応えよ、わが従魔よ
「アルタクス――!」
ユーナが地狼を呼ぶ声に。
彼は、反応を示した。
身体を伏せたままユーナを見、そして。
――グルォゥグォゥ……
唸り声を、上げる。
威嚇する、ややくぐもった低い唸り声に、ユーナは目を瞠った。
「アルタクス……?」
呼びかけても、その唸りは止まない。
幻魔香のせいだろうか。
だからこそ、ユーナのことが、わからないのだろうか。
今、スキルは一切使えない。スキルアイコンの沈黙は、デス・ペナルティによるスキル使用不可をユーナに伝える。彼が何を伝えたいのか、共鳴スキルを使えないユーナには何もわからなかった。
それとも――怒ってる?
ユーナは膝を落とした。伏せたままで、頭すら上げずにこちらを睨み、唸り続ける地狼と視線が合うように。
ユーナの動きに合わせて、彼の黒々としたまなざしがついてくるのがわかった。確かに、地狼はユーナのことを認識している。
もうひとつ。
地狼の頭上には、自分がつけた名前が従魔の印章と共に在る。
そのことが……泣きそうなほど、うれしかった。
「ごめんね、わたし……今、デス・ペナルティでスキル使えなくて、すぐにアルタクス喚ぼうとしたんだけど、従魔召喚も失敗しちゃって喚べなくて……いっぱい何か話してくれてるのかもだけど、それもわからなくなってるの……」
ユーナにアルタクスの意思がわからずとも、アルタクスにはユーナのことばがわかる。実際、ユーナが話し始めた途端、彼は唸るのを止めたのだ。
ユーナのことばを聴くために。
行動のひとつひとつが、ユーナにアルタクスの気持ちを伝えてくれる。
「ホント、生きててくれて、よかった……」
ユーナは床に膝をつき、アルタクスへ手を伸ばした。
もうだいじょうぶだよと抱きしめるために。
だが、その瞬間――地狼は牙を剥いた。
その顎の奥で、何かが煌いた。
鈍い、聞くに堪えない骨を断つような音が室内に響き渡る。
「ユーナ!」
「来るんじゃねえよ!」
中へと入ろうとしたセルヴァを防ぐべく、モラードは扉のない入り口を塞ぐように足を掛けるべく縁を蹴る。
「別れくらい、させてやれよ……!」
セルヴァの背後で、抜剣したシリウスが手を止めた。
そのことばを聞いたアシュアの喉が鳴る。
メーアは、目を瞠ったままかぶりを横に振った。
紅蓮の魔術師は術杖を握る手に力を込めた。
「……何? 何してるの、ねえ」
すごい音だった。それは、アルタクスから発されたことは確かだ。
口の中? 何かまた、頬張っているのだろうか。勝手に戦って、戦利品をため込んでは渡してくれていた、幼い、あの頃のように。
アルタクスは震えていた。目を閉じ、荒く、鼻で息をしている。ユーナはその頬を撫で、頭を撫で、背を撫でた。べっとりと手に何かがつく。すると、不思議なことに自分のステータスが回復した。グレーダウンしている部分は変わらないが、減少していた疲労度が癒されていく。そのことで、回復薬だとわかった。しかし、HPバーは濃い橙にまで変化したままだ。しかも、エリキエムの毒を受けた時のように、徐々に削られている。よほど怪我がひどいのだろう。モラードとルーファンは、回復薬が効かなくなるほどに回復しようとはしてくれていたようだ。
アシュアはすぐにたどりつく。そうしたら、痛いのもつらいのも、治してあげられる。
ユーナは、アルタクスの身体に腕を回した。すぐだからね、と励まそうとした。
が、モラードのことばに、振り返る。
「別れって……?」
ほんの少し身を離しただけだった。
しかし、それを嫌がるように、地狼はまた唸った。
ユーナは再び、アルタクスへ視線を向ける。
地狼は細く目を開き、こちらを見ていた。そのことに安堵する。
続けて身を起こそうとした地狼の動きを、ユーナは制した。
「あ、動いちゃダメだってば。怪我、ひどいのに……」
アルタクスは聞かなかった。
前脚を踏ん張り、頭を上げ、ユーナの膝の上に乗せる。膝枕してほしかったのかとようやく理解し、ユーナは地狼を引き寄せた。実際には重いので、頭の位置を少し変えられた程度だが。
