閑話 その声は届かない
【――何で来たんだよ。来なくていいのに。どっかいけって……】
ずっと頭の中に靄がかかったまま。
口の中にある牙が口内を削り、痛みによって意識がある。
そんな状態だった。
射し込む光から、彼女が現れた時に……やっぱり来てくれたんだと喜ぶ心が沸きながらも。
もう戦えない自身の、みすぼらしい姿を見せるのが嫌でたまらなかった。
まともに力が入らない。
彼女の匂いすらも、微かに感じるだけで。
その声音を聞いて……もう自分のことばは届かないと知った。
「ホント、生きててくれて、よかった……」
【――ごめん、ユーナ……】
伸ばされた腕に、そのまま包まれることができれば、どれだけしあわせだろうか。
ことばが通じないのなら、せめて何かを遺そう。
この時まで自我を保たせてくれた彼女の首飾りを返して、願わくば、自身が泉下へ向かっても、欠片でいいから、ユーナの傍にいたかった。
そう。
だから、これしかなかったんだ。
森狼王の牙を使って、自分の牙の根元を穿ち、へし折る。
幻魔香のおかげなのか、痛みが突き抜けすぎているのか、ただひたすら重いと感じる痛みと衝撃になっていた。
汚らしい自分へと、それでも手を伸ばす彼女は、意図を汲んでくれた。一瞬抱きしめた腕が、すぐに離れかかり……待って、ととっさに唸った。
通じないはずのことばを、ユーナは正しく読み取った。
彼女の動きが止まったのを見て、その傍にいたくて身体を起こす。あふれそうになる血が、どんどん喉のほうへ流れていく。まだだと何とか飲み込むのは堪えた。
膝の上に頭を載せると、ユーナは自身を引き寄せるように毛皮を握った。
だから、ようやく、渡せた。
「――あのホルドルディールとの戦いで、そいつ、背骨やられたんだ。もう歩くことすらできない。わかったんなら、とっとととどめさしてやれ。これ以上は苦しむだけだ」
【ユーナにできるわけないだろ。だからとっとと殺しておけばよかったんだよ】
紫の髪の従魔使いのことばならともかく、ユーナに自分のことばはわからない。
なのに、彼女は怒った。
一緒に戦えと命じることばに、もう応えられないのが悔しかった。
口内を傷つけ、その刺激によって意識を保っていたのだが……牙を一本へし折った痛みすらも、もう遠い。
幻魔香のせいか、血を流しすぎたのか、背骨だけではない何かが影響しているのか。
とにかく、眠かった。
これで終わりかなと、そんな気がした。
それでもユーナを見ていたかった。声を聞きたかった。これだけ彼女にくっついているのに、その感触すらあやふやになっていく。
彼女が消え去った時、失くしてしまえばよかったと思った命だった。
でも、生きていてよかった。最期に会えた。
できれば、従魔の宝珠にでもなって、ユーナの役に立てたらいいのに――。
その願いは、叶わなかった。
ぐずぐずと泣きながら、延々とおれの主は命令してくる。
「もう……絶対、先に死んじゃったりとか、あきらめるとか、ダメだからね……何があっても、生きるために、がんばってくれないと……許さないんだから……アルタクスとの融合召喚、まだ一度もわたし、ちゃんと使いこなせてないし……これからもっと、レベルアップして、わたし、強くなるんだから……アルタクスだって、一緒に、強くならないと、だからね、聞いてる!?」
【聞いてる】
「話とかも、ちゃんと聞くから……今度はほらナイショ話ってちゃんとアークたちに断り入れて、お部屋で話そうよ……我慢して、黙っとくの、ナシ……嫌だなとか、つらいなとか、こういうとこ気をつけてとか、そういうのもちゃんと言って!」
【うん、言う】
「わたし、従魔系しかスキル振ってないし……槍スキルだってレベル一のままだし……アルタクスがいなかったら、回避とかもまともにできなくて、ホントお荷物になりかねないし……だから、アルタクスがいないと困るの! アルタクスが必要なの、ねえ、ちゃんとわかってる!?」
【わかってる。ずっと一緒にいるから――だからもう泣くなよ、ユーナ】
目、溶けてないか?
