水霊
それは、あの契約の時に似ていた。ただ、霊術陣はない。
溢れた光が水しぶきへと変わる。室内へと広がる波濤を受け、後には清涼感が残った。その中心、ユーナの目前に透明な水の人魚が姿を見せる。瞬く間にそれは色彩を得、豊かに波打つ水色の髪と胸元は貝殻で飾られ、細い腕には真珠のブレスレットが煌き、尾びれは虹色を散らしていた。
楚々とした美貌が、どことなくグラースと重なる。
憂い顔をユーナへと向け、口元が動く。だが、そこからことばが発されることはなかった。
「水の眷属よ、我が炎に炙られて現れたか」
「貴女まで、炎の影響を受けずともよいものを……」
イグニスは満足げにニヤリと笑い、グラースは逆にこめかみに手を当ててかぶりを振る。
その様子に、ふたりには彼女の声が聞き取れているとわかった。
ユーナはおそらく水霊である人魚を見つめる。また、彼女の口元が動いた。どうにかならないだろうかともどかしい気持ちになるが、やはり――聞こえない。
スキルを封じられているせいだろうか。
立ち上がり、人魚と向き合う。たくさん、今まで助けてくれた水霊に、ユーナは手を伸ばした。まさに白魚のような手を、包む。
「ごめんなさい、あの、聞こえなくて」
そのことばに、人魚の表情が強張る。彼女には、自分の声は届いているようだ。また口元が動く。その手を握り返し、片方の手だけがユーナの頬に伸びた。ひんやりとした手だ。本当に、聞こえないのかと問われているのは、仕草で判った。
「スキルが封じられているからでしょう。ユーナが貴女を拒絶しているわけではありません」
「もちろんです!」
グラースの指摘に、ユーナは大きく頷いた。
この機会にと、ユーナは一息にことばを並べる。水の精霊術のスキルスクロールを得ても、スキル自体はまだレベル一のままで成長させていない。それでも、広い範囲の清めの水を扱えたり、純粋な水の水量が求めるよりも多かったり、王家の霊廟で自身を含めて状態異常から回復させてくれたのは……確かに彼女のおかけだった。
「いつも、綺麗にしてもらったり、水もらったり、無茶してるのに応えてくれたり……ありがとうございました。ホント、声聞こえてなくて、ごめんなさい……」
人魚は美しく微笑んだ。そして、かぶりを横に振る。変わらず口元は動き続けている。
だが、グラースもイグニスも通訳をしてくれるつもりはないようだ。ただ、彼女の様子を見ている。どちらかというと、厳しいまなざしで。
人魚はそれに気づいたのか、グラースたちのほうを向き、怒ったように何かを叫んでいるようだった。
そして、グラースは溜息を吐く。
「わかりました。ですが、貴女の封印を解いたところで、ユーナは今、スキルが使えません。それから、ユーナはあくまで従魔使いです。その点は理解できますね?」
人魚は一転して破顔する。そして、大きく頷くと、ユーナの手を握り直し、嬉しそうに上下に振った。
話の流れは何となく、わかるような気がした。
ユーナはグラースへと視線を向ける。未だに厳しい表情のまま、氷の美女は彼女を見返した。
「封印、解いてもらえるんですか?」
「従魔使いとしても駆け出しでしかなく、しかもただでさえ、融合召喚に振り回されていた貴女には、この水霊の存在は重いだけでした。アニマリート様は、貴女を従魔使いとして育てていくご意向でしたので、水霊の能力の高さを知れば、従魔使いとしても精霊使いとしても中途半端になりかねないと判断し、封印いたしましたが……三種の従魔を得た今、貴女が精霊使いとしての能力を開花させたとしても、問題はないでしょう。むしろ、水の癒しは彼女の言う通り、必要なものですので」
淡々と事情を語る氷の美女は端的ではなくとも、ユーナの問いかけを肯定していた。
指輪の中にいる水霊が、こうして顕現してくれただけでもうれしいのに――封印が解かれるということは、またこうして会うことができるようになるのだろうか。
ずっと、ただひたすら見守り、力を貸してくれていた人魚へと視線を戻せば、彼女はまた何かを言い募っているようだった。
「確かに、幻魔香の影響が深くなってしまえば、ただの治癒では癒しきれぬ恐れもある。アニマリート、ユーナにも幻魔香を媒介として預けておくほうがよい。この娘ならば心配はいらぬ」
「――ええ」
ギルドマスターとして僅かばかり逡巡した後、アニマリートは席を立つ。そして、先ほどの小ビンをユーナへと手渡した。そして、ようやく悟る。
人魚は、アルタクスのために、顕現してくれたのだ。
かつて、エリキエムの毒をアルタクスが受けた時、毒自体もしくは毒を含むアイテムがなければ解毒はできなかった。幻魔香の影響下からアルタクスを癒すために、必要だと訴えるために。
小ビンを握り締め、ユーナは人魚を見る。彼女は未だに何かを訴えているようだった。その姿が……薄れていく。ユーナはあわてて道具袋に幻魔香の小ビンを放り込み、手を伸ばした。だが、もはや人魚は具現化しておらず、ユーナの手は彼女の手を素通りしてしまう。
「何ですって?」
「アルタクスは……違うと?」
必死に彼女が訴えていた内容は、グラースとイグニスには正しく受け止められたようだ。透明になってしまった人魚はことばを途切れさせたのか、溜息を洩らす。その吐息すらも、間近にいるはずのユーナには感じられなくなっていた。
別れを告げるように、切なげな水色のまなざしがユーナを映す。触れることのできない両手が、ユーナの頬を包んだ。ひんやりとした水に浸された感覚だけが、ユーナに与えられている。
マルドギールと同じだ。
封印を無理にこじ開けて、姿を現したからこそ……力が弱まっている。
きっと彼女もまた。
「貴女の気持ちは受け取りました。安心して休みなさい」
グラースの声に、ようやく人魚は笑みを形作る。
そして、アニマリートに、氷の美女のまなざしが向く。主の頷きを得て、グラースはユーナに歩み寄り、手を差し出した。
「……ユーナ、手を」
促され、水霊の指輪のあるほうの手を、彼女のそれと重ねる。まるで捧げ持つかのように、人魚は自身の手をふたりの手に添えた。
水の霊術陣が指輪を中心に、複数、広がる。まるで霊術陣が監獄のように重なったそれを見て、術者であるグラース以外の誰もが息を呑んだ。それが一気に、砕け散る。
魔力灯に照らされ、キラキラと舞う水の粒子は、天気雨のように服を濡らし――すぐに乾いていく。
術者の手が離れた。ユーナは残った人魚の手と、自分の手が重なるようにそのまま動きを止める。透明な水の形さえ取れなくなりつつある人魚は、その行動に表情を緩めて見つめていた。
その触れ合いは、すぐに終焉を迎えた。
水の人魚は姿を消し、別れの挨拶に指輪へと一雫の祝福を落とす。
濡れたように煌く水霊の指輪を、ユーナはもう片方の手で握り締めた。




