン・ガトーショコラの悪夢から抜け出せるような気がするんです……!」
「あ、うん、たぶんそれはだいじょうぶだと思うけど」
「柊子さん、ご協力お願いします!」
「う……うん……」
結名の伸ばした手が、柊子のカップを握る手と重ねられる。
ここに、「手作りしよう! 渡す相手は決まってないけど!」というスタートラインがどこかおかしいバレンタインイベントが発動したのである。