ぼろぼろと泣き続けて、紫のはずの目が真っ赤に見えてきた。
首の根を押さえるように抱きしめられてしまい、頬から首筋までしっとり毛皮が濡れていく。
本当に、参った。
もうどうにでもしてくれ。
「ゆ、ユーナちゃん?」
「はい……」
「スキル、戻ったの?」
「いえ」
ひたすらおれに話し続ける様子に、遂に青の神官が助け舟を出してくれた。素直に応えるユーナだったが、その内容に視線が遠くなる。
――こいつ、おれの返事聞こえてないくせにしゃべってるのか……。
共鳴スキルが戻ったらと思えば、それはそれで怖くなる。
「キュィ」
【我が主は大層お喜びと見える。耐えよ】
不死鳥幼生のことばが重い。
同じ従魔であってもこちらのことばがわからないはずの不死伯爵は、自分たちに背を向けていた。窓の外を眺めているのだが、細かく震えている。笑うなよ。
「そ、そっか。じゃあ、えーっと……とりあえず、アルタクス、入れるかしら?」
アシュアのことばに合わせて、視界に文字が浮く。文字自体の意味はわからないが、何故か、その意味はわかる。PT加入に同意を示すと、ずらりとPTMの名前とステータスが並んだ。
「こっちのことばは通じてるみたいね。よかった」
「従魔だからな。当然だろ」
安堵するアシュアを、モラードは鼻で嗤った。
瞬時に凍てつく空気を感じる。
「さすが青の聖女さまだよねぇ、ちゃんと治せるんだぁ……ありがとねぇ」
未だに鞭に巻かれたルーファンがふんわりと礼を言う。
今は、その声を聞いても何も思わない。だが、あの小さなホルドルディールと対峙していたルーファンから放たれた「テイム」は、確かに自分を奪った。
それは、おれの思考を塗り替えた。
幻魔香の効果で、ユーナを失ったが故の様々な感情がすべてどろどろに溶けて混ざり合い、何もかもわからなくなっていた。
ただ、ホルドルディールだけは、何があっても絶対に許せなかった。自身の心に応えた地霊術が、奴を打ち倒した感触は残っている。
光が砕けた時、幻魔香の匂いが薄れた。戻ってきた思考に突きつけられたものを……とっさに拒絶したように思う。
ただ、名を差し出せと。
新たなる名を求めよと。
ことばではなく……従魔となるべく、ユーナを探し求めたあの時のような感覚が支配を許容するように求めていた。そこには嫌悪感しかなかった。
当然だ。
おれの名前はもう決まっている。
翡翠の小鳥は濡れた羽をばたばたとさせている。
その羽に顔を打たれて、ルーファンは眉間にしわを寄せた。そして、うにうにと動き、モラードを見る。
「あー、もぅ、そろそろほどいてよぉ」
「……ほどいてもいいのか?」
モラードの問いかけの先は、ユーナだった。
未だにおれを離そうとしないまま、不思議そうに彼女は首を傾げた。思いっきり髪が目に入りそうになる。
「え、ほどかないの?」
「……できれば、話し合ってもらえると助かる。こいつの命がほしいなら、それはそれで仕方ないが」
この上もなく真剣な表情でモラードは言う。
ああ、そうかと思い至った。
ユーナの死の責任を、取ろうとしているのか。
「仕方ないぃってぇ……どういう意味よぉ。アタシ、殺す気ぃ……?」
ルーファンの声音はどんどん先細りしていく。
モラードは小さく溜息をついた。
「んなわけねえだろ。その時は担いで逃げてやるさ。
まあ、青の聖女さまはそんな血生臭いこと、要求しないだろ」
「わたしもしないしっ!」
肩を竦めて見せるモラードに、ユーナは怒鳴った。まあ、そうだよな。『命の神の祝福を受けし者』のくせに、何よりも命を大事にするんだ。そのことを愚かだと思うし、誇りにも思う。
顔を顰め、剣士が確認した。
「……いいのかよ、ユーナ」
「ホルドルディールを釣ってユーナたちにけしかけたなら、立派にMPKだよ?」
アシュアのとなりで、不愉快そうに弓手が続ける。
そのツッコミに、ルーファンが視線を泳がせた。その行動、怪しすぎる……。
「あれはぁ……」
「HP削れてたホルドルディールが、単純にHP吸収のためにわたしたちを見つけちゃったっていうだけだし……アルタクスだって、気付いてたんだけど、わたし泣いてたから対応遅れちゃって」
ことばを濁すルーファンよりも、そのHP吸収で命を散らした自身の主のほうが性質が悪い気がする。
怒りが霧散している様子のユーナを見ながら、紅蓮の魔術師が指摘する。
