地道に行こう
幻界では既に夜が明けていた。先ほど現実でたらふく食べたというのに、全く無関係に空腹を訴える体とステータスバーを宥めるべく、食堂で軽い食事を摂る。まさにブランチという時間帯だが、先日の朝と異なり、そこそこ食堂は賑わっていた。おそらく、ゴールデンタイムだからだろう。旅行者のログイン率が高そうだ。
本日の予定はエネロ転送門開放クエストと一般的に呼ばれる中での、お使いクエストである。手始めに、女将に訊いてみた。
「転送門ねぇ……あれは村長の管轄だけど、変なのに許可を出すと変なのがやってくるから、簡単には許可しないよ。元々、貴族とか、行商人とか、神官さまとか、村にとって大事なひとたちが簡単に来られるようにって作られてるものだからね。お客さんは旅の人だろう? すぐ次に行くなら許可なんていらないんじゃないのかねぇ?」
少々疎ましげに、逆に聞き返されてしまい、ぐっと言葉に詰まる。が、ユーナの表情が強張った様子に、女将は打って変わって愛想よく笑う。
「どうしてもって言うんなら、お客さんは結構ごひいきさんだからね。特別にいいコトを教えてあげよう」
長期滞在に、女将もユーナを覚えてくれていたようだ。
「あれ、見てごらん」
指し示されたのは、宿屋の入り口近くにある壁である。今も数枚の紙が貼られているのが見えた。
「村でね、自分たちで手に余って誰かに頼みたいことはああして貼り出すようにしてるんだよ。うちは唯一の宿だから、いちばん旅の人が来るからね。まあ、小さな村だから、依頼料なんて多くて大銅貨程度なんだよ。たまに村長が畑を荒らす魔獣が居座ってる時とかははりこんでるみたいだけど、今はなくってね」
女将はそして、物憂げに溜息をついた。最近、宿に客が増えたものの、貼り紙の依頼を取っていく旅行者が、殆どいないそうだ。食糧や装備の修理をしてはすぐに村を出ていってしまう。以前は貼った端から取られていくこともあった依頼だが、今となっては増える一方だと。
「額は小さいが、旅してるなら物入りだろう? 飯代程度にはなるものばかりだよ。村の連中を助けてくれる旅の人、となれば、きっと村長も無下にはしないよ。あたしも、お客さんが一日でも長く宿に泊まってくれるのは大歓迎さね」
貴重な情報に礼を言い、ユーナは早速貼り紙を見に行く。幻界文字で書かれているはずなのに、不思議と読めるのはどういう仕組みだろう。そう言えば、看板も読めたっけ……と思いながら視線を巡らせた。荷運び、建物の修理、回復神術の求め……と順番に眺めていると、花の絵が描いてある依頼に目が留まる。
村の周囲に自生する薬草ラヴェンデルを採取し、宿の食堂へ届けてほしい。
三十本一束、銅一枚。三束以上の場合、食事もサービス。詳しくは宿のクラベルまで。
見覚えのある花で、一応確認するために貼り紙を取る。新たな客を迎え入れ、鍵を渡し、手が空いたばかりの宿の女将に声をかける。
「度々すみません。この件についてお話を伺いたいのですが、クラベルさんはどちらにおいででしょうか?」
「やだよ、お客さん。クラベルっていうのはあたしのことさ」
依頼主に面会を頼むのだからと丁寧に切り出したユーナに、笑って自身の豊満な胸を拳で打ち、女将クラベルは答えた。その瞬間、頭上にあった「宿の女将」という緑の呼称が「宿の女将クラベル」へと変わる。
「ご、ごめんなさい」
「いいんだよ。で、ラヴェンデルを取ってきてくれるのかい?」
「えーっと、これって、青っぽい紫色しています?」
「そうそう。これだよ」
僅かに青みを帯びたような黒一色で描かれていたために、念のためにユーナが問うと、クラベルはあっさりと頷き、宿の受付後ろの壁に飾ってあるドライフラワーを指さす。既に乾燥しきっているが、彼女の見知ったものと同じだった。
「村の中に生えてたのは、もう取り尽くしちゃってね。悪いんだけど、外で取ってきてほしいんだよ。旅行者なら、簡単だろう?」
ユーナにとっての村の周囲は、全く魔物に出会わない空間だった。別段危険でもなさそうだが、村人にとって村を出ることは命がけなのかもしれない。依頼を請けて、ユーナは早速商店へと向かった。まずは鋏だ。店主シプレスに頼むと、ちゃんと洋鋏が出てきてホッとした。あと、束にするための麻紐も購入する。
広場に出て、門へ向かう。まだ日が高いので、開きっ放しになっている木製の門。今は人影が二つあった。
「あ、この前はお世話になりました」
一人は、先日、森狼王クエストの折、明け方立っていた門番だった。細い槍を片手に笑顔で応えてくれる。もう一人には見覚えがなかったが「じゃあ、あとは頼むな」と言って、すぐ広場のほうへ歩き出してしまった。ひょっとして、交代の時間だったのだろうか。
「いえいえ、お出かけですか?」
「はい、ちょっとラヴェンデルを取りに」
「クラベルさんが欲しがっていましたね。森側の塀に割と生えていますよ。反対側はもう少ないので、たくさん取るなら森側がおススメですが……たまに魔獣が出ますので、気をつけて」
遭遇率が低いだけだったようである。森にさえ入らなければ大丈夫だと思うし、いざとなれば村に駆け込めば門を閉めますからと安全を請け負ってくれたので、少し気が楽になる。レベルは上がっているのだから、短剣で突き刺すだけでも立派な攻撃になるはずだ。もっとも、どれくらいのダメージが出せるのかがさっぱりわからないので、どうせ出てくるなら最弱ラインでお願いしたい。
一人で門を出るのは初めてで、ちょっとドキドキしながら、ユーナは森側の壁伝いに歩き出した。途端に立ち止まる。
灰色で、殻がたくさん連なっている、丸っこい虫。
小さい時はよく遊んだ……いやいや、こんなに大きくなかったよ!
