信頼
人間は、眠らなければ死んでしまう。
幻界でもまた同じく、一定以上の睡眠を取らなければならなかった。ログアウトのための睡眠と、休息のための睡眠では本来意味合いが異なるが、宿代の支払いは共通していて、ログアウトしている間の分は取られず、一泊分とカウントされているようだった。睡眠を取らなければ、疲労度やMPが回復しなくなるだけではなく、やがてHPまで削られていくという説明を聞いて怖くなったのを覚えている。
夜には行動にかなりの制限がかかるため、ユーナは素直に睡眠を取ることにした。結構埃っぽい気がするが、そもそもこの宿にお風呂なんて存在しないらしい。桶一杯のお湯なら小銅貨一枚と言われ、こんなところは中世っぽくなくていいのにと内心ぼやく。布もあったので、桶一杯のお湯で軽く体を拭い、さっぱりしたところで横になった。確かに、体は疲れていたようで、ほんの少しと目を閉じたら、もう朝だった。
昨夜の話通り、朝いちばんにシャンレンは宿を発ったようだった。クラベルから、お連れさんからの奢りだよ、と出てきた朝食セットに驚いてしまう。
「またお会いしましょう、だってさ。いい男だねえ。商人なら甲斐性もありそうだし、お買い得だよ」
何を売り込んでいるのだろう。クラベルのことばに朝から顔を赤らめる羽目になりながら、ユーナは左手を見る。もうそこに、傷はない。SSやメールではないやりとりができるのも新鮮で、朝から楽しい気分になった。
そうそう、とクラベルは続けた。
「今朝、門のほうから注意が来てね。森から魔獣が出てきたらしくて、旅の人が街道のほうで見かけたっていう話だよ。村から出るなら気をつけたほうがいい」
「あ、はい。ありがとうございます」
素直に頷いて、朝食を頂く。意識すると拡大される時計を見て、午後にはログアウト、と心に決めた。今日もまた村でログアウトすることになるが、次こそは最初の町へ戻りたい。ハシュラ程度ならスキルがなくても倒せたが、先ほどの魔獣には注意が必要だろう。逆説的に考えると、この話の流れはクエストの予感もするが……何分、時間が足りない。ぺろっと朝食を平らげて、ユーナは早速壁と向かい合った。
再度、ラヴェンデルと配達の仕事の紙が貼り直されている。さすがに同じものを繰り返すのもアレだし、と視線を巡らせていく。変わり映えのしないラインナップを流し読みしていき……何と、村長からの依頼を見つけてしまった。
――この依頼を見た旅の方、ぜひお話を伺いたいので当方まで来られたし。報酬、銅一枚。村長ドルフ――
村長の家は、村の奥のほうに建っていた。他の住民の家の倍ほどの大きさだから、一目で分かるとクラベルは教えてくれたが、その通りだった。村の集会所が隣接しているためだという。
家の前、玄関までの通路に沿って柵がめぐらされており、中では鶏が放し飼いになっていた。小屋を掃除しているNPCがこちらに気付き、足早に駆け寄ってくる。
「あんた、旅の人だね? もう来てくれたのかい」
その顔を見て、ユーナは驚いた。つい先ほど会話したばかりの宿の女将と、よく似通った老年の女性が問いかけてくる。それに気づいて、更に彼女は笑みを深めた。
「娘の宿を贔屓にしてくれてるんだね。ありがとうよ。さあ、入って。年寄りが話を聞きたがって、もう昨日からうるさいんだから」
村長の妻は、柵の入り口、雨水を貯めている水がめから柄杓で手をさっと流し、前掛けで拭いながら柵から出てきた。ユーナに付いてくるように促し、玄関の扉を開いて中へ怒鳴る。
「ほら、お待ちかねのひとが来たよ!」
中に入ると、そこは大きめの台所だった。
奥と、入ってすぐ右手に扉があり、右手のほうは風が抜けるように開かれたままになっている。そちらから、人影が現れた。
「……そんなにでかい声を出さんでも聞こえとる。よく来てくれた。儂がドルフじゃ。エネロの村長をしとる」
クラベルは母親に似たのだろう。殆ど白い髪に、ところどころ黒っぽいものが混じる髭面の老人が、かくしゃくとした足取りでユーナの前に立った。自身のことをどのように言えばいいのかがわからず、とりあえず会釈して依頼の紙を差し出す。
「おはようございます。ご依頼を拝見してまいりました、ユーナです」
「これはこれは……」
ユーナのあいさつに相好を崩し、目を細めたところはまさに好々爺である。歓迎された様子でも難しい話ではなさそうに思って、ユーナも安堵した。
「可愛らしい娘さんじゃの。うちの孫の嫁にちょうどいい」
続いたことばがとんでもなかった。
凍り付いたユーナを察し、村長の妻は奥の扉を開けて促す。
「集会所だと広すぎるだろう。こっちにおいで。ホントにもう、すまないねぇ。ちょっとボケが入りかかってるんだよ」