「それにしたって長い釣りだろうに」
「うん、それはそう思います」
「うううぅ、あとちょっとぉって思ったら止まんなくってぇ……ごめんねぇ」
峡谷から王都まで、かなり距離がある。その中を隠蔽と攻撃を繰り返したと思えば、相当な忍耐力だ。普通はあきらめるだろう。
ルーファンもさすがにその指摘には謝った。碧玉はまともにユーナと向き合っている。若干、床に倒れ伏せているルーファンのほうが下だが。
ユーナは、更におれを引き寄せた。紫のまなざしが向き、その迷うような素振りに、軽く頬を舐める。
任せる、という意思は伝わったようだ。
ユーナはルーファンのほうへと向き直り、二つ注文をつけた。
「アルタクスはわたしの従魔だから、返して。あと、幻魔香を使わないでいてくれるなら……わたしはそれでもういい、かな」
深々と、一角獣の面々から溜息が漏れる。
不満たらたらな様子に、何となくその気持ちもわかる気がする。
だけど……うん、おれももういいかな。
ユーナ、泣き止んだし。
ルーファンと話をしていく中で、だいぶ落ち着いたようだ。
しかし、納得いかないのは、一角獣だけではなかった。モラードもまた道具袋から幻魔香を仕込んだ小袋を、ユーナに差し出す。
「アルタクスは、最初からずっとお前の従魔だろ。
ま、どうせ俺たちはテイマーズギルドへは戻れない。ギルドメンバーじゃなければ幻魔香の購入はできないからな。手持ちは全部渡すから、あとは好きにしろ」
「……何で? テイマーズギルドに、戻れないの?」
本気で訊いているユーナに苛立ちながら、ご丁寧にモラードは説明した。
「あのなあ……幻魔香について、そっちの商人が王都のテイマーズギルドに報告上げたんだと。まあ、アルタクスのおかげでルーファンとの契約も終わったからな。戻れば何されるかわかんねえし、しばらく王都からは離れるしかねえな」
「あー、うん……そうだよねぇ。アタシもあんましあのギルド好きくないから、モラードと行こぉっとぉ……」
「はあ!?」
ルーファンとモラードが揉め始める。
テイマーズギルド自体から縁遠くなっているので、その話はよくわからなかった。
「逃げるなら、お早めに。連中、ここを嗅ぎつけましたから」
いつのまにか姿を見せた交易商が、淡々と告げる。その若葉色のまなざしがこちらへ向き、いつもとは違う笑みを浮かべた。
シリウスが憮然として問う。
「お前、どこいたんだよ」
「外で、ちょっとばかりお話を。ユーナさんと姐さんがいて、アルタクスが戻ってこないわけがありませんからね。
――あなたがたに関してはけじめをつけてもらうと伝えてあります。一応、命までは取らないと断りは入れてありますからご安心下さい。まあ、あちらは聞く気、なさそうでしたが」
どこに安心できる要素があったのかがわからない。
だが、それでモラードにとってはじゅうぶんだったようだ。
「まったく、甘いんじゃないか? お前ら」
「テイマーズギルドへ訂正は入れませんので、いつになればほとぼりが冷めるかはわかりませんよ。まあ、そう遠くはないでしょうが」
「何だよ、それ……」
「時間切れです」
いつもの笑顔に切り替えたシャンレンの声に合わせ、階下から怒号が響いた。
剣士は抜き身の剣を肩に担ぎ、魔術師を見る。
「暴れ足りないよな?」
「敵なら、ちょうどいい」
連れ立って、部屋の外へ出ていく。
交易商はにこやかに道を譲った。
「屋根越しに、通りに降りられるだろう」
窓辺に佇む不死伯爵が、ふたりを促す。
モラードは鞭を引いた。悲鳴を上げながら、くるくるとルーファンが宙を舞い、あっさりと床に落ちる。それでも起き上がっていたので大したものだ。
それでもふらふらするようで、緑の髪を押さえながら、彼女はこちらを見た。
「ん、ほんのちょっとだったけどぉ……一緒にいられてよかったかも。バイバイ、アルタクス」
白い手袋に包まれた手を軽く振り、ルーファンは身を翻す。
モラードが、窓から飛ぶ。ついで、ルーファンも追った。翡翠の小鳥がよたよたと飛んだと思えば、即、落ちていく。
ただ眺めていただけなのに、ユーナの腕の力が増す。
紫の目が不安そうに揺れていて、おれは息を吐いた。そして、細い体にもたれかかる。
早く共鳴スキルが戻ればいい。
そうしたら、繰り返し伝えよう。
おれの主は、ユーナだけだと。