ユーナの拳二つ分より大きい、「ハシャラ」と表示された虫に、思わず振り返る。未だに見送ってくれていた門番が、槍を握っていない手で拳を握り、大きく頷いた。声なき応援にもう一度ハシャラを見る。
……これ、スルーしていいかな……。
塀のすぐそばで、地面にべったりくっついているだけだし。
「村に近いハシャラは成長すると厄介なので、駆除願います!」
ユーナの背中を押すように、門番が声を上げる。
え、これもっと大きくなるの?
腐った海にいるアレを想像したが、こちらは目がない分意思疎通もできそうにないし、塀を壊してしまいそうだ。心を鬼にして、経験値に変えることにする。
ユーナは短剣を引き抜き、上から突き刺そうとして、動きを止める。灰色の殻が、ユーナの想像通りの代物なら、そんなに硬くはないと思う。思うが、念のためと逆手に持っていた短剣を持ち替え、ハシャラの下、地面との隙間に先端を差し入れて、ハシャラをひっくり返した。殻が地面のほうを向き、ころころと揺れている。無数の足がうごめいていて気持ち悪かった。触りたくなんてないが、仕方ない。覚悟を決めて、足のどまんなかへ短剣を突き入れる。一瞬でハシャラは砕け散り、あとには茶色の小さく丸いものが残された。
「やりましたね! それはハシャラの糞で、いい肥料になりますよ!」
いつの間にか、門の前ではあるもののかなりユーナ寄りになった門番が、声を張り上げる。そんな戦利品いらない……。素手で触りたくなくて、ユーナはいつかのハンカチサイズの布を取り出し、くるんで道具袋に入れる。この布も一緒に売り払おうと心に決めた。
ハシャラ程度なら、簡単に倒せる。
それがわかっただけでも僥倖だろうと、気を取り直して歩き始める。振り返っても門番が見えないくらい離れたところから、ようやくラヴェンデルがぽつぽつ生えているのが見つかった。アロマテラピーにはまっていたころの母と、買い物途中で寄った店で嗅いだことがある。その匂いを懐かしく思いながら、ユーナは早速切り始める。どれも若い株のようで、ドラマで見た富良野の畑のように、一面にたくさん咲いていたりはせず、あちこちにほんの少しずつ咲いているのである。一本一本、丁寧に切り取り、三十本をまとめて束にするころには、もう塀よりも森側に近かった。途中、何度かハシャラを見かけたので、この辺りはハシャラが多いのかもしれない。
惑わす森の一角を切り拓いたのだろうか。
それとも、森がこの辺りまで侵食してきているのだろうか。
未だに幻界の歴史に疎いユーナには判断がつかず、余りに近い距離に驚くほどだ。自分たちが歩いた道筋では、だいぶ森と村に距離があったように思えたが、おそらくアシュアたちは森を抜けることを優先していたのだろう。地図の色合いで、森と森の外がわかるような気がした。
太陽が、中天にかかっている。
昼食はもういいとしても、夕食代を目指していたので、少しショックである。まだ時間がかかりそうだ。中腰での作業はそこそこ疲れる。疲労度がじわりと減ってきている。
ふと、森を見る。君子危うきに近寄らずと内心呟いていたユーナだったが、視線を巡らせて目の色を変えた。まさに、畑にあるようなラヴェンデルの大きな株が、花を満開にして森との境目に自生していたのだ。あの一株だけで、あっという間に残り二束を作ることができる。
ちょっとだけなら……
そして、ユーナは危うきに近づくのだった。