「まだボケとらんわい」
「町でちゃんと嫁もらったって、この前手紙来てただろ?」
「フン、どこのあばずれだか知れたことか」
なるほど、こういう社会設定なのか。町と村の距離感やありきたりな男尊女卑を感じながら、ユーナは促されるままに扉をくぐる。そこは居間になっていて、暖炉の前にテーブルや椅子が並べられていた。壁には織物がかかっていて、素朴な農家の家庭らしさがあふれている。
先に村長がお誕生日席に座った。村長の妻が角の椅子を引いてくれたので、ユーナはそこに座る。妻はそのまま台所へと出て行った。
「さて、聞かせてもらいたいことがあっての」
村長が切り出した話は、こうだった。
ここ最近、旅行者が急増しているエネロだったが、どうも旅行者達の目的はエネロ自体にないようだ、というところまで、村長は理解していた。何と言っても、娘の経営する宿の依頼の停滞ぶりは、筒抜けになっているのだろう。旅行者が村の依頼に見向きもしない現状を憂いているようだった。
もちろん、ユーナには原因がはっきりわかっている。
今、村にいる旅行者で、ある程度レベルの高い者が狙うのは、別荘クエストである。カードルの印章を狙うほどとなると、そこそこお金にも困っていないはずだ。当然宿の貼り紙など見向きもされない。ユーナは偶然と運でそこそこの大金を稼げてしまったわけだが、もっと前に進んでいる旅行者はこの比ではないだろう。報酬の安さとかかる時間を思えば、新規旅行者に賭けるしかなさそうだった。だが、新規旅行者も足止めを受けている可能性が高い。例の森狼王クエストの件である。恐らく未だに惑わす森で惑っている初心者が一定数はいるに違いない。そして、新規旅行者がそもそも参入できない現実問題も浮かんだ。未だにVRユニットが品薄であるために、遊びたくても遊べない状態にある人達がいる気がする……。
「もう少し、時間が経てば、もっと依頼をこなすひとも増えると思います」
「それはいつじゃ?」
「えーっと……」
ニュースでは、だいたい一ヶ月後には再販するとかなんとか言ってたような……とは思うが、現実の一ヶ月と、幻界の一ヶ月では時間の経過が違う。計算ができずに、ユーナは視線をテーブルに落とした。そして、頭を切り替えて提案する。
「結構先だと思います。だから、それまでのあいだ、というより、これからずっとのお話なんですが、報酬を見直してみては如何でしょう?」
「依頼のか」
「はい。平たく言うと、どの依頼の報酬の金額も安すぎるんですよね」
本当に身も蓋もなく、正直にユーナは話した。
そして、安い依頼を請けている時間の余裕が、実は旅行者にはないという話に、村長は大きく目を開いた。少し白っぽい。彼は大きく溜息をつき、頭を抱えて項垂れる。
「見ての通り、食うに困らず寝るに困らずな生活ではあるが、決して豊かとは言えん村じゃ。報酬を増やしたくともない袖は振れん」
「いえ、お金じゃなくてもいいと思います。ほら、こういうのとか無理ですか?」
ユーナはカードルの印章を取り出した。
視線を上げた村長は、その印を見てぽかーんと口を開ける。
「……ユーナとか言ったな。おぬし、それをどこで……」
「別荘です。いえ、今はそっちのお話がしたいんじゃなくって、その、付加価値をつけられないかなって」
何か特典をつけてしまえば、その特典目当てにがんばる人が出るのではなかろうか。
どんなものが特典であれば、旅行者が釣れるのか。既に転送門を開放しているひとたちを惹きつける力のあるものは何か。
「紹介状とかどうですか?」
壁に貼られた紙を見る限り、識字率が高いことは分かった。村長は間違いなく文字が書ける。ならば、どこかのクエストか次の町あたりで使えるかもしれない的な紹介状を書いてもらえたら……貴族ではないにせよ、価値が生まれるのではないかと思った。この手紙を持った人は、地道に働くことを知っている人であると、伝えるだけだとしても。
「転送門の開放はこの村限定ですが、紹介状は様々な影響を及ぼすかもしれません。簡単には渡すことができないでしょう。その分、心を込めて働いてくれるのではないかと思うんです」
幾度も村長は頷いた。細めていた目を一層細め、ユーナを優しく見つめて礼を口にする。
「ありがとう、ユーナ。エネロのために、ありがとう。とてもいい話じゃった」
差し出された手のひらには、銅貨が一枚載せられていた。
そして、視界一杯に広がる幻界文字。
――Congratulations on quest clear!! Open the gate of Enero!
エネロ転送門、開放である。




