無に帰す
ユーナは草地に座り込んだまま、両手で顔を覆った。
漏れ聞こえる嗚咽。微かに体を震わせて泣く主の姿に、地狼の心もまた痛む。そして、己への怒りが胸に満ちていく。
どうして、こうなる前に、何もしなかったのかと悔やむ。
ふたりでいた時間は長かった。
自我というものが芽生えてから今まで、自身のすべてが彼女と共に在った。
生き残り、主の最後まで尽くすことができる従魔はごく少数だ。そのことをアルタクスはイグニスから聞いて知っていた。雑魚ともいうべき森狼の幼生である。たとえ成長できたとしても、魔獣系の宿命ともいうべき短い命の中で、どれほど主に尽くせるのか。それが従魔としての存在意義であり、至上命題である、と。
振り返れば、己の従魔としての在り方は、問題だらけだったと思う。
最初からずっと、彼女は優しいままだった。従魔である己の気持ちを慮り、ひとりで戦わせるのではなく、傍にいることを望んだ。
従魔使いとしての最低限のスキルしか持たない主でありながら、前に出ようとするユーナを止めなかった。肩を並べて戦えることが誇らしく、本来の森狼としての動きとはまったく違う彼女との戦い方に、自分を慣らしていった。成長することでこの背に乗せることができて、どれだけ自分が喜んだのか、彼女はきっと気付いていない。
「命の神の祝福を受けし者」であるユーナは、自分の命よりも従魔の命を優先する。失うことを恐れて、従魔使いであるにも関わらず、従魔を置いて戦いに出ることすら躊躇わない。それがどれほど「おまえは要らない」と自身に思い知らせることだとは、欠片も考えていないようだった。従魔召喚があったところで、従魔の危機でもなければ彼女は自分を喚ばない。だからこそ、離れるわけにはいかなかった。
融合召喚で自分勝手に動いた時にも、ユーナは何一つ自分を責めたりしなかった。目覚めない彼女の傍で、どれだけ待っただろう。二度目の融合召喚でも同じで、自分には戦うことしかできないのだと思い知らされた。
共鳴のおかげで、自分の気持ちがことばとして伝わった時、ようやく彼女の望む融合召喚を果たせた。失敗の積み重ねが結果を生んだ。すべてを預けてくれるユーナの身体と心を守りたいと思った。いつか、彼女に自分の力の全てを任せる日が来ることを願った。
戦い、勝利するための道筋を脳裏に描くユーナと、その道を共に歩めることがしあわせだった――。
地狼は、それを探知して身じろぎした。
視線が動く。危険だと、警戒スキルが告げる方向。
やや離れた位置から、凄まじい速度でこちらへ近づく敵がいる。
単体だ。今まで出会った数々の敵の中でも、強い力を持つ部類に入る。
――このままでは不利だ。
そもそも、今は、戦えない。
戻らないと。
【ユーナ】
だが、呼んでも彼女はこちらを見なかった。
未だに身を震わせて、蹲ったままだ。
間に合わなくなるのを避けるために、彼女を背に放るべく首筋を咥えようとした。だが、近づく自分に気づき、ユーナは顔を上げた。その顔はぼろぼろで、紫が涙に曇って、栗色の髪があちこちにへばりついていた。差し出される両手を、抗えなかった。
首筋に回る両腕が、強く地狼を抱きしめた。
擦り寄る身体が暖を求めるように動いて――引き離せなかった。
「ごめん……ごめんね、アルタクス……っ」
謝る声音のか細さに、地狼は「違う」と叫ぶべきだった。
だが、縋る主に向けられたのは、ただひとつの感情しかなかった。
【ユーナ……っ】
かけがえのない相手だと、泣かせたかったわけじゃないんだと、泣き止むように宥めてやりたかった。
その気持ちが伝わったかのように、彼女の腕の力が強まる。
地狼は、一歩前へ出た。
力任せのそれは、地狼を抱きしめているユーナの背を草地へと倒す。
頬や肩に触れる地狼の頭に、紫水晶の双眸が瞬いた。
歪む視界に、玉が映る。見覚えのある、不思議な光沢を持つ、あの。
緑の霊術陣がふたりを囲うように敷かれ、発動する。
大地から突如として防壁が築かれた。だが、それが半球を描くより早く。
「アルタクス!?」
地狼の頭が、ユーナの頭部をも庇うように動く。
大地が揺らぐ。閉ざしきれなかった地壁が砕かれる音と同時に、小さなホルドルディールが地狼の背を襲う。重なった体躯が、その四肢が、主を守るべくその突撃に耐えた。
意味を為さない防壁が消え、新たなる地霊術が大地から杭を生やし、横合いからそれを地狼の背から押しのける。
身体に受けた衝撃はほんの一瞬だったはずだ。しかし、それが纏う匂いに、地狼の意識が飛びかける。奇しくも、体に走る痛みが、彼を呼び止めた。何とか前脚を動かし、ユーナの上から身体をどける。どさりと、地狼の体躯が地に伏せた。
【ユーナ……王都へ、走れ】
HPが削られ、既に橙に近い黄色にステータスバーは染まっている。
地狼は短く言い放つと、もう一度緑の霊術陣を広げた。
背骨をやられたようで、もう動けない。それなら、地霊術のほうが戦える。
だが、横たわったままのユーナの視線は、弾かれて跳んだそれに向けられていた。ホルドルディールは、球状から獣形態へと変貌している。かつて見えたホルドルディールより、どれだけ小さい個体であってもやはりホルドルディールであることに変わりはない。フィールドボスとして再誕したそれは今、怒り狂っているように見えた。既に身体中に傷を帯び、かなりダメージを受けている。装甲のあちこちが剥がれていた。
「やだぁっ、きみたちぃ、何でそこにいるのぉっ!? にぃげぇてぇぇぇぇぇっ!!!!!」
「お前バカか!?」
聞き覚えのある声が叫んでいる。
次いで、何かが飛んできて、ホルドルディールに当たって爆ぜた。鼻をくすぐる匂いは甘ったるく、まるで百貨店の化粧品コーナーを思い出させる、何かの粉のようだった。当たったのはホルドルディールであるにも関わらず、何故か緑の霊術陣が消えた。ユーナはアルタクスを見た。となりに伏せた地狼の目は、輝きを失い……長い舌が口元から出て、ぐったりしている。
ホルドルディールの咆哮が、間近で放たれる。ユーナは何とか半身を起こした。粉を浴びても、その怒りは止まない。道具袋からマルドギールを出す。ホルドルディールの尾が、弱っているアルタクスへと向く。
HP吸収だと、判った。
だから、ユーナは地を蹴った。狙う先が分かっているのだから、軌跡は読める。
マルドギールの穂先が、ホルドルディールの尾を絡め取る。だが、かつてのボスに比べて、その尾は細い。鉤爪で引っ掛けるよりも早く、するりと槍の柄を這う。振り払う間を与えることなく、尾の先はユーナの腕を伝い――その胸を貫いた。
痛みが、苦しみが、後悔が、伝わってくる。
なのに、どうすることもできない。身体はどこも動かない。
思考はどこか切り離され、意味を為さずにその光景が視界へ映し出される。
栗色の髪が、揺れた。
細い体を不思議な色合いが串刺しにして、それを宙に浮かす。彼女の手元から、短槍が落ちた。
鱗に覆われた尾から、命が吸い取られていく。
ホルドルディールに、白い服の女が攻撃している。鞭が打たれる。
それでも、彼女を離すことはなかった。
やがてステータスバーが黄色から橙へ、赤から黒へ変わり。
そして、砕け、散った。