甘えてるのかなあ。かわいー……。
抱きしめたいのだが、この姿勢では地狼は呼吸困難確定である。ただでさえ息が荒いのにと、ユーナが姿勢を整えた時。
その膝へと、地狼は吐き出した。
血塗れの、首飾りと。
……もう一本の、牙を。
「何……?」
失ったと思っていた首飾りだ。
アシュアたちと初めて出会ったあの森で、初めて倒したフィールドボスの希少な戦利品の森狼王の牙と、宝玉と、革紐を使って。
紅蓮の魔術師が、心を込めて作ってくれた品だ。
もともと一対だった牙のうち、一本は融合召喚の触媒に使った。
残ったのはもう一本だけで、それでも共鳴をおぼえた瞬間に、アルタクスのことばを届けてくれた大切なものだった。
指先に触れた牙は、まだあたたかかった。真っ赤な血に、真っ白な牙。鑑定が働いたのか、「地狼の牙」と表示が出てきた。牙がなかったら、戦えないではないか。問答無用でいつも宙に放るくせに、どうやってその背に乗せるつもりなのか。
「いい加減わかれよお前! 形見に決まってんだろ! もう戦えないってそいつちゃんと自分のことわかってんだよ!」
モラードが、何か言っている。
「――あのホルドルディールとの戦いで、そいつ、背骨やられたんだ。もう歩くことすらできない。わかったんなら、とっとととどめさしてやれ。これ以上は苦しむだけだ」
その意味を、理解したくなかった。
ずっと抱えていたものを吐き出し、今はもう、地狼は舌を出して呼吸をしている。視線は、それでもユーナに向いていた。小さく、唸り声が上がる。まるで、モラードのことばを肯定するかのように。
ユーナは怒鳴った。
「何で!? どうしてあきらめちゃってるのっ!?
幻魔香で弱気にならないで!
そばにいて、どこにも行かないで! アルタクスは、わたしの従魔なんだよ!?
ずっとこれからも一緒に戦ってよ!
一緒に帰るんだよ、一角獣の酒場に!
――ねえ、応えてよ……アルタクス!」
呼吸が短くなっていく。どんどん重たげに、地狼の瞼が下がっていく。
ユーナはまとわりつく甘さに苛立った。
暗い室内に、明かりはない。
何もかも、こんなところにいるからだ。
ユーナは道具袋に手を入れた。
握り締めたものは、アニマリートから預かった、彼を癒す術のひとつだ。
スキルは使えない。
だが、願いなら。
ユーナは、その小瓶を水霊の指輪へと触れさせた。
――一滴の雫が、波紋を生む。
ユーナを中心に、その波紋はすべてを浄化していくようだった。
まとわりついていた甘ったるい匂いが消え、全身を清らかな水が洗い流していく。
彼女の願いが、室内すべての幻魔香の効果を消し去った。
モラードは足を下ろし、肩に担いでいたルーファンを床に落とした。
その衝撃で、ぶふっと翡翠の小鳥が彼女の口から飛び出す。
「信じなきゃ起こるわけないでしょ、奇跡なんて」
青の神官の声に、セルヴァは一歩下がった。紺青と碧玉が交差し、その視線が窓を向く。そのまま、彼女はユーナの傍へと急いだ。
セルヴァもまた室内へ入り、窓を開く。その瞬間、不死鳥幼生が飛び込んできた。そして、射し込む光を受け、不死伯爵が姿を見せる。
ユーナのとなりにアシュアは身を屈め、白銀の法杖を地狼の上に翳す。白い神術陣が彼を中心に描かれた。
「ユーナちゃん、しっかり抱いててあげてね。カードル伯は窓くらいまで下がってて。危ないわよ」
「――はい」
「承知した」
ユーナは頷いた。その手は地狼の頭を抱くように、回されている。
不死伯爵が不死鳥幼生の傍にまで下がったのを確認し、アシュアは白の媒介を片手に握り、祈りを捧げた。
「……命の神よ、わが手に宿れ癒しの奇跡!」
白の筐体が砕け散り、次いで内部の黄色の宝玉が光へと融け、癒しの神術陣へと力を注ぐ。
しかし、その神術陣は発動しない。
アシュアにはわかっていた。
アルタクスの負った傷が深く、多岐に渡るため……神術陣は、このままでは癒しきれないと告げていたのだ。
よって、白の媒介をアシュアは握った。道具袋から取り出された新たなるそれを見て、ユーナは目を剥く。
――二つ目!?
「命の神よ、わが手に宿れ……癒しの祈り!」
聖属性のイレックスで作られた白の筐体が、またもや砕ける。内部には緑の宝玉があり、それもまた神術陣へと力を注いだ。
「ったく」
まだ発動しない。アルタクスの重傷度は背骨と牙だけではないということか。
小さく毒づいたアシュアが自らの法杖へと目を向けた時。
「ほどいてぇっ、モラードってばぁ!」
「うるせえぞ!」
「じゃあいいからぁ、アタシの道具袋から法杖出してぇっ!」
ルーファンの叫びに、誰もが目を瞠った。
即、モラードはルーファンの腰のポーチへと手を突っ込んだ。物理的には入らなさげな法杖が取り出され、アシュアに目掛けて投げつけられる。身動きが取れないアシュアの前へ、セルヴァが出て法杖を受け止めた。危なげなく受け取ったそれを、アシュアの足元へ並べていく。
……それは三本もあった。どれもアルカロット産の新品である。
「どいつも媒介ないとダメって言うからぁ、買ってきたのよぉ! ……足りるぅ?」
「見直した。やるじゃない、アンタ」
「……ありがとう、ルーファン」
アシュアとユーナの声に、ルーファンは転がったまま顔をそむけた。むき出しの耳が赤い。
ふたりは、心からルーファンに感謝した。
ここに在る命を救うためなら、どんな手段でも使いたい。
その気持ちが、同じものだとわかったからだ。
アシュアは、神術陣の中にある三角形の頂点に重なるように、ルーファンから預かった法杖を立てていく。神術陣を縫い留めるように、アルタクスを囲うように、それらは配置された。
そして。
「命の神よ、わが手に宿れ……わが友に、今一度、戦う力を取り戻させたまえ……命の奇跡!」
聖句により、神術が発動する。
三本の法杖を媒介に、命そのものを救う奇跡を祈り……法杖は白の神術陣へと変換されていく。重なり合う神術陣が地狼を包み込み、白い光へと変わった。
名を、呼ばれたような気がした。
泉下っていうのは、本当に痛みも苦しみもないんだな。
そう思いながら目を開くと、眩しかった。その眩しさの中に……ユーナまでいた。
かなりいいところじゃないか。
ユーナのまぼろしまであるなら、早く来ればよかった。
頭を少し起こすと、そのユーナがいきなり泣き始めた。
ちょっと待て。泣くな。
どうやら、ここのユーナにも自分のことばは通じないようだ。
ぽろぽろと落ちてくる雫を止めたくて、頬を舐めた。そのしょっぱさに……ようやく、視界がまともになった。
「アルタクス……っ」
抱きしめてくる身体の柔らかさとか、あたたかさとか。
その向こうに見える、アークエルドやアデライールが……何かを堪えるような顔をしていて。
ああ、うん。
そうか、まだおれ、生きてるのかと。
ようやく、気付いた。




